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1 Warning





 おばあちゃんはいつも、紫のワンピースを着て笑っていた。
 でも今は、黒いワンピースを着て怖い顔をしている。
「私のかわいい子。美しい鬼に気をつけて……奴らはいつも血を探している、人の姿をした獣だよ。絶対に近づいちゃダメ」
 獣――?
 近所で飼われていた犬を思い出した。
 雨の日も雪の日もひとりぼっちで外にいて、家の前を通りがかるときいつも目が合った。
 その目は、寂しそうな色をしていた気がする。
「……獣にも、心はあるよ」
 頷いてくれると思ったのに。おばあちゃんは、首を横に振った。
「おまえは優しすぎる――」冷えた手に抱きしめられる。「朝陽(あさひ)……私の宝物。どうか、鬼に心を奪われないで」
 震える肩越しに、花の祭壇が見えた。
 むせ返るような百合の香りと、遺影と、棺。
 ……ああ、そうか。

 今思えばこの日は、母を見送った日だ。


 ガクン、と体が揺れて、油圧の音で頭が醒める。
 隙間なく混んだ電車内で見上げた電光掲示板の駅名を見て、血の気が引いた。
「や……ば……っ」
 肩からずり落ちかけたカバンを掴んで立ち上がる。すみません、と何度も声をかけてホームに出たのと扉が閉まるのは同時だった。
「セーフ……」あっという間に出ていく電車を見送って冷や汗を拭う。
 ――今頃になって、母さんの葬式を夢に見るなんて。
 もう、思い出したくないのに。
 ふいに、首筋に吐息がかかった。
「……ひっ」
 思わず小さく声が出て、周りを見回す。
 みんな、通学通勤の素知らぬ顔だ。
 疼いた首筋に手をやると、今朝貼り替えた大判の絆創膏の下が、脈打って感じた。
 肌を貫かれた時の一瞬の痛みと、すぐに押し寄せてきた熱感――肌に刻まれた記憶が、今感じているように甦って混乱する。
 ――こんなはずじゃ、なかった。
『鬼に心を奪われないで』
 ……そんな大げさな出来事、自分の人生に起こるはずないって思ってた。おばあちゃんの話がお伽噺ならどんなによかったか。
 あの忠告が真実だとすれば、俺は今すぐに"あの人"から離れなきゃいけない。
 なのに。
「……ごめん」
 ――おばあちゃん、ごめん。
 よりにもよって。なんで、"あの人"なんだろう。
 全部、夢だったらいいのに。
 俺は泣きたくなるような胸苦しさに襲われながら、重い足を引きずってホームの階段を上がった。

 
 男子の詰め襟と、女子のブレザー。
 その人波に混じって私立蘇芳(すおう)高等学校の門をくぐる。2日来なかっただけで、そわそわして落ち着かない。
 気だるい体を引きずって、教室がある3階のフロアに着くと、廊下に人だかりができていた。女子も男子も一緒くたに背伸びして、廊下の先を見ながら何か言っている。
(なにがあるんだ……?)
 大勢の頭の間から覗いて、息が引きつった。廊下の先に見知った姿がある。
「あれ……黒海先輩だよね、はじめて見た!」「あんなかっこいい人この世に存在するんだ」見物に加わってきた女子たちが興奮気味に話しているのが聞こえる。
 ……あの人は、黒海一夜(くろみ・いちや)だ。
 1つ上の高3で、近隣の学校にも名前が知られている。
 人前にめったに姿を見せないので、黒海先輩は実在しない、なんて都市伝説まであるくらいだ。そういう人が2年生のフロアに現れたので騒ぎになっているんだろう。
 みんな遠巻きに窺うばかりで、先輩に近づこうとはしない。
 ――というか、近づけないのか。
 実際、俺もここで遠巻きに見ているだけだ。
 黒海先輩は、大勢が自分のことで騒いでいるのに全く関心がないのか、窓の外に視線を投げたままだった。
 誰かを待っているようにも見える――。
 そう思ったら、急に心臓がドキドキと鳴り始めた。
(まさか……俺を待ってたり、しないよな)
 妄想だって笑われそうだけど、根拠もなく思うわけじゃない。
 俺は、3日前に黒海先輩と"ある契約"をした。
 契約の内容を果たすためには、先輩と会わなきゃいけない。それも、二人きりで。
「――あの人、男もイケるらしいぜ」
 不意に耳に入った会話に、ひやっとした。
 近くの男子生徒たちが、友達が相手をしてもらったらしいとか女とするより悦かったらしいだとか……出所不明そうな話をしている。
 その、下卑た空気。
「……見てるだけでおかしくなりそ」
「先輩かっこいい……めちゃくちゃにされたい――」
 学校になじまない言葉がざわめきの中に増えていく。性別関係なく異常な興奮の中に入っていく渦を感じた。
(――なんだこれ……)
 周囲に仄かな香りが漂っている気がした。
 柔軟剤か香水か……いや、違う。もっと生々しい。凍っていた花が常温で溶けていくような……冷たい香りが徐々に開いて強くなる。みんな無意識か、胸で大きく呼吸をするようにそれを吸い込み続けているんだ。
 黒海先輩を見ると、どこからか吹き込んだ風で髪が静かに揺れている。大勢のざわめきの中で、その無表情な横顔は冷たく、すべてを拒絶しているように見えた。
(……同じだ)
 思わず言葉をかけて、手を伸ばしてしまった3日前の"あの時"と。
『絶対に近づいちゃダメ』
 おばあちゃんの言葉が脳裏で瞬く。
 絆創膏の下で、肌が脈打つのを手でかばった。
 ……苦しい。この2日間、ずっと。
「きゃー!」
 人混みを裂く悲鳴に振り向くと、女子が2人掴み合いのケンカをしている。
「軽々しく先輩のこと語ってんじゃねえよ……!」
「あんたこそ、自惚れんな!」
 二人とも異常な剣幕で、目が血走っている。
 みんな、黒海先輩に目を奪われていて止めに入らない。
 掴み合いが押し合いに、ついには殴り合いになった。見ていられなくて、人波を掻き分けて、振り上げられた女子の手を掴む。
「離して……!」
「っ」
 彼女の手が頬を掠めて、痛みが走った。
 とっさに拭った手の甲に血がつく。爪で切れたみたいだ。
 はっとしたように彼女が目をみはる。うろたえる姿が、あまりにも気の毒だ。
 仕方ないんだよ、と言ってあげたかった。
 この空気の中では、"人間"はこうなってしまうから。
「教室に戻った方がいいよ――」
 そう声をかけたのとほぼ同時に、足の先から冷気が上る。
 覚えのある感覚。
 怖怖と振り向いて、息を呑んだ。
 人波の合間に見えた黒海先輩が、組んだ腕をゆっくりと解いて、こっちを見たんだ。
「……っ!」首筋が強く脈打って、変な汗が噴き出す。
「ねえ、黒海先輩こっち見てる……」
「こ、こっち来る! なんでー!?」
 みんなの混乱した声が次々に耳に刺さってくるのに、反応できない。
 ――近づいちゃダメ。
 ――近づいちゃダメ。
 頭の中で、警報のようにおばあちゃんの声が鳴り響く。ふらつく足を引きずって、人波を掻き分けた。
 冷たい花の香りが、強くなる。足元が揺れているような感覚。
 視界の隅で女子がよろめいて、肩をとっさに支える。彼女の目は焦点を結ばずにぼんやりしていた。
 ――これが、黒海先輩の力だ。
 あっという間に、"人"から正気を奪う。
 俺たちは、"獲物"だから――。
「志田(しだ)」
 静かに通る声に後ろからゆったりと貫かれて、全身が震える。恐る恐る振り返ると、身震いするほど美しい相貌が冷たい表情を浮かべて俺を見下ろしていた。憂いが滲む強い眼差しが、滴りそうな色気を含んでいる。
「あ……」喉の奥に、声が貼りついてしまった。
 黒海先輩は、目を眇めると香りを嗅ぐようにすっと鼻で息を吸う。「――血、出てるけど」
 俺は慌てて頬を拭った。
 鈍く光って見えた先輩の目が、俺の首を一瞬撫でる。
 舌の感触と熱い息が、肌にかかる――。
「……っ」
 落ち着け。落ち着いて。この感覚は、今感じているものじゃない――脈打つ首筋を震える手で覆って、自分に言い聞かせた。
 黒海先輩が背を向けて歩き出す。その背中は俺に、ついて来いと言っていた。
 決壊しそうな堤のほとりに立ったみたいに、足がふらつく。
 みんな、先輩と俺を交互に見ながら酔ったようによろけて後ずさっていく。
 俺たちを取り巻くざわつきは、ホームルーム開始のチャイムが鳴ると教室へ駆け込んでいく足音に変わっていった。




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