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罪人は、それでも幸せを願う
第4話







 ◇◇◇


「……っ、ん、ぅ」
 切なげな声が漏れて、焦った。
 唇を噛み締めて、ぎゅっと目をつむる。
(……どうしよう)
 もう何日も、あの、手の感触が体から離れない。
 乱暴に絡みついて追い立てるような、長い指の感触が。
 唇もすごく柔らかくて。キスされて、気が遠くなるくらい……気持ちがよかった。
 布団を噛み締めて、声を抑える。
『……晴哉』
 ビクッと腰が震えて、強烈な罪悪感と一緒に倦怠感が体を襲う。
「っ……」
 ……あんな声で名前呼ばれたら、どうしようもなくなる。
 別に、何もしていない。自分ではどこも触ってない。ずっと頭の奥がふわふわしてるんだ。
「なんか……呪いにかかったみたいだ……」
 薄暗い自分の部屋の天井を見上げて、心臓の鼓動を整える。
 そのまま、ぼおっと動けずにいた。
 思い出せばすぐに体が熱くなる。ベッドから起き上がって記憶から逃げた。
 物音一つしない廊下に出て、バスルームに入る。
 洗面所で、ハンドソープをこれでもかと手に出して洗った。頭を冷やしたくて、冷水で顔も洗う。
 ぼんやりとした照明に浮かび上がる自分の姿を鏡越しに見る。
 首に残った、消えかかった痕が。
「……っ」
 ジン、と体に甘い感覚が走って膝から力が抜けた。
「もう……やだよこんなの――」
(思い出す度にこんな風になるなんて、俺、変になったんじゃないかな……)
 記憶の中の兄さんに翻弄されながら、熱くなった体が静まるのを待つ。
 もう……へとへとだ。身体もそうだけど、心の方が。
 力の抜けた足を踏ん張って、立ち上がる。
 ふと見た鏡の中の、自分の顔。
「……なんて顔してんだよ」
 やめろよ。
 こんな、物欲しそうな顔。




 ◇◇◇



 
「――い。おいってば」
 顔を上げると、久留米が怪訝な顔で俺を見下ろしていた。
「あれ……? もう帰り?」
「おーい、ちげーよ。昼休み。飯買いに行こうぜ」
「あ、うん」
 ごめんごめん、と言いながら立ち上がる。
 久留米と並んで歩いていると、廊下を走る生徒たちに追い越されていく。
 その背中を見ていたら、銀座の空と、着物の背中が目に浮かんだ。
「おまえ、なんかあった?」
 久留米に急に言われて、目を向ける。
「ここ数日様子おかしくね?」
「そ、そうかな」
「先週末、例の旅館に一泊だったんだろ。何かあったのか」
 内心、ぎくっとした。
「なんかやらかしちゃったかー?」
「な、なにもしてないよ」
 久留米は、日に焼けた手で首の後ろを撫でてから、俺の背中を叩いた。
「……っし! 放課後、飯食いに行こうぜ」
「なに急に。部活どうすんの」
「いいから」
 鼻歌混じりに歩く久留米を見て、一体どんな顔でどんな話をすればいいか考えていた。


 ◇


 モスバーガーで、新メニューにかぶりつく久留米の豪快な食べっぷりを見ながら、俺は、ポテトをかじっていた。
「西村のバーガー、うまい?」
「うん。食べる? 一口」
 持っていたバーガーを久留米に差し出すと、手ごと引き寄せられてかぶりつかれる。
「うめえ」
 手を解放されて、俺もバーガーの続きを頬張った。
 今日は、久しぶりに思いっきり遊んだ。
 ゲーセンに行って、シューティングでバイオハザード最終面までクリアして。
 買い物して、カラオケ行って……あっという間に夜の7時だ。
 自分が、まだ高校生だってことを思い出せた一日だった気がする。
 いつも、こうやって遊ぶことに罪悪感があった。章宏兄さんの稽古姿が、頭に浮かぶから。
「西村、やっぱりなんかあったろ」
 急に水を向けられて、ポテトが喉に詰まった。咳をする俺を久留米が気の毒そうに見ている。
「ぼーっとしてさあ、おまえらしくねえわ」
「俺らしくない?」
「いっつもニコニコしてんのに」
「それってアホみたいだな……」
「で? 何があったんだよ」
 少し考えてから、口を開いた。「兄さんが……もう4日も帰ってこなくて」
 心配になって、昨日は勇気を出してメールしてみたけど……友達の家に泊まる、って簡潔な返信があったきりだ。
「はあ? そんな理由でぼーっとしてんの」
 俺が返事の代わりに苦笑いすると、久留米が言った。「兄貴いくつだっけ」
「もうすぐ21」
「20超えたら男なんか勝手にするもんだろ」
「そうだろうけど」
 兄さんの場合は、どんなに遅くなっても急な外泊なんて滅多にしない。それも、何日も続けてなんて。
 タイミング的にも、いろいろ考えてしまう。旅館でのこととか、俺が言ったことを気にしてるかも、とか。
 もっと、良からぬ想像も……しちゃうんだよな。
「家のことでなんかあったか」
「って言われれば……確かに家のことかもしれないけど」
 あの若さで縁談があるなんて、普通ではないとは思うし。
 だからと言って、西村の家じゃなければ兄さんと俺がどうにかなれていたのかというと、それも違う。
「……どうしたらいいかなって……思ってて」
「うまくいってねえのか」
「俺以外は……うまくいってると思う」
「"おまえ"が、うまくいってねえってこと?」
「うん」
 ……そうだ。うまくいってないのは俺だけだ。
 『西村』の経営は順調だし。兄さんも、大学に通いながら着々と跡継ぎとしての仕事をこなしているし。『松崎旅館』の娘さんと兄さんの縁談がまとまれば、経済的にも安泰で。その先の、跡継ぎだって――。
(――痛い)
 胸が。
 深く考えるのをやめて、バーガーを頬張った。
 でも、霧の向こうが見えた気がする。
 『西村』の未来には何の不安もない。章宏兄さんみたいなしっかりした人がいるんだから。
 苦しいのは、俺だけ。俺が兄さんを好きだってことだけだ。
 俺の心だけが、問題なんだ。
(そんなのって問題の内に入らないよな)
 やっぱり、あの日決めた通りに兄さんの幸せの邪魔にならないように生きよう。
 銀座の歩道で、兄さんはしばらく俺を見つめてから視線を外して、何も言わずに店に戻って行った。
 怒ってはいなかったと思う。俺の言葉に、なんて返していいのかわからない、って感じだった。
 そんな章宏兄さんをやっぱり好きだって思ったし、だからこそ、自分の気持ちだってなんとかできるって思った。
 ……間違ってない。俺はきっと、正しい道を選べてる。
「久留米、ありがと。おかげで解決しそう」
「は?」久留米が、目を丸くする。「俺なんにも言ってねえけど」
「うん。でも、なんかわかった気がする」
 そう言ってシェイクを吸っていると、久留米がじっと見てくる。
「……なに?」
「おまえ、時々そういう顔するよな。切なそうな表情っていうか、なんか我慢してるっていうか」
 そういえばそんな表情、章宏兄さんもよくしている気がする。
 遠い目をした兄さん、すごく綺麗なんだよな――そんなことを思いながら、ストローをかじった。
 久留米が、バーガーの最後の一口を食べて、ポテトに手を伸ばしながら俺を見る。「おまえ、悪いクセがあるから気をつけろよ」
 俺は、え、と思わず眉を寄せた。「なにそれ?」
 一瞬黙ってから、久留米が口を開いた。
「自分を大事にしないクセだよ」




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