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『終わった?』
受話器の向こう、電話に出た笠井さんが、あの柔らかい声で言った。
今は、その声に笑みをこぼす余裕もない。
むしろ、その声に泣き出しそうになった。
この人を巻き込まないようにしなきゃ。
20時を過ぎた時計を見上げて、ロッカールームでエプロンと名札を外した。
「おつかれさまですー」
深夜シフトのバイトの女の子がそう言って、電話中の俺に頭を下げていく。
15分前、店長から店に電話が入って、「今日はこのまま戻れそうにないから、深夜シフトの子が来たら入れ替わりに上がって」と言われた。
……助けの綱を失くした。
笠井さんが、確認するように続ける。
『店の場所、昨日教えてもらった所でいいん――』
「あの」
笠井さんの言葉を遮って、ちら、と後ろを見る。
俺を監視するように腕組みをして先輩がベンチに座っていた。
緊張で浅くなる息を必死で整えて、笠井さんに言う。
「あの、それが……急用が、できちゃって」
『急用?』
気持ちがくじけそうになった。
でも、笠井さんを巻き込んじゃダメなんだ。
「バ、バイトが伸びちゃって。上がれるの遅くなりそうで」
『他に予定も無いし、待つけど』
「う……」
嬉しいはずの言葉なのに、今は辛い。
『……誰かいるの』
どき、と心臓が跳ねる。
「え、え?」
『いや、なんか様子が変だから』
笠井さん――。
俺は、泣きたいような、たまらない気持ちになった。
「あの、俺――」
どん、とロッカーを叩くような音がして、はっとして振り返った。
数歩近づいてきた先輩が、どんよりと暗い目で俺を見ていたんだ。
慌てて笠井さんに言う。
「す、すみません、休憩終わりそう」
『紘――』
「約束、また違う日にしてください……」
携帯を持ったまま、頭を下げた。
我ながら、情けない声。
笠井さんが、少しの間をおいて言う。
『とりあえず、そっち行くから』
真剣な声に息を呑む。
それは、ダメだよ。絶対。
先輩が、焦れたように携帯を持った俺の手を掴んだ。
「い……っ」
強い力で、思わず顔をしかめる。俺は、携帯を奪われる前に慌てて言った。
「ごめんなさい! また連絡するから、今日は……っ」
慌てて、ぶつりと切った。
先輩が、小さく舌打ちする。
「もたもたしてんなよ、さっさと着替えろ」
俺をロッカーに突き飛ばして、先輩が部屋の隅のベンチにどかっと座る。
痛いような視線を見ぬフリしながら、俺は、指定のポロシャツを脱いだ。
「痛い、離せよ……っ」
帰り支度が終わるやいなや、無言で腕を掴まれて、外に連れ出される。
隙を見て走って逃げ出すタイミングをはかっていたけど、掴む力が強くて、振り払おうとしてもうまくいかない。
裏の路地に連れて行かれそうになって、焦った。
一歩入れば住宅街、なまじこの通りが店が多くてうるさい分、駐車場の多い路地に入ってしまったら道行く人に声が届かなくなってしまう。
身の危険を感じた。
冗談抜きに、先輩は、本気で俺をどうにかしようとしてる。
「こ、の……っ!」
俺は、持ってたカバンで思いっきりその背中を殴った。
いくらガタイのいい先輩でも、急な反撃にふいをつかれたのか、もんどりを打った。その隙に緩んだ手を振り払って、明るい道へ走り戻る。
「……てめえ……」
すぐに体勢を整えた無骨な手に肩を掴まれて、腕を捻り上げられた。
「ぃあ……っ!」
「ああ、悪くないぜその声。ほんっと煽るのがうまいな、おまえは」
はあはあ言ってる先輩に引きずられるように、駐車場に連れて行かれる。
「はなせ……離せよ!ふざけんな!」
声が震えて大きな声にならない。
怖い。
息が上がってるのか興奮してるのかわからないような先輩の息遣いに、悪寒と寒気で体が震えた。
3台停められる、全く人気のない駐車場の奥に引きずられて、壁に後ろ向きに押し付けられる。
もぐように奪われたカバンが放り出されて、アスファルトに乾いた音が響いた。
「はあ……っ、おら、さっきみたいに抵抗しろよ――」
後ろから抱きつかれて、ますます壁に押し付けられた。
「やめ――」
声を上げかけたら、でかい右手に口をふさがれて、体をよじって暴れようとした。でも、びくともしない。
狂った獣みたいに首の後ろをくんくん嗅がれて舐められて、左手が、ジーンズの上から股間をわしづかみにしてくる。乱暴に揉まれて、痛みで視界が滲んだ。
いやだ。
気持ち悪い。
吐き気がする。
触るな。
どれも言葉にならなくて、手の中でうーうーと、くぐもった音にしかならない。
首筋に、はあふうと生暖かい息がかかって、寒気と嫌悪感が全身を襲う。
「ほら……これ、わかるかよ。欲しかったろ?」
尻にごりごりと硬いのを押し付けられて、それが、興奮した先輩のだとわかった瞬間に、どっと冷や汗が噴き出した。
ほんとに犯られる。逃げなきゃダメだ。
肘を振り回す隙間もなく押さえつけられていて、体が動かせない。
どうしてこんなことになってるんだよ?
どうして、男に襲われてるんだ?
何か俺が、悪いことしたのか?
じわじわと涙が出る。抵抗し続けたせいで、全身がダルい。ジーンズに手を突っ込まれて、下着の上から無神経なやり方でぐいぐい揉まれて、痛い。
俺は、手当たり次第、掴めるところに爪を立てて引っ掻いた。
先輩はそれにすら興奮するようで、どんどん乱暴に体をまさぐってくる。
「初めに会った時から、ずっと犯ってやろうと思ってたんだよ、中野ぉ。俺が、男教えてやる……」
「ぅーっ!」
興奮した息遣いが、鳥肌が立つほど気持ち悪い。
「ンうっ、ウー……っ!」
頭の片隅に、笠井さんの顔が浮かんだ。