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 大の大人が、泣いている。
 声も上げずに。
 血の気の失せた頬を転がる、大粒の涙。
 俺は、それを不思議だなあって。でも、綺麗だなあって思いながら見ていた。

 だって、こんなに静かに美しく泣く人を見たことがなかったから。




さようならの方程式






−2−







 ――変な夢を見た。
 大人の男が泣いてるのを、ただ見ている夢だった。
 遠い記憶のような……前に見た夢の繰り返しだったのかも――そんなことを思いながら俺は、2限の休み時間に教科書とノートを持って職員室の前に佇んでいた。

「入るべきか、入らざるべきか……」

 次々と教師や生徒が出入りしてタイミングが計れない。
 結局、勇気を振り絞れないまま、職員室に背を向けた。
「あれ、新倉(にいくら)?」
「!」
 目的の人物――皆上数生(みなかみかずき)先生にいきなり前に立たれて、一瞬パニクる。
 相変わらず重たそうな黒縁眼鏡と、大きなマスクだ。
「入らないの?」
 眠そうな声は、低くて掠れてて、舌が回ってない。
 ……この声、結構好きなんだよな。
 なんて言おうか迷ってる間に、手の中の数学の教科書を見つけられてしまった。
「なんだ、俺に用事か」
 ……そうだよっ。
「こ、こ」
 持ってきた教科書を差し出して問7を指差すと、思わずって感じに先生が笑う。
「ロボットみたい、新倉」
 挙動不審なのは、自分でも気づいてるっての。改めて言われると恥ずかしいんだけど。逃げ出したい。
「待った待った、逃げないで」
 先生は、とうとう我慢できずに笑い出しながら、俺の腕に手を乗せて柔らかく引き戻した。
 掴むわけでも引っ張るわけでもない、まるで小動物を握りつぶさないような触り方に、指先にビリッとした快感みたいなものが走った。
「……おいで。ちゃんと教えてあげるから」

 俺は今まで、先生と仲良くするって経験がなかった。
 小学校では2回転校してるし、中学では、強面の体育教師が3年連続担任だった。
 だから、職員室まで来て先生と話すのとか慣れてない……というか、初めてかもしれない。
 話しやすいのは、年が近いせいもあるのだろうか。皆上先生は、たぶん、23くらいだろうし。

 先生は、授業で使ったチョークや教材をデスクに置くと、俺が開いて差し出したノートを受け取った。
「えらいね、質問に来るなんて」
「次、俺のこと当ててるだろ」
「あ、そっか。褒めて損した」
 思わず、グーで肩を殴ってやった。
 全然効かない、なんて言いながら先生は、指先で引き下ろしたマスクを顎に引っ掛けて、伸ばしっぱなしの前髪を掻き上げた。
 はらはらと毛先が頬に落ちていく様子は、スローモーションを見ているみたいで。
 ……綺麗だった。

 先生と初めて話してから、3日経つ。
 あれから1度授業があったし、廊下でもすれ違った。言葉を交わす機会はなかったけど、目での挨拶はあった。そういうやりとりは嫌じゃなかった。むしろ――他の生徒より先生と仲がいいのかもしれないって、優越感さえあった。

 皆上先生は、今日も気だるそうな空気を纏って、俺のノートに目を走らせている。
(……眠そう)
 まだ徹夜してんのかな。大学の研究室に泊り込みで、家に帰れてないのかもしれない。
 学生の皆上先生って、どんなだろ。
 論文に頭を抱えていたり、友達とふざけ合ってる先生は……ちょっと見てみたいかも。

「ここ、かな」
 先生の声で、現実に引き戻される。
 その指先が、机の上に置いた俺のノートの数字をなぞっていた。
 ……引き算が、間違えてる。
「この後の式も惜しいな」
 先生が、シャーペンでノートの余白に走り書きする。前の授業の名残か、手の甲に赤いチョークの粉がついていた。
「――新倉? 聞いてる?」
「ご、ごめ、ぼおっとしてました」
 しどろもどろに言ったら、先生が苦笑いした。
「眠いの?」
 顔を覗きこまれて、かっと体温が上がった。
「せ、先生じゃあるまいし」
 眉を寄せたら、そっか、と笑って、先生が説明を再開する。
「こっちに入れたら?」
 言われて気づいて、持ってきた自分のシャーペンで式を書き直す。先生の机で、うんうん言いながら計算して、やっとxとyの解が出た。
「できたっ……」
 見上げると、先生の優しげな眼差しがあって、どきっとしてしまう。
 相変わらずの、黒縁眼鏡。その唇が微かに笑んで、俺の頭を大きな手が撫でた。
「よくできました」
「……っ」
 胸に、広がるように咲いた温かさは、妙に甘くて――嫌な予感がした。


 授業では、皆上先生は相変わらず「変人」扱いだった。
 腫れ物に触るような、様子を窺うような妙な緊張感と、どこかからかったような空気。
 黒板に解答を書いている生徒たちを尻目に、教室は気が抜けたようにざわついている。
 俺は、ノートを手に黒板のスペースが空くまで待ちながら、腕組みして一番前の席の森さんのノートを覗き込んでいる先生が気になってしょうがなかった。
 チョークで汚れた白衣の袖はまくられていて、男っぽい筋肉の浮いた腕が覗いている。
 森さんの、できた、っていう声が上がって、びくっとする。
 先生が柔らかく笑う。ここから表情は見えない。けど、先生の空気が微笑んだのがわかった。
 森さんが、先生を見上げたまま固まっている。口が半開きだ。

 ――あ。やばい。バレる。

 変な焦りが湧いた。
「新倉君、空いたよ」
 シャーペンで突っつかれて、はっとしたら、みんな解答を書き終えて席に戻っていた。
 教えてくれた、すぐ傍の席の女子に、さんきゅと声をかけて慌てて黒板に向かう。

 解答を書き終えて席に戻ると、チョークで汚れた白衣をまとった先生が黒板で解説をはじめた。
 教室に、まどろんだ低音が響く。
 頬杖ついたまま、ぼんやりと少し猫背の背中を見ていた。
 長い腕。ぼさぼさの頭。しわしわの白衣。
 ……先生だなあ、と思いながら。
 黄色のチョークが、俺の解答の記号や数字を囲って、色づけていく。
 なぞって、線を引いて、痕をつけて。チョークの先が、俺の字を撫でる。
 指が器用に動いていく様子はどこか官能的で、俺はひとり恥ずかしくなった。
「正解。よくできました」
 赤のチョークに持ち替えた指が、丸をつけた。
 振り返って目を上げた先生と、一瞬目が合う。
 なんで、男相手にドキドキしてるんだよ。
 ……こんなの、変だ。
 授業終了のチャイムが鳴って、教室中が息を吐き出した。
「次、新しい章に入るから各自予習ね」
 ページ指定があって、また何人かが当てられた。
 授業に少し慣れてきたらしい声は、今日は、教室の後ろまで届くぐらい張りがある。
 森さんが、ノートを持って立ち上がった。教壇で戻る支度をしている先生に話しかけている。
 あの笑顔は、先生のことをもう、変人だって思ってない証拠だ。

 ”先生”は、俺たち高校生にとって、一番身近にいる他人の大人だ。
 先生と仲良くなって、自分も大人になれたような陶酔とか優越感とか、そんな気持ちになることはよくある。
 子どもっぽい独占欲の、延長線上。
 森さんのはどうかわからないけど……俺のも、そうなのかな。
 目で追ったり、話したくなったり、会いたくなったりするのは。
 ただの、ワガママな独占欲なんだろうか。




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