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墜落のガブリエル



偶像崇拝・前編






「たしかに、風邪をひかれては困りますね」
 そう言ったきり、俺を咎めない徹の背中についていく。
「……羽……」
「はい?」
 俺の独り言を聞き逃さなかった徹が、わずかに振り返る。
「羽、ないなあってさ。生えてそうなのに――」
 広い背中を見ながら言うと、徹が首を傾げた。
「私の背中に、羽ですか」
「うん。大きな白い羽」
 ふ、とその口元が微笑む。
「君の背中にはあるかもしれませんが……私には到底生えませんよ」
 そして、何もなかったようにまた歩き出す背中を見ながら、出会った頃のことを思い出した。
 あまりにも神聖で……まるで大天使だった。
 だから俺は、その時から悪魔が見えるようになったんだ。




 ――4年前。




「やだ……牛乳きれちゃった」
 母さんが台所で声を上げて、俺はパンを口に運ぶ手を止めた。
 区営アパートの2階。4人家族。
 父親に収入はなく、母さんのパート代と少しの貯金で生活していた。
 その日は、朝から暑かった。空調は去年から壊れたままだ。
 兄貴が、ダルそうに起きてきて母さんに言った。
「なに騒いでんの」
「あ、お兄ちゃん。帰りに牛乳買ってきてくれないかしら」
「はあ? めんどくせー」
 兄貴は、経済的な事情で高校中退、今はフリーターをしてバイト代の一部を家に入れている。奔放な性格で、友達の家を転々としながら何日も家に帰らないことがしょっちゅうだった。
 兄貴と目が合う。
「……空良。おまえが買って来いよ。暇だろ」
 いつも一言多い。
 けど、家計を一部支えている兄貴には頭が上がらない。
 その後ろで困ったように眉を寄せる母さんが、腫れた頬を撫でている。昨夜、父親に叩かれたんだ。
「親父は」
 兄貴の問いに、母さんが口ごもる。
 兄貴は、父親が無心をする時だけ家に来ることを知っているのに、わざと母さんに尋く。なぜあんな男と一緒になったのかという恨みが強くて、遠回しに母さんを責める癖があった。
「……兄貴、バイトの時間」
「あー、めんどくせ」
 兄貴はあからさまな不満を滲ませ、足音を立てて部屋を出て行った。
 母さんは、少しやつれたように見える。
 いつか倒れてしまうんじゃないかって、心配だった。


「空良くんは、何も心配ないわね」
 職員室で担任が、笑顔で言った。
「はあ」
「それにひきかえ、あの子達は……」
 わざわざ俺を引き止めたから進路の話かと思ったけど、いつもの愚痴だ。
 苦い顔をしているこの若い先生は、俺のクラスで舐められている。
 その中で、俺は反発も従順も示していなかったから、いわゆる贔屓されていた。
 そもそも、そんなことに関わるエネルギーなんて残ってない。学校での立ち振舞いなんてどうでもいいし。
「空良くん……ひとつお願いがあるんだけど」
 この可愛い先生は、その可愛さを最大限に使う。上目遣いに見つめてきて、下の名前で呼んでくるところもそうだ。そんな必死な姿が可哀想で、委員の仕事も問題児の世話も断れなかった。
 ……俺は、ただの『都合の良い生徒』なんだ。自分でも思う。


 学校帰りに、スーパーで牛乳を買う。
 家の玄関で、タッチの差で帰ってきていた兄貴と鉢合わせした。
 兄貴は俺を一瞥すると、俺の手からスーパーの袋を無言で取り上げて台所へ消えた。
「あら、買ってきてくれたの? ありがとう」
「牛乳代」
「はいはい」
 廊下に漏れてきた母さんの声が、ほっとしている。
 俺は、玄関先で重い靴を脱ぎながらその会話を聞いていた。
 ……俺が買おうが兄貴が買おうが、どうでもいいことだ。学校でもそう。面倒なことは、たまたま俺がやってるだけ。
 こんなもんなんだよ、世の中って。
 誰がやっても結果は大体同じで、誰かが働いて世界が回ってる。働かない奴もいるけど、それは、生まれついた境遇だ。変えることはできない。
 そして自分は働かされる側の人間――ただ、それだけのことなんだ。






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