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 ◇◇◇


 次の日――土曜の朝。
 森さんの机の周りに集まっている4人の仲良しグループの女子が、「うそっ」「ありえない」って声を上げながら話している。
 その輪の中心にいるのは森さんだ。
 俺は素知らぬ顔をしながら、廊下側から2列目、前から3番目の自分の席で聞き耳を立てていた。
「考えてみてよ、顔隠れてるだけだよ?」
「頭ぼさぼさじゃん〜、かっこいいとは程遠いよ」
「ダサメガネだし」
 それを聞いて、吹き出しそうになった。確かにあのフレームは太い。
「いいから、見てみてって」

 ――あれって完全に、皆上先生の話だ。
 半信半疑の女子たちの中心で、森さんが熱弁を振るっている。
 早く鳴れ、って念じたら、チャイムが鳴った。
 授業の時にちゃんと見てみてよ、という森さんの声にえ〜と疑いの声を上げながら、女子たちが席に戻っていく。
 ……波乱の予感がした。一雨来そうなくらい雲行きが怪しい。
 ガラっとドアが開いて、ぎくっとする。

 皆上先生が、来た。

 ……あれ? っていうか、なんで皆上先生が?
 朝のホームルームなんですけど。数学の時間じゃないし。
 教室が少しざわつく。
 さっきの女子たちの意識が、先生に刺さるのを感じる。森さんも、前のめりだ。
 号令がかかる。
 その最中、先生と一瞬目が合ってどきっとする。でもすぐに逸らされて事務的なセリフが続く。
「望月先生が休みなので、今日は俺が担任ね」
 一瞬、教室がざわついた。
 珍しく張ってる声は、たぶんみんなが思っていたより爽やかだったんだろう。
 教室内が動揺にざわついた。
 連絡事項が始まると不思議と静かになる。先生が話している内容を聞いているというよりも、声から、謎の先生を探ろうとしているような、そんな空気だった。
 俺は、また妙な焦りが胸に湧いてくるのを感じた。
「……なんか、係決めなきゃいけないの?」
 先生が言いながら教室を見回すと、前の席の奴が説明する。
 うちのクラスは、転校1人、入院が1人出て、係に空白ができているのだ。
「あー……なるほど。5限のHRで決めるから、なにやりたいか考えといて」
 鷹揚な調子でお達しが出て、朝のHRが終わる。
 さっさと職員室に引き上げていく白衣は、相変わらずチョークで汚れていた。
 緊張していた息を、ほっと吐き出す。
 さっきの女子グループが、わいわいと森さんの席に集まった。
「びっくりした〜、急に来るんだもん」
「とりあえず声とか、話し方とかはイイ感じだったかも。いつものボソボソはなんだったわけ?」
「さあ……おなか痛かったんじゃない」
「なんか顔見たくなってきたー」
「ほらね、どうするかっこよかったら」
 やばくない!?
 ……って、興奮したような声が上がっている。
 やばい。最高にやばい。南海上に、熱帯低気圧現るって感じだ。ますます焦りがひどくなる。
 なんで俺がこんなに焦ってんのかは、自分でもよくわからない。
「おまえなにやんのー」
「え」
 驚いて顔を上げると、かったるそうに俺を覗き込んでる多田の姿が目に入った。体が大きくて兄貴肌で、頼られることの多い人気者だ。「頼ってこない新倉と居るのが一番楽」と言って仲良くしてくれている。
「何を?」
「係だよ。話聞いてたか?」
「聞いてたよ。どうしよっかな……」
「教科係いいぞ。成績評価上がりやすいし」
「へえ〜?」
「おまえもやったら。変人大歓迎だろ」
 急に先生の名前が出て、どきっとする。
「な、なんで」
「おまえら仲良いじゃん」
 仲が良い? 俺の何を見ていて言ってるんだ?
 なぜか後ろめたくなって、胸の底が重くなる。
「おまえ、高校生特有の反抗精神(レジスタンス)がねえもんな。新米にとっちゃ奇跡の生徒だよ」
「は、あ……?」
「初日から変人と普通に接してたの、おまえだけだもん。あれでみんな『変人って話せる奴なのか?』って雰囲気になったし、そりゃあ変人助かってるぜ」
「え……そういうもん?」
「そういうもん」
 ……そっか。
 先生が俺と話してくれるのって、先生にとっては、そういうメリットがあるからなんだ。
 いきなり思春期真っ只中の奴らの中に放り込まれて、数学教えなきゃいけなくて。挙句に『変人』なんて言われたら……そりゃ困っただろうな。
「そっか――」

 俺って、先生にとって『便利な生徒』なんだ。やっと納得いった。
 生徒が懐いてきたら、よっぽどのひねくれ者じゃなければ嬉しいと思うだろうし。
 なーんだ……そっか。

「新倉?」
「あ、え?」
「元気ねーな」
「そんなこと、ないよ」
 ……全然、そんなことないよ。
 現実がよくわかったから、冷静になっただけだ。


 ◇◇◇


 あっという間に、でも、長い一日が過ぎて、帰りのHRが始まる。
 皆上先生が、メモを片手に黒板にチョークを走らせて係を書き出していた。
 俺は、その背中をどんよりした気持ちで眺めていた。
 なんだか、白衣のしわが増してるような気もする。
「はい、希望のところに名前書いてー」
 委員以外の生徒がざわざわ立ち上がって、係の下に名前を書いていく。
 多田は、さっさと教科係の下に名前を書いている。
 俺は、まだ迷っていた。
 ばたついている教室の中で……なんとなく。ふらりと。
 窓に背を持たせて腕組みしている先生の傍に行く。
 先生は、近づいていく俺を一瞥すると、俺が気後れしないように気配で包んでくれたのがわかった。
 目が合わせられなくて、黒板を睨んだままその横に立つ。
「……新倉、何するの」
 眠そうな声だった。朝の爽やかな声はどこに行ったんだろう。
「まだ決めてないけど……先生、今眠いだろ」
「おまえは俺のお母さんか」
 先生が、くく、と笑う。「係決めてないなら、お手伝いしてほしいなあ」
「え」
「新倉みたいにいい子に、お手伝いしてもらえると助かるんだけど」
「……俺に教科係やれってこと?」
「これは、俺のひとりごとだよー」
「聞こえてるし」
「耳が良いんだね、新倉は」
 呟くような声の誘惑に負けて、恐る恐る隣を見上げると、先生と目が合う。
 眠たげな目は、俺の中を探るような、溶けそうな色だった。
 ぞくっと体が震えてしまって、自然を装って視線を引き剥がす。
 慌てて先生から離れると、俺は、人垣の中をチョークを握って黒板の前に立った。
 ……ふらっと触れてしまいそうになった。あまりに自然に飛び込んでしまえそうで、危なかった。
 胸が、苦しい。
 でも、一瞬で全部わかった。

 俺は、先生、を――。

 ……これ以上は嫌だ。考えたくない。

 俺は、『教科』の文字から視線を逸らして。
 先生の字で『掲示』と書かれた下に、震える手で名前を書いた。


 ◇◇◇


「掲示は人気どころだからなあ」
「……」
 多田の慰めの言葉に何も返せなくて、はあ、とため息する。
 俺は、HRの後、集めたクラス全員分のノートを多田と手分けして職員室に持ち帰るところだった。
「朝言ったよーに、教科係、悪くないぜ。1年のときやったけど」
「……嫌なわけじゃないけどさ」
「終わらせて、さくっと帰るぞ」
「多田は部活だろ」
 多田は、テニス部の主将だ。練習にも欠かさず出てるみたいで、めんどくさがりな態度とは裏腹に根は真面目だ。
 他愛のない話をしながら、職員室のドアの前に立つ。
 両手がふさがっていたから、膝でノートを抱え直して不安定な体勢のままドアに手を伸ばす。
「あ」
 背後で、多田の声がした。
 後ろから、ぬっ、と目の高さに腕が伸びて目の前のドアを押す。
 チョークで汚れた白衣の袖だ。
 振り向けない。
 ドアが大きく開いて、言葉で促される。
「入りなよ」
「あ、ありがと……ございます」
 俺は、軽く頭を下げて、先生を見もせずにノートを抱えなおしながら早足で机の間を縫って歩いた。
 目的のデスクにノートを送り届けると、多田が言った。
「変人とケンカでもしたか」
「え?」
「おまえ、態度変だから」
 ……言われなくたって、わかってる。
「そんな……なにもないよ」
「そ? じゃあ帰るか」
「多田は部活だろ」
「それを言うなっつってんのに」
 軽口を叩きあいながら、引き返す。
 先生は、職員室に入ったところで物理の先生と話していた。
 その背中に、すれ違いざま、喉の奥から絞るように言う。
「……さようなら」
 皆上先生が、気がついたように視線をくれて。
「ん。気をつけてな」
 先生の声は、相変わらず柔らかかった。そわそわした気持ちになって、またいつもみたいにいろいろ話したい欲求を押し殺す。
 感情のコントロールがきかなくてぐしゃぐしゃだ。
 先生の声や気配が体に入ってくる度に、快感が走り抜ける。
 足りなくてもっと欲しい感じ。
(……なんだよこれ、やばくね……?)
 少しずつ、泥沼に沈んでいくような感覚だ。
 誰かに引っ張り出してほしいけど、誰に助けを求めるわけにもいかなくて。
 俺は、ただただ、沈んでいくのを待ってる。
 ……このまま沈んでしまったら、そこに何があるんだろう。




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