一歩一歩、平穏な世界から離れて行くみたいだ。
不思議と誰ともすれ違わずに、渡り廊下を通って旧校舎へ入る。授業で使われることのない校舎は、埃っぽく、暗く、寒い。
『第二音楽室』の扉の前で、先輩の足が止まった。
手を伸ばされてもすぐには届かない距離で、俺も止まる。
二人きりだ。
意識しただけで、息が速くなる。
ゆったりと振り返った黒海先輩の姿が、暗い廊下の闇に浮かび上がって見えた。掴みどころがないほど儚いのに、凍りそうなほど冷え冷えとした強い印象は、この世の者と思えないほど美しい。
そしてその唇は、今にも血が滴りそうなほどで――。
「逃げないの」
不意に動いた赤い唇に、見とれていた自分に気がついた。
「2日、姿見なかったけど。体調は」
俺を……心配してる?
いやまさか――。
「平気です」
先輩が、わざと足音をたててゆっくりと近づいてくる。手を伸ばせば届く距離で足を止めると、深い黒の瞳が静かに見つめてきた。
「契約」ぽつりと呟かれた言葉た、俺を試していた。
(――たしかに約束した。わかってる、でも……)
先輩が目を細めた。「やっぱ、やめたくなった?」
一瞬、返事に迷った。
そんな俺に気がついて、先輩が息を吐く。「やっぱり、やめておくか」
あっさりと言われて、逆に焦った。「いや、でも、それじゃあ先輩はどうするんですか」
黒海先輩がポケットに手を入れる。「今まで通り、他からもらう」
その言い方。まさか。
「……もしかして、この2日、飲んでないんですか」
黒海先輩が、俺を見て怪訝そうに眉を寄せる。「志田のを飲めるのに、他のを飲む理由ないだろ」
一気に体温が上がった。どうしようもないほど胸がいっぱいになってしまう。
「俺、大丈夫です! 契約、できます!」
静かな廊下に自分の声が響いて、我に返る。
……考えがまだまとまってないのに、気持ちだけ急いて返事してしまった。
俺がうろたえている内に、空気が変わるのがわかった。
先輩の体の内から、あの冷たい花の香りがドライアイスのように湧いてくるようで、めまいがする。
胸を押された。
気がついたら、廊下の壁に追いやられていたんだ。
先輩の長い指が、俺の詰襟の留め具を外し始める。
「え、あ、待っ……」
気だるそうな割に、プツプツと手際よくボタンを外していく指先に焦った。慌てて目の前の胸を押し返して、手を止めた先輩を見上げる。
伏し目がちに見つめてくる目も、髪も赤い唇も、濡れて見える。本能に訴えかけてくるような妖艶さで、心臓が勝手にどくどくと走り出した。
「じ、自分で外しますから」
俺は、自分の制服のボタンに指をかけた。手探りでひとつ外しながら目の前の先輩を見上げると、深い黒の瞳が暗がりの中で玉虫のように複雑に光を弾くのを見た。
「あ――」
その瞳に、色が滲む。
黒から、濃紺へ。碧や橙が混じって極彩色に変わっていく。俺は、その一部始終を呼吸も忘れて見ていた。
瞳の色が、濡れた深紅に落ち着いた瞬間、黒海先輩の気配が一気に強くなった。体が圧される。
咲き誇った何百もの花の香りが、胸深くまで入って体中を巡るのがわかる。あまりの圧力で、声が出せない。
「っ、あ――?」
視界がぼんやりとする。
頭が、回らない。
体がふらふらする。とにかく、どこかに寄りかかりたい。
「うぅ……」額を、目の前の胸に押し当てる。先輩の手が、肩にかかった。
指で顎を上げられて、さっき切れた頬に先輩の唇が這うのがわかった。
「……ぅ」
頬の傷が熱く疼く。背中に汗が吹き出して、壁にもたれていないと、もう立っていられない。
「は、はぁ……っ」
肌が痺れてくる、この感じ。知ってる――。
体が勝手に期待し始めるのがわかる。この先の、後ろめたい快楽を知ってる。
ゆっくりと剥がされる首の絆創膏が、肌を引っ張って小さな痛みが走った。
先輩の赤い瞳が、気だるそうに俺の首筋を撫でる。
「まだ赤い……もっと舐めて解しておけばよかった」
壁に手をついた黒海先輩の顔が近づいて、首に息がかかった。鳴りすぎる胸が喉の奥で爆発しそうだ。
湿った熱い感触が繰り返し首筋を滑って、膝が震えてくる。 髪先が頬と耳を撫でるせいで、背中がぞわぞわしてしまう。
(声、出そ……っ)
うまく動かない手で、だらしなく開きそうになる口を覆う。
肌に硬い歯先が触れる度に、3日前の貫かれた時の痛みを思い出して肩が竦んだ。
先輩から溢れてくる香りが、体をめいいっぱい犯す。
「……せ、ん……くろみ、せんぱ……っ」
なんとか声を絞り出すと、先輩が顔を上げた。
伏せられていた長いまつ毛がゆっくりと瞬いて、赤い瞳が俺の目の奥を探るように見つめてくる。
「……なに」
「つよ、く……て、その、気配が――」
ああ、と黒海先輩が呟く。「止まらない、渇きすぎて」
脳裏にあきらめが過ぎる。いつの間にか肩にすがってしまっていた手を取られて、先輩の腰に回された。促された通りに制服を握ってしまうのは、もう自分の意志ではない気がした。
散々に舐め尽くされた首筋が疼いてたまらない。先輩の赤い唇の隙間に犬歯のような牙が見えて、思わずごくりと喉が鳴った。
「もう……もう、いいから、はやく――」
耳元で、小さな哂いが起こる。「前戯を早く切り上げて、なんて言うのは……志田ぐらいだな」
牙の先が散々濡らされた肌に当られて、先輩が狙いを定めたのがわかった。
「……咬むよ」
腰に響く甘さを含んだ声を合図に、震える息を吐き出す。目の前の肩に、額を預けた。
――……何で、こんなことになってしまったんだっけ。
初めて会った時は、何も知らなかった。あの頃のままでいられたらよかったのに。
押し入ってくる牙の感触に、小さく悲鳴が漏れる。
一気に蕩けていく意識の中、俺は、まだ切なさだけで息をしていられた頃を思い出していた。
初出 11/01/29
改稿 20/04/18