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 どすっ、と砂袋を叩くような鈍い音。
 一瞬後、くぐもった変な声がして、がんじがらめになっていた体と口が解放される。
「ぷ、はあ……っ」
 俺は、足の力が入らずに、その場にへたり込んだ。
「……っ」
 うめく声の方向を振り向くと、先輩が頭を抱えてうずくまっている。
 その傍に立っていたのは。
(か、笠井、さん――!)
「てめえ……」
 先輩が、歪んだ表情で笠井さんを睨んだ。
 ふらっ、と立ち上がって掴みかかろうとした先輩の顎を、笠井さんが振りかぶって殴る。
 先輩は、そのまま後ろに倒れこんで、うめきながら転がっていた。
「……口説く前に、本気で嫌がってるかどうかくらいわかれよ」
 柔らかいけど、冷たくて凄みのある声だった。
 ふ、と少し乱れた息を吐き出して、笠井さんが俺を見る。
 暗いので、表情ははっきりわからない。
 俺は、どんな顔をしたらいいのかわからなくて、その黒いシルエットを呆然と見つめた。
「立てる?」
 差し出してくれた手を見つめる。
 綺麗な手だった。
 だから、掴んでいいのかどうか迷った。
 笠井さんが、その手で俺の髪をくしゃりと撫でて、もう大丈夫、と囁く。
 途端に、体が震えだす。
 笠井さんは、投げ出された俺のカバンを拾って、ほとんど抱き起こすように俺を立たせてくれた。
 そのジャケットの胸元にしがみつく。手が震えて、うまく力が入らない。
 地面に転がった先輩を恐る恐る見ると、微かにまだうめいてた。
 さっきまでの地獄を思い出して、背筋が震える。
「帰ろう、心配いらないから」
 俺を先輩から離すように、肩を抱き寄せてくれる。
 笠井さんに優しくしてもらって、やっと足を動かすことができた。
 支えられて、歩きながら息を吐くと、堰を切ったようにぼろぼろと涙がこぼれてくる。
 ……怖かった。
 でも、それ以上に、悔しかった。
 同じ男に、いいようにされそうになった事実が、なにより屈辱だった。
 笠井さんが、どこからかハンドタオルを出して俺の顔に当ててくれる。
 あの、シャンプーの匂いがする。笠井さんの匂い。
 慣れ親しんだ香りに、ほう、と息が漏れる。
 よろよろ歩きながら、涙はもう止まっていた。
 笠井さんは、なるべく喧騒を避けて、でも、俺が不安にならないような明るい広い道を選んで歩いてくれる。
 路上の駐車スペースに、一台の淡いオレンジの車が停まっていた。
 俺を腕に抱えたまま、ジャケットのポケットを探って、笠井さんがキーを出しながら言う。
「乗って。車出すから――」
 言いかけて、笠井さんが俺を見つめる。
 え、といいかけて、笠井さんのジャケットにしがみついたままだったことに気づいた。
 大きな手が、俺の手に包むように重ねられて、優しく握ってくる。
 それを合図に、強張っていた力を抜くことができた。
 笠井さんは、俺の背中を軽く叩いて、運転席側にまわりこむ。
 ロックが開いた音がした。
「いいよ、乗って」
 頷いて、助手席に乗ってドアを閉めたら、どっと疲労感が襲った。
 全身が緊張してることに気づいて、足から泥を吐くように力を抜く。
 笠井さんは運転席に乗り込むと、カーラジオをつけてくれた。
 聴き覚えのある洋楽が微かに漏れてきて、ほっと息をつく。
 大丈夫。俺は、今、安心できるものに囲まれてる。
「怪我は? 痛めてない?」
 車のエンジンをかけながら、笠井さんが訊ねてきたから、ふるふると頭を振った。
「すみません……俺――迷惑かけて」
「いや、前からちょっと気になってたの。間に合って良かった」
「……前から?」
「時々、痣とか作ってたでしょ。腕とか……首とか」
 ぎくっ、として、思わず首の後ろを押さえる。
「ごめんね、勝手に見て」
 苦笑した笠井さんの視線が、俺の右手首を撫でた。
 先輩に掴まれた右手の腕に、くっきりついた紫の爪痕。
 自分じゃ気にしてなかったけど、こういうの見たら誰だって驚く。
 心配、してくれたんだ。単純に嬉しかった。
「乱暴な恋人でもいるのかと思って、これでも本気で心配してたんだよ」
「そ、そんな」
「確認しとくけど、あれは恋人じゃないよね?」
「まさか……!」
 ざわっと鳥肌が立って、体を震わせた。
 ごめんごめん、と笠井さんが謝る。
「とっさに殴っちゃったけど、彼氏だったら悪かったなって」
「バイトの先輩で……いつもはからかわれるくらいだったんだけど、今日はあんなことに――」
「先輩か……パワハラとセクハラの難しいところね。痣の謎が解けた。警察には?」
「言ったら面倒になるかも」
 そっか、と呟いた笠井さんに、改めて頭を下げる。
「……ありがとうございました、俺、全然逃げられなくて」
「うん、あれは多分、格闘技かなんかやってるわね」
 笠井さんは、ふいうちじゃなかったら自分も危なかったかも、と苦笑いして、ハンドブレーキを下ろしている。
「おなか減ってない?」
「あ、と――」
 正直食欲はわかなかった。
 けど、何か食べて落ち着きたい気持ちはある。
 俺の表情をちらりと見て、笠井さんがふと笑った。
「じゃあ、飯でも行きますか。服、替えはいらないかしら」
 さらっと訊いてくれたけど、俺は、さらっと答えられるほど大人じゃないから、赤面しながら頭を振った。
 下着や服を汚されてないか心配してくれたんだ。
 車が静かに走り出して、俺は、笠井さんの横顔を盗み見た。
 綺麗で穏やかな横顔だ。
 さっき俺がかけた迷惑なんか全然気にしてない、って顔が、すごく救われる。
 少し伸びたハチミツ色の前髪が、頬に影を落としていた。
 ふと、その目が、一瞬こっちを見て、どきっとして慌てて視線を外す。
「予約取らなかったから入れるかどうかわからないけど、よく行く店が近くにあるの。そこでもいい?」
「あ、は、はい」
 見とれてたことを隠すために、慌てて返事する。
 まだ、体を這い回っていた異様な手の感覚が残ってるみたいで、俺は、小さくため息をした。




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