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 次の春まで、長かった。
 名前も聞けなかったあの人が、頭から離れなかった。
 何度も俺の夢に出てきて、道案内をしてくれた。受験の一ヶ月前には合格発表の掲示板の前まで連れてきてもらう、変な夢も見た。
 無事に蘇芳高校に合格できた時には、ほっとしたのと同時に、胸が高鳴ってたまらなかった。




 入学式には陽子さんも来てくれて、新しい制服姿を撮ってくれた。
「仕事に戻らないといけないんだけど……朝陽、どうする?」
「学校の中、見て帰るよ。お昼は適当に済ませる」
「そう? じゃあ夜はご馳走にしようか。何食べたい?」
「ピザとろうよ」
 陽子さんは、ふーっとため息すると、困ったように眉を寄せた。「手のかからない子だね、ほんと……姉さんが言ってた通り」
 そう言って、切ない顔をする。なんだか俺もじんわり来た。
 7時までには戻るから、と少し慌てたように靴を鳴らして行く陽子さんを見送ってから、この春に完成したばかりの新校舎に向き直った。
 もう一度、あの中庭に行きたかった。試験の日は大雪でそれどころじゃなかったし。
 あの人と会ったのは夢じゃないってことを、確かめたかったんだ。


「あれ……?」
 スマホが、ない。
 新校舎をうろついている内に、どこかに置いてきたみたいだ。
「なんでこう、俺っていつも――」写真を撮ろうと何度か取り出したけど、思い当たる場所に戻ってもどこにもない。人気がない校舎をさまよって、小一時間は経っている。
「腹へった……」
 半泣きで歩いていたら、変な雰囲気の廊下に出た。薄暗くて、寒い。さっきまでの新しくて明るい雰囲気とは大違いだ。
 壁に案内板があるのを見て、はっとする。
(そうかここ、説明会の時に迷い込んだ旧校舎だ――)
 だったら、目的の庭も近いかもしれない。
「その前に、スマホ探さないと」
 見取り図を頭に叩き込んで、とりあえず新校舎に戻ろう。
 この二手に分かれた右の廊下の突きあたりを左に行けばいいみたいだ。静まり返っている廊下を速歩きする。
「……放課後の学校って、雰囲気あるよな……」
 特にこういう北側の暗い廊下なんて昼間だって薄気味が悪い。お化け屋敷並だ。
(あれ……)
 分岐した廊下の突き当たりの扉が、ほんの少し開いている。
 あの扉の先、何があるんだろう。
「昼間から幽霊は出ないよな」恐怖を紛らわすための軽口を叩いてみるけど、声が反響して怖いばかりだった。
 ジリジリ音を立てて点滅する非常灯の緑にハラハラしながら、吸い寄せられるように薄く開いた防音扉の前まで来る。掲げられているプレートのくすんだ文字が、かろうじて読み取れた。
「”第二音楽室”――」
 開きかけの扉から、中を覗く。
 予想外に、窓から差し込む陽射しで室内は明るかった。教室の前方には布の覆いがかかったピアノ、後方にはいろんな大きさの楽器ケースが重なっている。
 椅子がひとつ、窓辺にぽつんと置かれている。恐る恐る中に入って歩み寄ると、そこからは新校舎が一望できた。
「あ」
 中庭が見える。屋根付きの小屋も。花が咲き乱れる花壇も。
 新校舎の向こうに見える桜並木は満開で、風に吹かれるたびに花びらが散っている。
 この風景を一望するのに、この旧校舎4階の音楽室に丁度良く置かれている椅子なんだ。
 座って、目の前の広がる景色にほっと息を吐く。
(……これからここに通うのか)
 中庭を眺めていると記憶の中の姿がよみがえってきて、胸が高鳴った。
 ――あの人と、会えるかな。
 名前も聞けなかったけど、目立つ人だからすぐ見つかりそうな気がする。……まだ、この学校にいてくれたら、だけど。
 先導してくれたあの背中には、俺の高校生への憧れが映っていた。
 かっこよかった。
 雰囲気は冷たそうだったけど、中庭で悠々と過ごす姿は自由で、独りが似合っていた。
(――俺も、ここであんな風に過ごせるかな)
 桜を撮りたくて、ポケットに手をやる。
「……あ」
 そうだった、スマホ――。
「おい」
 血の気が引くほど驚いて、声がした入り口を振り返る。う、とか、あ、とか、意味のない声が漏れて言葉が出てこない。
 黒髪と白い肌。赤い唇。冷たくて気だるい強い目――1年前、中庭で会ったあの人がそこに立っていた。去年よりも背が伸びて、体格も顔立ちも大人になった気がする。 
 開きかけの扉に肩をついて、何か持っている片手を顔の高さに持ち上げた。
 長い指で器用に踊らされたのは、俺のスマホだ。
「半泣きで探し回ってたの、これじゃねーの」
 みっともないところを見られた。恥ずかしい。
 ゆったりとした歩調でやって来る慣れた感じは、いかにも上級生っぽくてドキドキした。やっぱりこの学校の先輩だったんだ。
 長いひとさし指をこっちに向けられて、びくっとする。
「俺の席、気に入った?」
「え……あ、すみません!」
 俺が慌てて立ち上がると、先輩の冷たい印象の顔が少し緩んだ。
「今日も迷子か」
「お、覚えててくれたんですか」
「説明会に来て道に迷ってる受験生ってのは……まあ、インパクトあったな」
 これ、現実だよな。……なんか、やばいかも。
「……なに泣いてんの」
「ぅ……合格した実感……湧いちゃって……」
 先輩は、思わずって感じに眉を曲げて苦笑する。
 それは、花が開くみたいだった。
 この人、笑うともっと綺麗だ。少し陰のある切ない微笑みが目の奥に焼き付いて……できるならずっと見ていたい。
「ほら、失くすなよ新入生」
 広げて差し出した俺の手に、スマホが置かれる。
 先輩のきれいな指に見惚れていると、その手の甲にぽつりと赤いものが落ちた。
 血だ――そうわかった瞬間、頭が混乱した。
 1年前にブラックバカラの棘で指を刺した時と同じだ。花の香りまで感じる。ぶるっと震えが起きて、肌が疼くような妙な感覚が湧いた。ぎゅっと目をつむって、目を開ける。
(――……あれ?)
 再び見た先輩の手は、まっさらの白い綺麗な手だった。血の痕なんてどこにもない。
(なんだろう、今の。受験勉強のしすぎでおかしくなったのかな)
「よくここまで来たな」
 はっとして、目の前の先輩を見上げる。
「旧校舎の北棟は気味が悪いって、誰も近づかないんだけど」
「俺、迷って偶然ここに来て……」
「おまえ、またそのパターンか」
「でも、来られてよかったです」
「なにが、よかったの」
 改めて質問されて、窓の外を見た。
 風にあおられた桜の花びらが舞って、雪みたいだ。
 陽光を浴びる景色と、不思議な美しさに包まれた、この人が。
「夢じゃなくて、よかったなって」


 他にも言葉を交わした気はする。けど、ほとんど覚えていない。
 夢みたいな現実ごと、散っていく桜の中に取り込まれてしまうんじゃないかと気が気じゃなかった。




 それから半年の間に、いろんなことがわかった。
 庭で会ったかっこいい人は、1つ年上で、名前は黒海一夜(くろみ・いちや)。
 儚そうな美しい容姿と裏腹に、絡んできた人間を今までに5人も病院送りにしたっていう殺伐とした人柄がセットで、学内の超有名人だった。
(俺、先輩を怒らせなくてよかった……)
 心からそう思った。
 学校で見かける先輩は、まるで、氷の刃を全方位に向けているような感じだ。初対面の時もその雰囲気はあった。
 でも、近寄りがたいけど、傍で静かに座っていたい気にさせる人だ。

 俺は、校内で黒海先輩を見かけた時に挨拶をするようになった。
 登下校の道、廊下、職員室――会えば必ずそうした。疎遠になるのが嫌だった。せっかく話せたのに、関係が終わってしまうのは哀しい。
 初めの頃は素っ気ない一瞥だけだったけど、ある時、出会い頭に会って突然のことにうろたえる俺に、先輩が思わず苦笑した。
「おまえ、いつも忙しいな」
 胸が、ぎゅっとなった。
 いつも黒海先輩の姿を探すようになった。
 見かけた日は嬉しくて、目が合った日は眠れなくて困った。
 でもそれが、どんな感情なのか自覚はなかった。気づきたくなかったのかもしれない。
 知ってしまったらもう後戻りできないような、そんな怖れを感じていた。


 だから、”あの日”が来てしまったんだと思う。
 歩いてはいけない道を歩いて、開けてはいけない扉を開けたせいで。
 黒海先輩が誰にも知られまいとしていた秘密を、俺は不躾に覗いてしまったんだ。



 初出 11/01/29
 改稿 20/04/18




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