喉の奥で、心臓が鳴っている。
「……黒海先輩に、好きな人がいるんですか」
声が震えてしまった。
サディスティックに口端を上げた赤岩さんの表情に、ゾッとする。
「朝陽!」
声に振り向くと、国尾が手に弁当が入った袋を下げて立っていた。
食堂のざわめきが耳に戻ってくる。窓の外に雲が立ち込めて、裏口から忍び入る湿った風が肌寒い。
「急に消えるなよ、教室戻ろーぜ」
赤岩さんが、俺たちの横を通り過ぎようとする。
(まだ聞きたいことが――)
「待っ――」
「一夜のこと」呼び止めようとした俺を、赤岩さんが強い語調で遮った。「知りたくなったら、俺に会いに来てよ」
腹の中がわからない笑みを浮かべて、食堂へ引き返していく背中を国尾と見送る。
この、虚脱感。
恋を自覚したら、恋が終わっていた。
赤岩さんの言葉は、むしろありがたかったのかもしれない。
俺の不安定な恋心に、とどめを刺してくれたんだ。
下駄箱を開けて、胸をなでおろす。
今日も、黒海先輩からの呼び出しの紙はない。
ついこの間まで……赤岩さんと話をするまでは、むしろ心待ちにしていたのに。
ここ数日、部活で国尾がいないのが妙に心細かった。国尾と話している間は全て忘れていられるから楽だ。
いっそ、黒海先輩との出会いから、正体を知るまでの一切の心の動きを忘れてしまえないかな。
「――本命、か」
(相手は、ヴァンパイアかな)
きっとそうだ。黒海先輩は人を好きにならない。
ひと目でいいから、先輩の本命だという相手を見たい。揺らぎようのない現実が、この浮ついた気持ちを完全に消してくれるかもしれない。
苦しいから、諦めたい。
『一夜のこと知りたくなったら、俺に会いに来てよ』
赤岩さんの言葉が浮かんだ。
本当に赤岩さんも黒海先輩と同じヴァンパイアだとしたら――。
ぶるっと背中が震える。
不用心に会いに行ったら、黒海先輩にされているあの行為を赤岩さんにされるかもしれない。考えただけで冷や汗が出る。
(黒海先輩だから俺は――)
思いかけて、考えるのをやめた。
不毛だ。潰れそうに、胸が軋んだ。
校舎を出ると、雲行きが怪しかった。遠い空が不穏に呻いている。
梅雨入りが宣言されているのに、傘を家に忘れてきた。心がふわふわして落ち着かないまま、登下校のまばらな足音に混じって門から出る。
ふいに、声をかけられた気がした。
足を止めて辺りを見回す。帰宅する生徒の中に、知り合いの顔はない。
「おいって」
今度ははっきりと苛立ちを含んだ声が飛んできて、左を振り返った。
見覚えのある顔が立っている。たしか、渡り廊下で黒海先輩に告白していた男子生徒だ。
こうして改めて見るときれいな男で、髪も目も色素が薄くてブラウンがかっている。身長は俺と同じか少し高い。どことなく女性的で、女王様って感じだ。勝ち気そうな大きな目に挑戦的な色を浮かべて俺を見ている――というより、睨んでいた。
「志田朝陽」
(……なんで俺の名前を知ってるんだ)
そして、上から下まで吟味される。
「おまえだよな。黒海先輩と旧校舎でセックスしてる奴は」
苛立った声の強烈な台詞に、周りの生徒の目がこっちを見る。
俺は血の気が引いた後、気が遠くなりかけた。思わずそいつの腕を掴む。
「は? 勝手に触んな」
不機嫌な声に構わずに腕を引っ張って、門の中に逆戻りした。
人気のないベンチスペースに着いたところで、舌打ちと共に手を振り解かれる。
「……何のつもりだよ」
「うるさい。質問に答えろ」女王様が、最高に不機嫌な目で睨んでくる。「音楽室で隠れて会うなんてよく思いついたな。防音だからいくら声出しても聞こえないもんねえ、あーいやらし」
「ちょっ……」
「しかも旧校舎って……雰囲気に酔ってんのか知らないけど、密会でもしてるつもりかっての。マジ笑えるんだけど」
女王様は不機嫌そうにまくしたてて、組んだ腕の上でイライラと指を跳ねさせている。
(……そうか、この人は先輩のこと好きなんだもんな)
廊下での告白シーンを思い出して、気が塞ぐ。
誤解があるから、解いておかないと。
けど、俺が口を開く間もなく、女王様に指をさされた。
「おまえだけじゃないからな。黒海先輩には相手は山ほどいるんだよ! 中でも俺は特別。1年前から何度も相手してもらってるんだから」
歯噛みする音がここまで届く。
のろけ話を聞かされているようで、でもそうじゃないらしい。ただ、すごく怒ってることはわかる。
「……なにか誤解してるよ。俺は先輩と何も特別なことは――」
女王様が、カッと目を見開いた。「じゃあなんで黒海先輩は、おまえ以外に会わなくなったんだよ!」
そのあまりの剣幕に、ぎょっとする。
「どんな手を使った? 弱味でも握ったのか」
「いや、ちょっと待って――」
「人間ごときに先輩が怖気づくわけない……おかしすぎる」
「――人間ごとき?」どこかで聞いたような言い方だ。3日前にも、赤岩さんが。
「もしかして……あんたも黒海先輩と同じなのか」
恐る恐る言った俺に、女王様が鼻を鳴らす。
「同じって、なにが」
「だから、その」一瞬躊躇して、意を決する。「あんたも、ヴァンパイアなのかってこと――」
一瞬、視界が揺れる。次の瞬間には息ができなくて頭が混乱した。女王様が憎しみの炎を宿した表情で、俺の首を掴んでいるんだ。
「喉笛、潰してやろうか」
「……っ」一瞬で間を詰められた。人間の速さじゃない。
(苦し……っ)
もがいて、女王様の腕に爪をたてる。「はな、せ……っ」
「無駄な抵抗やめろ。人間の分際で、高潔な俺たちを侮った罰だ」
やっぱり、こいつもヴァンパイアだ。
先輩と、赤岩さんと、この女王様。
この高校には少なくとも3人はヴァンパイアがいる。
(一体、なにがどうなってるんだよ……っ)
「はいストップー。あさひクン死んじゃうよー黄河(おうかわ)くん」
険悪な空気を裂くように、聞き覚えのある緩い声が飛んできた。ポケットに手を突っ込んで歩いてくるのは赤岩さんだ。
黄河、と呼ばれた女王様は、ち、と舌打ちをして俺の胸をどんと押す。
やっと解放されて、俺は咳き込んだ。
(ふたりは知り合いなのか……?)
状況が飲み込めずにいると、赤岩さんが眉を上げる。「自己紹介まだだった? こいつは黄河遥(おうかわよう)。あさひクンと同い年の国際科2年生ー」
国際科は普通科の隣の棟だから、顔を合わせる機会がほとんどない。どおりで見かけないわけだ。
「赤岩、勝手に個人情報をペラペラと――」
「先輩、ってつけようね?」不意に、空気の質が重く変わる。赤岩さんが出している気配だ。口は笑っているのに、目が笑っていない。黄河は、小さく舌打ちして口を閉じた。
「黄河クンは、あさひクンのテイスティングでもしに来たの」
「バカ言うなよ。俺は人間の血は飲まない」
「だよねえ。黄河クンは、"ジュンケツ"フリークだもんな」
「ジュンケツ……?」意味がわからない。
赤岩さんがこっちを見た。
「……おや、後輩クンは本当に何も知らないんだな」赤岩さんが、意味ありげに俺に近づく。「俺のところに来れば、いろいろ教えてあげるって言ってるのに……」
急に甘ったるく低くなった声に、俺は危機感を感じて後ずさった。
「……おい、赤岩センパイ。横から入ってきて話を混ぜっ返さないでくれますかね」
「あー、ごめんごめん」
両手を上げた赤岩さんをひと睨みしてから、黄河が俺に向き直る。
「もういい。おまえ、どっかに消えろ。黒海先輩の前に二度と現れるな」
散々な言い様に、さすがにムッとくる。
「何の権利があってそんな偉そうなこと言ってんだよ」
「黙れよ人間が」黄河が殺気をこめた目で見てくる。「おまえなんかがあの体を独占するなんて、絶対に認めないからな」
(あの体、って)
すごい言い方だ。ヴァンパイアの倫理観ってどうなってるんだろうか。
「俺は、先輩を独占なんかしてない」
俺が言い返すと、黄河の雰囲気が悪化した。
「マジでムカつくこいつ……」
「まあまあ」赤岩さんが強引に間に入ってくる。「この間、あさひクンに肝心なこと訊きそびれちゃって」赤岩さんが俺に視線を振った。「もう何回くらい一夜に可愛がってもらったの」
「は……」
「もう2ヶ月近い関係だよねえ。50回くらい?」
語尾にハートがついていそうな口調で言われて、俺は絶句した。
何がどうなって、そんな発想に至るんだろう。ひどい思い違いだ。
要するに、黒海先輩は赤岩さんに俺たちのことをまったく話してないってことだ。だったら、俺も下手に何か言うわけにはいかない。先輩が隠しているんだから。
誤解だけは訂正しようと言いかけた矢先、黄河が言う。
「黒海先輩のセックスって、興奮するもんな。独り占めしたくなるのもわかるよ」わざと、ねっとりと絡みつくような言い方をした。目が笑ってない。「先輩はヤる時も冷静で、快感でいたぶられてるような感じがするよねえ。俺がセックスでマゾヒズムに陥るのって先輩相手だけだよ。誰かさんが邪魔しなければ、毎日でもシたいんだけど」
苦々しい口調に変わって、黄河が俺を睨む。
黄河が、黒海先輩と体の関係があることは立ち聞きした時にわかっていた。けど、こうして聞くと生々しくて、辛い。
「だから、俺は何も――」
「あさひクンは黄河に言われなくても知ってるよなあ。一夜のお気に入りなんだから」赤岩さんが口端を上げる。
この人、わざと話を混ぜっ返してる。面白がって、この場をメチャクチャにしようとしてるみたいだ。
「だから! 違うって!」
「なにが違うの。廊下で一夜に飲まれてたくせに」
ぎくっと胃の底が冷える。
(……それって、2回目の時か?)
「気持ち悦くて夢中で、覗かれてるのに気づかなかったんだよな? たまらない顔で一夜にすがってさ。すーごく可愛いかったよ……終わるまで見届けちゃったぐらい」
黄河が忌々しげに鼻で哂う。「ほーらやっぱり嘘つく。人間がジュンケツのヴァンパイアを目の前にして、ヤらないでいられるわけがないし」
「さっきからジュンケツって……何のことだよ」
「ヴァンパイア以外の血が混じってない血統、ってことだろ。よく考えろバーカ」
……黄河はいちいち一言多い。
それにしても、純血はなにか特別なんだろうか。たしかに黒海先輩の場を支配するような圧倒的な雰囲気は、同じヴァンパイアのはずの二人からは感じない。でもそれって、個性の話だと思っていた。
俺は、二人それぞれからの、好奇心と嫌悪の視線に耐えかねて、ため息をついた。
「……黒海先輩とは本当に何もない。血を提供してるだけです」
「またまたあ。隠さなくても」
「隠してません」
赤岩さんが、本気で怪訝な顔をする。
「そもそも……赤岩さんが言ったじゃないですか。黒海先輩には本命がいるって。だから俺は何も――」思わず、声が小さくなった。
そう。何もない。
ただ、血を提供しているだけだ。
自分で言っておいて、ズクズク胸が疼いた。
女王様が鼻白んだ表情を浮かべた。「信じられない。吸血時に純血の支配下に入った人間が何もせずにいられるわけがない」
赤岩さんには新種の動物でも見るような目を向けられて、俺は気まずくて顎を引いた。
「……そういえば、食堂でも俺のに耐えてたよな。特異体質か?」興味深そうに顎を撫でながら、まじまじと観察してくる。「ヤらないで血を飲むなんて可能なんだな……おもしれえ」
(なんでこの人達は、さっきからセックスの話しかしないんだろう)
女王様が、ふんと鼻を鳴らす。「おまえみたいなのが相手じゃ、先輩はその気にもならないってことか」
「そうかなー。俺は結構好みだけど」
「赤岩センパイは誰でもいいんでしょ。雑食だから」
そう言った黄河にわざと顔を覗き込まれて、俺は顔を背けた。
「血だけ提供してるって? それってさあ……」
ギクリとする。
言われたくない。その先は。
「ただのエサ、だね」
喉の奥が詰まった。
今一番、言われたくない言葉だった。
「……俺、もういいですか。帰って」
「いや、待った」赤岩さんが眉を上げる。「一夜がさ、だるそうにしてること多いんだよねえ。早退や遅刻も増えててさ。あさひクン、なんか知ってるんじゃないの」
「先輩は……いつも気だるそうにしてる人だと思ってましたけど」
俺の戸惑いが顔に出ていたのかもしれない。
赤岩さんが目を細める。「一夜と最後に会ったの、いつ?」
言われて、とっさに頭の中で計算をした。
「10日……前です」
赤岩さんが、一瞬目を見開いた。黄河が思いっきり眉を寄せる。
「10日!?」
「おいおい……冗談だよな」
そう言ったきり、赤岩さんも黄河も絶句してしまった。
「な、なんですか」
「あのさあ!」黄河がぐしゃぐしゃとサラサラの前髪を掻き回している。「おまえは10日もメシ我慢できるのかよ!」
「え……」
「3食とまではいかなくても、2日に一度は飲みたいかな」
俺は、赤岩さんの言葉に呆然とした。
静まりかえった頭の中が徐々に回り始める。
薄々感じてはいたけど。
(黒海先輩の血を飲むペースって、ヴァンパイアにとっては間が空きすぎなんだ……)
誰かの血をもらっているのかもと思っていたのに。黄河が知る限りはそれもないみたいだし。
心臓が、ドクドクと不穏に鳴り始める。
そこまで、血を飲むのを避けているなんて。
(黒海先輩は血を飲むのが本当に好きじゃないんだ――)
というか……ほぼセットになってしまっている不特定多数との性行為が、だろうか。
面倒だ、と嫌がっていたのを俺は知っていた。黒海先輩が話してくれたんだ。
だから俺は、この役割をかって出たはずなのに。
いつも会った時、顔色が悪い気がしていた。俺は気がついていたのに。
「もしかして、よっぽど不味いんじゃないの。こいつの血」
「だったら他のを飲むだろーに」
二人の視線を浴びながら、心の中が渦巻く。
好きだ好きじゃない、本命がいるいない――そんなことにこだわって、うじうじして。
今一番会わなきゃいけないのは、話さなきゃいけないのは、黒海先輩なのに。俺は――。
「……なにこいつ。ぶつぶつ言って、気色わる」
足がむずむずして、体がそわそわする。
居ても立ってもいられない。
「赤岩さん、黒海先輩どこにいますか」声が焦った。
赤岩さんが眉を跳ねさせる。「いや、知らないけど……帰ったんじゃないの」
「家ですか。どこにありますか」
「家、って」赤岩さんが吹き出す。「一夜の家なんか知らねえよ」
「そっか……」
どうする。職員室できいてみようか。
赤岩さんがため息する。「連絡して会えばいいのに」
「連絡先、知らなくて」
今度は、黄河が吹き出した。「なーんだ! ほんとに俺の相手じゃないや、こいつ」
「黄河クンは一夜の連絡先知ってんの」
そう言った赤岩さんを、黄河が憎々しげに睨む。「……知らない」
「俺も知らない。一夜はなんも話さねーよ、秘密主義者だから」
誰も黒海先輩に連絡をとれない。
とにかく、心当たりを探すしかない。
またどこかで、倒れているかもしれない。
「あ、おーい。どこ行くのー」
「バカなんだよ、あいつ」
二人の声を背中に聞きながら、俺は構内を走り出した。