夢のような景色の中で、夢のように美しい人と出会った。
あれから、もう2年が経つ。
桜が散る切なさと一緒にしまいこんだ記憶が、今、俺を苛んでいる。
母のことは、ぼんやりとしか思い出せない。
俺が小学校に上がる頃には、写真の中だけで笑っていた。
育ててくれたおばあちゃんにも、中学入学は見届けてもらえなかった。目が溶けそうなほど泣いて、人生で初めての『永遠の別離(わかれ)』を体験した。あんな経験はもう二度としたくない。
そして、告別式で俺を抱きしめて泣いてくれた人が、俺を引き取ってくれた。母さんの妹の、陽子さんだ。独身なのに、嫌な顔ひとつせずに俺を迎えてくれたんだ。
高校受験の年。陽子さんの勧めで、蘇芳(すおう)高校の説明会に行った。
普通科と国際科を擁する中高一貫の私立高で、敷地面積は4万平方メートル。
公立校に通う俺には広すぎたみたいで、説明会の開始時間になっても会場に辿り着けずにいた。
ひたすら続く、暗く静まり返った廊下。いちいち肩からずり下がりそうになるナップザックを引き上げて、改装中らしい校舎の中で、自分の足音が反響する空間に怯えながら歩いていた。
やっと前方に光が見えて、走り寄ったガラス扉を押す。
「わ、あ……」
なだらかな芝生の庭だ。
5月の陽差しの下で花壇に花が咲き乱れている。庭の中ほどにはヨーロッパのお屋敷の庭にあるような、屋根のついた吹き通しの小屋まであった。
本格的なイングリッシュガーデンの豪華さに目を泳がせて、レンガが敷かれた小道を歩く。
小屋の前まで来ると、傍の花壇に目が吸い寄せられた。色とりどりの花たちから離れて一輪、闇色の花が咲いている。
(へえ……黒い花だ)
近づいてみると、甘くて爽やかな香りがする。豪華な絨毯みたいな質感の花びらに触ってみたくて、右手を伸ばした。
「……いっ!」
指先に痛みが走って、パッと手を引く。人さし指の先にふくりと血が膨らんだ。棘で刺してしまった。
ひりつく傷を口に含もうとした時、視界の隅で何かが動いて、背中がざわっとした。
――小屋の中に、誰か居る。
足音を立てないように小屋の入り口に近づいて、怖る怖る中を覗いた。
組んだ長い足を投げ出されているのが目に飛び込んで、ぎょっとした。よく見たら、木製のベンチで男が寝ている。
(息、してるかな)
開いた文庫本を顔に乗せて、死んだように動かない。詰め襟を着ているみたいだ。
――ここの学生っぽいな。
顔の上に伏せられていた本が滑って、バサリと床に落ちる。
「あ」俺は、何の考えもなく小屋に入って、落ちた本に手を伸ばした。
「……ひっ!」急に腕を掴まれて、体が竦む。
「誰」
不機嫌そうな声だった。
ベンチで寝ていたはずの男が、俺の手を掴んでまっすぐ見ている。
前髪の合間から覗く、水を含んだような重たい視線は、思わずぶるっと体が震えるほどだった。
あまりにもじっと見つめられて、慌てた。「すみません、ほ、本……が、落ちたから拾おうと思って……」
気だるそうに黒髪を掻き上げる仕草に、ドキリとした自分に驚いた。
(……なんでこんなに、ドキドキするんだろ)
「……うちの学生じゃないな」
眠気の混じった声だ。寝ているのを邪魔してしまったらしい。
掴んでいた俺の手を離して、その人がベンチに体を起こす。 長い首筋に沿う髪を無意識に目で辿ると、着崩した制服のシャツの襟元から男っぽい首筋や鎖骨が見えた。なんだか気まずくて、目を背ける。
気だるそうに地面に足を下ろす姿は青白くて、具合が悪そうに見えた。
「あの……大丈夫ですか」
俺が声をかけた瞬間、空気が変わったのがわかった。
「なにが」その人は、無表情で俺を見つめていた。物を言わせぬ空気だ。
――……この人、なんとなく、怖い。
きれいすぎるのもあるけど、纏っている空気がすごく冷たく感じる。
「いや、あの……すみません」思わず謝って、この場を去るための言い訳を始める。「き、教室、迷って……説明会があるのにもう始まっちゃってて、俺方向音痴ってわけでもないはずなんですけど、なぜかここに出ちゃって」
まくしたてた声が情けなく上擦った。見つめられるほど顔を見られなくなって、胸がどくどく鳴る。
どうしよう。もう、走って逃げてしまおうか。
不意に、その人は何かに気づいたように鼻先を動かして目を細めた。探るように俺の体の上に視線を動かして、辿り着いた俺の右手を掴み直す。
「あ、の……? えっ」俺は、その人の視線を辿って驚いた。
さっき棘で刺した傷から、止まっていたはずの血が溢れたんだ。
そして、その白い手の甲にぽつりと――。
「うわっ……! すみませんすみません、拭きます――」
俺は慌ててナップザックからハンカチを取り出そうとして、固まった。
その人が、俺の血を舐めてしまったんだ。
俺は、頭が真っ白になって、ただその人を見ていた。
その人が、一瞬目をみはって、俺の顔を見上げてくる。幽霊でも見たような顔で見つめられて、居心地が悪い。
「な、なんですか……?」
その人はなにか言いかけたのをやめて、俺の手を離した。舌先で唇をひと舐めして、目を細めた。「……ブラックバカラか」
「え」
「黒い薔薇の棘で刺しただろ。香りが残ってる」
この人、どういう嗅覚をしてるんだろう。ワインのテイスティングみたいに、匂いで花を言い当てるなんて。
「あの黒い花、薔薇なんですか。どうやったらあんな色になるんですかね」
「鋭い棘で人の血を飲むから、黒くなったんだろ」
俺が絶句していると、その人は呆れた顔をした。「……真に受けすぎ」
慌てて自分の顔を撫でる。
(……初対面の人に、からかわれた)
「品種改良だ。これが美しい色と形ーーそう計算されて生み出された」
そう、どこか遠い目をして呟いた。
この人、何かあったんだろうか――その目につられてしまって、無性に切なくなった。
指先からまた血が滴りそうになって、俺はとっさに口に含んだ。
こくりと喉が鳴る音が聞こえた気がして目を上げる。
(――え)
一瞬だけど。光の加減か、その人の目が赤く光った気がした。写真を撮ったときに目が赤く映ってしまうことがあるけど、あんな感じだ。
瞳をよく見ようとしたら、目を逸されてしまった。
その人は長い指で気だるそうに本を拾うと、立ち上がりながら俺を見て、くいと頭を振ってみせた。
「こっち」
俺の返事を待たずに歩いて行ってしまう背中を追いかける。
黒髪がそよぐのが、草花が揺れるのと同じように綺麗だ。小さな頭を後ろから見て歩いていると、花の香りが混じった風がその背中から香ってくる気がする。
……綺麗だ。
綺麗で、切ない。
花の中に消えてしまいそうな後ろ姿に、胸が締めつけられる。
それはまるで、夢の中を歩くような時間だった。
校舎に入って迷わず廊下を行く足取りに必死についていくと、遠くからマイクの声がし始めた。赤い矢印が印刷された紙が壁に貼ってある。その先に、長机に乗った資料の山が見えた。
無言で俺を振り返ったその人が、気だるそうな目で俺を見下ろす。
「……この先で道に迷っても、もう知らねえぞ」
艶のある声がからかいを含んだ別れを告げて、俺の横を通って引き返して行こうとする。
「あ、あの……!」
思わず、呼び止めてしまった。
その人は面倒そうに、でも、振り向いてくれた。
もう少し一緒にいたい気がしたんだ。とっさに引き止めたので、言葉が出てこない。
「……ありがとう、ございました……」
気の利いたことは言えなかった。ただただ、面白味のない別れの挨拶をする。
その人は一瞬目を細めて、踵を返して歩いて行った。
俺はまだ夢の中にいるみたいに、その背中を見送ったまま動けなかった。