[]







 雲行きが怪しい空を窓の向こうに見ながら、人気のない旧校舎を走る。
 黒海先輩の居場所の心当たりはふたつだ。
 ひとつは第二音楽室。真っ先に見に行ったけど、いなかった。
(もう帰ったのかな)
 雑念に揺れながら階段を降りる。
 心当たりはもうひとつ。使われている様子がない旧校舎のガラス戸を押し開けて、中庭に出る。
 梅雨の花壇は様相が変わっていた。色鮮やかな薔薇は姿を消して、曇天に溶けそうな紫陽花や寒色の花々が揺れている。
「はあ……」
 焦っていた心が、急に静かになった。荒い呼吸を調える。 
 レンガの道を辿って、扉のない小屋の前に立った。後で知ったけど、ガゼボという形式の建物らしい。先輩と初めて会ったあの日から佇まいはまったく変わってない。
「あ……」
 ブラックバカラが、咲いている。
 花の絨毯がすっかり色を変えてしまった中で、変わらずに黒をまとって咲いていた。
(薔薇って、こんなにずっと咲いてるのかな)
 触れようとして伸ばした手を止めた。
 あの日、指に走った痛みを思い出した。
 本が落ちる音。ベンチに横たわる体と、投げ出された足。
 伸ばした俺の腕を、掴んだ手。
『誰』
「……っ」
 喉や胸が、ぎゅっと締まった。
 艷やかで重たい眼差しを思い出して、息が止まりそうになる。
 ……俺の中は、黒海先輩でいっぱいだ。
 空気も色も、声も仕草も。
 思い浮かべるだけで泣きたくなる人を、俺は他に知らない。
 ――こんなに特別な人が、ヴァンパイアだなんて。
 どこにもぶつけようがなくて、ただ虚しい。
 戸のない入り口から中を覗き込むと、無人だった。
「……そううまくは、いかないか……」
 今日はもう会えないだろうな――。
 中に入って、肩からカバンを下ろす。
 2年前、黒海先輩が長い足をくつろげていた木製のベンチに座って落ち着くと、葉が擦れる音に包まれた。湿った風に吹かれる草木のざわめきは重い。ガゼボの開口部を雨の気配で冷えた風が通っていく。
 ここには、独りの時間が流れている。静かで、すべてが夢なんじゃないかと思えてくる。
 木々のざわつきに身を任せて、しばらく考えるのをやめた。
 ――求めると、苦しい。
 絶対に手に入らないものを欲しがるから苦しいんだ。
 もう、やめよう。触れられないのに手を伸ばすのはやめよう。
 今、俺にできることはなんだろう。
「……先輩が、嫌な想いをしなくて済むように手伝うこと、かな……」
 きっと、透明になれる。
 徐々にでも、出会いから今までの記憶のすべてを……好きだと思う気持ちを、過去にすることはできるはずだ。
 まるで住む世界が違うんだと思えば。
『鬼に心を奪われないで』
 そうだ。大好きなおばあちゃんの言いつけも守ることができる。
 楽になった気がした。
 俺はこの気持ちで、先輩への想いを消してくことができる。きっと。
 急に湿気が増して、雨の匂いがした。思うが早いか、屋根に豆を撒くような音がし始める。
 ガゼボの出入り口が雨煙で霞む。
「……通り雨かな」
 雨脚が強い。どしゃ降りだ。
 ――困ったな。傘持ってないのに。
(どうやって帰ろう――)
 考え始めるのと同時に、雨音の向こうから派手な水音が近づいて来る。あっという間にガゼボの入り口に人影が現れて心臓が跳ねた。
 その人は俺を見ると、一瞬、目を大きくした。
「……志田か」
「黒海、先輩――」
 こんなことって、あるだろうか。
 水を含んだような重たい目に見つめられて、呆然とする。
 黒髪の先から滴る雫と、白い肌を滑る雨の粒――濡れた先輩は、言うに絶するほど艶やかで俺の緊張を誘った。
 ……喉が、カラカラだ。
 先輩を探してここに来たのに、いざ会えたらひどくうろたえている。
 本当にこの人を諦める気があるのかと、何者かに試されているような気になった。
 黒海先輩が頭を振って滴を落とすと、微かな香りが雨に閉じ込められた空間に漂うのを感じた。
 甘くて冷たい花の香り――先輩の、ヴァンパイアの、フェロモンの匂いだ。
 条件反射で鼓動が高鳴る。不本意な情欲を掻き立てられそうになるのを唇を噛んでやり過ごそうとした。
 先輩は素知らぬ顔で、ベンチの上の俺の横にカバンを投げ出すと、脱いだ学ランの上着を音を立てて振った。
 自分のカバンの中を探ってみる。こういう時に限ってタオルを持っていない。
「……なんでここにいるの」
 俺は、気だるい調子の呼びかけを仰ぎ見た。
 見下ろしてくる眼差しは、いつものように冷たい気配を纏っている。
「黒海先輩を探してたんです。ここに、いるかなって」
 先輩の動きが止まる。じっと見つめられて、俺は慌てて口を開いた。
「ききたいことがあったので」
 先輩は肩でひとつ息をして目を逸らすと、俺の隣にどさりと座った。ベンチの背板に体を預け、壁に頭をもたせてからまた吐息する。
 やっぱりひどくだるそうだ。顔も血の気が薄く見える。
 髪先から白い頬、首筋へと雨粒が流れるのが綺麗で、不謹慎にも見つめてしまった。
「……大丈夫ですか」
 声をかけると、黒海先輩は顔を動かさずに目だけでこっちを見た。
 血をしばらく飲んでないと言って倒れていた時の、あの気だるそうな感じと似ている。
「前回から間が空いてるし……喉、渇いてるんじゃないですか」
 またひとつ、先輩が胸で息をしたので、俺はぴたりと口を閉じて視線を床に這わせた。
 ……具合が悪い時に話しかけられるのってキツイもんな。黙っておこう。
「訊きたいことって、それ?」
 ぽつりと言われて、俺は顔を上げた。
 先輩が無言で耳を傾けている気配がして、床に視線を投げる横顔に遠慮しながら口を開く。
「血を飲む頻度が少ないって聞きました。10日も空けたら、倒れてしまうって」
「誰に」
「赤岩さんです」
 黒海先輩がため息する。「赤岩に会ったのか」
「偶然、食堂で」
 先輩が一瞬眉を寄せる。肩でひとつ息をしてから、瞬きした。
「間は、空けた方がいい」
「……どうしてですか」
「血を作る暇がないだろ。体の負担になる」
「え――」
 それって、俺の体調のことを心配して言ってるんだろうか。
 思ってもみなかった返答に、呆気にとられてしまった。
「それに」先輩が言いかけた言葉を一瞬ためらってから、横目で俺を見る。「毎回、しんどそうだし」
 かっと、体温が上がるほど恥ずかしくなる。
「す、すみません……」先輩から目を離して、息を調える。
 胸が、じんじん痺れてる。
 ……優しい。やっぱり、優しいんだ。
 黒海先輩に初めて会った時に感じたものは、間違いじゃない。
 冷たい雰囲気に閉ざされた奥に潜んでいる心に、俺が好きなあの花がほころぶような笑顔と同じ柔らかさがある。
 心臓がトクトクトクと速く、切なくなって鳴り出す。
(――……ダメだ、こんなことじゃ)
 この人といると、もっと好きになってしまう。
 話したくて、知りたくて傍にいたくて、たまらなくなる。
 黒海先輩のこと、知りたい。もっと――。
 雨音が強まったり弱まったりを繰り返す。永遠に降っていたらいいのに、なんて考えて……ふと訊いてみたくなった。
「黒海先輩は、不老不死なんですか」
「え」
 怪訝な声が返ってきて、先輩を見る。「本当は500歳とか……」
 先輩が、小さく笑った。
 自然な笑みにどきりとした。
「もしそうなら、血を飲まないぐらいで死にそうになったりしないだろうな」
(ということは、血を飲まないと死んでしまうのか――)
 緊張感でごくりと喉が鳴る。
「じ、実は、コウモリに変身できるとか」
「お伽噺に洗脳されてるぞ。それ」
 先輩の視線やいつもの冷たい雰囲気が、心なしか柔らかい。
 その空気に浸って口を閉じると、一瞬、雨音だけの時間が流れた。
「……ここで、志田と会った時」
 ぽつりと呟いた先輩の言葉に、耳を澄ます。
「昔読んだ絵本を思い出した」
「なんの絵本ですか」
「なんか……服着たウサギのやつ」
 思わず吹き出した。「もしかして……ピーターラビットじゃないですか。ずいぶんかわいいの思い出しましたね」
 先輩が天井に視線を投げる。「兎みたいな奴が小屋に飛び込んできたと思ったら、薔薇の棘で指を刺しちゃいましたなんて……メルヘンかよってツッコミたくなったな」
(――今、俺の話を、されてるんだよな……?)
 信じられない気持ちで、口を開く。「文庫本を――」
 先輩が俺の呟きに視線をくれる。
「本を拾おうとして、俺……先輩に怒られて」
「あれは……怒ってない、寝起きだったから」
「本が好きなんですか」
「ピーターラビットはもう読まないけど」
 思わず笑ってしまった。「でも、雰囲気ありますね」
「……やめろよ……」
「普段はどんなの読むんですか」
 先輩が一瞬、考えるように黙る。「苦しいのをよく読んでるな」
「――苦しい?」
 どういう意味だろう、って先輩の横顔を見つめる。憂いがさしているようで、なぜか寂し気だ。
「現実がいくら重苦しくても、最後には幸福な死が救ってくれる――読み終わってみると、どれもそんな内容だな」
 物語の中では死を含むあらゆるドラマが展開されて、そこに意味を描こうとする。それって宗教みたいだなと思った。
「人間は、いつも救われたくて仕方ないらしい」
 ――"人間"……。
「先輩は違うんですか」
 ……あ、また。
 遠い目だ。
「いや……ヴァンパイアも、そう変わらないか」
 黒海先輩の中には、俺が想像するよりもずっと複雑な気持ちが詰まっているのかもしれない。その糸の絡まりの端を探して、慎重に解いていくような会話だった。
 先輩の冷たい雰囲気は、今は柔らかくて、すごく弱々しい。音楽室で倒れていた時の姿と、今この瞬間の先輩は相似形だ。
 この人の本質は、どこにあるんだろう。
 トラブルになった相手を病院送りにしたなんて物々しい噂はあっても、実際のこの人は人間の俺の体調を気遣って、我慢をしてくれていた。
 そして、誰も来ない音楽室で倒れていたりもする。
 血を飲まないまま誰にも知られず、独り倒れて消えてしまうような。そんなことになったら。
 儚くて、切なくてたまらない。
 消えないでほしい。
 独りで、どこかへ行ってしまわないでほしい。
 この人の苦しみを減らせるのなら、俺はなんだってできる気がする。




[]







- ナノ -