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「笠井さん、ありがとー」
「どーも。また来てね」
 シャンプーの香りを残して、お客様が去っていく。

 このヘアサロン『エス』をオープンして、3年が経った。
 常連のお客様も増えて順調だ。1店舗では回らなくなってきたので、そろそろ2号店を出そうかと計画中してる。

 ひと息ついてカウンターを振り向くと、電話が鳴った。
「サロン・エスです。はい……はい。笠井勇次は、店長ですが」
 電話をとったスタッフが、送話口を押さえてこっちを見た。「店長、講話社のファッション誌から取材依頼です」
 差し出された子機をカウンター越しに受け取る。
「お電話代わりました、笠井です」
『スタイルモード編集のヤマザキです。取材の件でお電話しました』
 一度お話を、と言われて、カウンターの陰から自分のスケジュール帳を取り出す。
 開いて、目に入った。

 7日
 h夕食 連絡待ち
 
 ……1週間前の予定だ。
 ふと、あの子の顔が頭を過ぎる。
 出会ったのは、もう3年も前か。
 そういえば丁度、つき合っていた彼女と別れて恋だの愛だのに辟易していた頃だった。




make you,make me









 ◇ ◇ ◇




 店をオープンして、今日で半月。
『お店での笠井さんと違う』
 別れ際によく聞いてきたセリフを昨夜、また言われた。
 サロンでのキャラ通りの甘いセリフを期待していのたなら、確かにがっかりするかもしれないけど。私生活にまでそれを要求されるのはかなりキツイ。
 まあそれでも、胸が痛むほど辛くはない。
 昨日恋人と別れたというのに、今日はいつも通り、笑顔で髪を切っている。
 結局は、こういうどっか冷めてる態度が相手に自然と伝わってしまってるのかもしれないね。
 正直、恋愛感情、ってものがよくわからない。
 ときめきなんて乙女チックな現象を味わうことは今までなかったし、これから先も経験しない自信がある。
 昨日の別れの原因を頭の棚に整理して、パーマ待ちで紙コップに注いだアイスティーを飲み干した頃にはもう色恋のことは忘れていた。
「店長。チェックお願いします」
 スタッフルームの戸口から声をかけられて、つかの間の休息を切り上げる。
 お客様にひとつ微笑んでから、パーマのかかり具合をチェック。
「ん、じゃあ流して」
 スタッフに引き継いだところで、また声がかかった。
「店長、中野さんいらっしゃいました」
「はーい」
 返事をしながら、シャンプー台から帰ってきたお客様の仕上げのカットを済ませ、カウンターに向かう。
 カウンター前のソファに、紺の詰襟を着た男子高校生が座っていて、少し驚いた。
 ――おっと。制服だ。
 ファッションビルひしめくこの界隈で、何とも新鮮だった。
 この子が、中野くん、かな。
 初来店のお客様だ。
 目が合うと、少し驚いたように見つめてくる。
 ……ちっさい。
 特別背が低いとか体が細いとかいうことではなくて、透明感から来るあどけなさがそう思わせた。
 髪は、いかにも家族に切ってもらいましたという感じ。大事にされているみたいだ。
 ……会ってすぐあれこれ観察してしまうのは、職業病だ。
「はじめまして。今日担当する、笠井です」
「は、はい」
「中野……紘(ひろ)くん、でいいの?」
 初来店用に書いてもらった紙を見ながら確認する。
 こくりと頷いた紘くんは、緊張を全身で訴えていて雨に濡れた仔犬みたいだ。
「顔小さいわねー。言われない?」
 紘くんが、一瞬、ん?という表情になる。
 ……まあ、この口調への反応は、大抵こういう感じ。

 説明をしておく。
 前に働いていた店で揉め事が起きた。
 女性客にストーカーされて、店の入り出待ちから始まり、最終的には店のボヤ騒ぎまで発展した。
 後になって、警察に捕まった女性が事件前に友達に話していたというセリフを人づてに聞いた。
『私とつき合ってるくせに、笠井さんが、他の女と馴れ馴れしくするから頭に来た』
 ……息をするだけで女の恨みを買う色男、と同僚に揶揄されて居心地も悪く、全てが面倒になってサロンをやめた。
 それでも後輩の何人かは、「笠井さんは悪くないですよ」と言ってついて来てくれた。ありがたかった。
 そして、独立をきっかけに考えた。
 笑顔の接客が悪かったのかもしれない。早速クールキャラを試したけど、性に合わなかった。
 近寄り難い雰囲気を出そうと小汚い風にもしたけど、スタッフから苦情が出た。
 最終的に女言葉……というか、オネエ言葉にしてみた。
 これが意外としっくりきて、お客様の不要な緊張を解くという相乗効果もあった。
 以来、店では「俺」を「私」にするのから始まり、この口調で通すことにしている。
 今や、プライベートまでオネエ言葉が混じるようになったのは副作用だ。
 ――以上、説明終わり。

「最近の子は小顔よね」
「特に小顔とか言われたことはない……です」
 紘くんの、目線をふらふらと上に向けている様子が危なっかしい。気を抜くとどっかに行っちゃいそうだ。
 髪に触れてみると、猫っ毛のくせっ毛。でも毛質は素直そうだった。
「髪って性格が出るのよ」
 そう言うと、紘くんが、へえと目を輝かせた。内弁慶ってわけでもなさそうか。「今日はどうしたい?」
「おまかせしていいですか」
「紘くんを私の好きにしちゃっていいってこと?」
 男の子相手だからと、戯れにふざけ半分で色気を足したら、紘くんは一瞬キョトンとして頬を赤らめた。
 ……新鮮。
 素直に照れて恥ずかしがってる。
 瑞々しさが身体を通り抜ける。
 印象通りの純真さを目の当たりにして、ふざけ半分にからかうのはよそうと思った。

「シャンプーするからこちらへどーぞ」
 紘くんは、シャンプー台に寝る時も頭を預けようとしなかった。首に力が入っててガチガチ。初々しくて内心で微笑む。
「顔にタオルをかけるわね?」
 伏せたまつげが長い。こうして見るとまだ線も細いし女の子みたいだ。
 指で髪を梳いて流す準備をしていると、タオルの下から変声期半ばの高めの声が聞こえてくる。
「あの、俺、はじめてで――」
「あ。美容室のこと?」
「はい」
「力抜いて、私に全部任せてね」
「は、はい……」
 素直に水を含んで濡れていく髪を指先で撫でる。
「熱くない?」
「ちょうどいいです」
「痛くない……?」
「……気持ちいい、です」
 緊張を解すために、柔らかい声で湯加減や力加減をうかがう。
 シャンプー塗れの指先で耳の裏から首すじを撫でると、びく、と小さく肩が震えるのが目に入った。
 あー……。ここ、感じちゃうかあ。
 いきなり男子高校生の快感のツボを発見して、悪戯心が頭をもたげる。
 勘違いしないでほしいのは、リラックスの快感と性的な快感はそもそも紙一重ということ。
 心地良いところで止めると『気持ち良い』になり、感じさせようと踏み込むと『イイ』になる。
 反応があった場所を確かめるように撫でると、またその体が震えた。
 タオルに隠れてない耳が赤く染まる。
 ……嗜虐心がむくむくするけど、あまり弄り倒しても可哀想かも。
 この強さなら感じない、という力加減を見極めて、意識して作業的に洗う。
「はい、おつかれさま……」
 椅子を起こしながら、顔に乗せていたタオルをとった時。
 ほっとしたような、でも、もっと続けてほしかったような表情で見上げられて、ぎくっとした。
 思わぬところで遭遇した、あどけない色っぽさが直撃した。
 ……開店から突っ走ってきて、疲れてるんだわ、きっと。
 そう言い聞かせて、笑顔をつくる。
「こちらへどうぞ」
 促すように声をかけると、紘くんがはにかむような笑顔を浮かべた。
 カット台に座ってもらって、ローラーのついた丸椅子を引き寄せて座りながら髪型を相談するフリしていろいろ聞き出した。
 まだ高校生1年生、かあ。
 16歳のわりには大人っぽいかな。あんな表情できるんだし。
 手を繋ぐくらいの彼女はいるのかもしれない。
「うちの店、できたての新一年生なの。紘くんと一緒」
 いつもの調子で話すと、紘くんは、また少し驚いたように目を大きくした。
 興味深々で鏡の中の私を見る様子が、なんとも愛らしい。
「じゃ、はじめましょうか」
 ハサミを手に取りながら、鏡の中、頬を染めているその子と一瞬、視線を絡める。
 思ったよりもその目は従順に私の視線を受け止めて、思わずいじめたくなった。
 指先に挟んだ、まだ濡れている髪の束に、そっとハサミの先を当てて呟く。

「……初めてもらっちゃうね」

 その細い喉が、こくりと動くのが髪を通して伝わってくる。
 体の中をゾクリとしたものが走って、ゆっくりとハサミを入れた。
 無垢な毛先が、白い床に落ちていく。

 その瞳に、最大限の甘い笑顔を向けて願をかける。
 この子がまたこの店に来て椅子に座って。
 無垢な髪に、私のハサミを受け入れてくれるように。




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