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「生きてください」
 目が合った。その前髪から、雫が落ちる。
「俺の血を飲んで、生きてください」
 黒海先輩が俺を見つめている。反応に困っているような、なにか考えているような……複雑な表情だ。
(――おかしなこと言ったかな)
「せ……先輩が思っているより俺は頑丈です! また倒れたりしたら――その方が困りますから」
 黒海先輩の瞳が、俺の目を探ってくる。
「……志田は時々、俺の頭の中を読んだようなことを言うよな」
「え」
「いや……変な奴だなって」
(――あ。いい匂い……)
 冷たい花の花弁が開く、生の香りだ。予感に小さく喉が鳴る。
 黒海先輩が目を細めた。黒い瞳が、宇宙に浮かぶ星雲のように複雑な色を放ちながら赤く変化していく。
 先輩が、欲しがってる。
「あ、あの、でも……ここで、ですか。誰か来たら――」
「こんな雨の中、誰も来ない」
 気だるそうに言われたら、抵抗の言葉もない。
 先輩もあまり具合は良くなさそうだ。
 ――はやく、血を飲んでもらわないと。
 使命感に駆られて、ベンチの上を遠慮がちににじり寄る。見つめてくる先輩の顔を見返せなくて、雨に濡れた首筋や肩ばかり見ていた。
 詰め襟の留め具を自分で外すのは、いつでも変な気分だ。たとえば、獲物が自ら皮を脱いで狩人の前に体を差し出すような感じだろうか。
 先輩の手が、待ちきれないように俺の頭を引き寄せる。
 耳元で匂いを嗅がれて、首筋がぞくっとした。学ランの上着を脱ぐ手が震えてしまう。
 シャツのボタンに先輩の指がかかって、堰を切ったように溢れてくる冷たい薔薇の香りに包まれていく。
 胸が高鳴って……でも、どこか虚しい。この感情の先にも行為の先にも何もない。
 腰を抱かれて、いつものように唇が首筋を探りはじめる。荒々しさを含んだ動きに先輩の食欲を感じた。
(――怖い)
 まだ俺の中に怖さがある。初めて血を飲まれた時の、あの緊張と恐れが。
 無心になるために、強く目を閉じた。
「……志田」
「は、はい」
 呼ばれて目を開けると、一瞬、息が止まる。
 間近に、先輩の憂いの浮かんだ赤い瞳があった。
「怖いだろ。ごめんな」
 頭が真っ白になった。
「そんなこと――」言いかけて、視界が滲む。
 ……これ以上話したら、泣いてしまいそうだ。
 誤魔化しきれずに、先輩の肩に顔を伏せる。
 梅雨の豪雨で冷え切った体温を感じて、よけいに涙腺が緩んだ。
(――……俺、この人のことを助けたい)
 守りたくて、切なくて。好きでたまらない。
 どうしようもなく胸がいっぱいになるから。
 困った。どうすれば透明になれるんだろう。
「先輩……先輩、俺、大丈夫ですから」
 今は、一秒でもはやく。
 この人を温めなきゃ。




 屋根を打つ雨音が強まる。
 上がった呼吸音が雨脚に掻き消されて、気が緩んでいた。
「ん、ぁ……」
 首筋に這った舌先に、思わず声が漏れてしまった。慌てて奥歯を噛みしめる。
 先輩の手が、俺の片脚を掴んだ。腰を抱いた手に力がこもって、先輩の上に引き上げられる。
「……俺、跨っていいんですか」
「ん……」ちら、と赤い目に見上げられて、早くしろと促された。
 ベンチの上で先輩の脚を跨ぐと、両腕で腰を抱かれる。シャツ越しの体温に心臓がバクバクするから、気を持ち直すために深呼吸した。
 目の前にある先輩の首筋に雨の名残が伝うのを、とっさに指先で拭う。
「っ」一瞬、黒海先輩が身じろいだ。
「あ……」
「……くすぐってぇ」
「す、すみません」
 一度離れた先輩の唇が、今度は鎖骨を辿って逆の首筋を上っていく。雨に濡れた髪が肌に触れる度にうずうずする。
 今日はなかなか咬み場所が定まらないみたいだ。いつもより丁寧に準備されているような気もする。
 詰めた息をこっそりと吐き出す。なるべく甘い響きが混じらないように注意を払った。
(あ、れ……)
 ぼんやりしかけている頭で、シャツのボタンがほとんど外されてしまっているのに気がついた。
 前が開いたシャツの中に、先輩の指が滑ってくる。
「え……」
 腹から腰へ直に手のひらが滑って、背中を撫でられる。
(これ、やっぱり変な気分になるなあ……)
 先輩は血を飲む時、こうして俺をなだめようとしてくれる。でも、その手が気持ち良すぎて、望まない快感を感じてしまうことがほとんどだった。
 冷え切っていたはずの先輩の手が熱い。
 俺の体温が移ったのかな――ほっとしたのも束の間、熱でも出てるんじゃないかと心配になった。
(吸血鬼も、風邪とかひくのかな)
 肌に触れる先輩の手が起こす快感から気を逸らすために、ひたすら思考に逃げる。
「……っ」
 左耳の下の辺りで舌と唇が肌を解しはじめて、背中が震えた。
 場所が決まったのかもしれない。
(――もうすぐ入って来そう、かも)
 耳に当たる先輩の吐息に体がひくつくのを我慢しながら、俺はベンチの背に手で捕まって準備した。
「……んっ!」びくっと、勝手に腰が跳ねる。
 先輩の指が乳首を撫でたからだ。
「っ、ぅ、ん……?」
 シャツの下で先輩の手が腰や胸を撫でる。指先が、背骨の形を確かめるように辿って、なぞり上げてくる。
「んっ、ぅ」
 腰がひくつくのを我慢できない。
 いつものなだめる感じと違う気がする。動きが……感じさせようとしているというか。
(これって――愛撫、じゃないのかな……)
 先輩の唇や指先が熱い。牙も。花の香りも冷たさを増して、なんだか……頭がぼおっとしてきて。
「……痛かったら、止めて」
 息が混じった声に、はっとして首筋に意識を戻す。
「ぁ、あ」
 ほぼ同時に、また指で乳首を柔らかく押し潰されて、意識が散った。その隙に、肌に牙の先が押し込まれる。
「ん、ぁ……っ!?」
 入ってくる、感覚が。
(――なに、これ……っ)
 甘くてとろけそうで、自分の体がするすると呆気なく快感の階段を昇ってしまう。
「ぁ……」
 いつの間にか牙が抜かれて、首筋を舐める舌の感触が。
「んっ、ぁっ、はあ――」
 後頭部を包む手が。腰を撫でる手が。
(きもち、イ……っ)
 首筋の肌を吸われた途端、ジンっと体全体が疼いた。
 足の指先まで、波のように甘い痺れが広がる。
 快感の扉が開いてしまったのがわかる。咬まれた場所から、先輩の香りと一緒に快楽が流れ込んでくる。
「ぁ、ぅ……っ!」自分の指を噛んだ。
 先輩が充分に満たされるまで、我慢しないと――数秒数分がすごく長く感じる。
「はぁ……、ン、ひ……っ」
 舐められるたびに声が我慢できなくて、震える歯が鳴った。
 先輩の腕が、逃げようとした俺の腰を強く抱く。喉仏や鎖骨まで舐める舌に、焦った。
「せ、せんぱっ……、ぃ、ちょっと、ちょっと待って……っ」
 先輩の手が俺のズボンからシャツを荒っぽく引き出す。
 頭の端で、なんで、ばかりがぐるぐる回って形にならない。
「ど、どうして……っ、こんな……きもちよく、なっちゃ……っ」 
 スボンの上から、ズキズキ疼いてしまう股間を握って隠す。
 黒海先輩は血を啜りながら、俺のその手を引き剥がした。ベルトの金具を外される音が不協和音になって小屋の中に響く。
「……そこ、しないで……っ」とろけそうな頭を必死で働かせた。目の前の先輩の肩を力の入らない手で掴む。「せんぱ――」
「……嫌?」
 そんな風に耳元で囁かれたら、背筋がぞくぞくしてしまう。
 嫌なのは俺じゃなくて、黒海先輩のはずだ――そう言いたいのに、舌が回らない。
 ベンチに仰向けに引き倒された俺の体の上を、先輩がずり下がるように移動するのが妙にスローモーションに見えた。
 赤い舌先が、血に濡れた唇を端から端へ舐めている光景に、体が興奮する。
 四肢が痺れて、ベンチの上から力を失った片足がだらりと落ちた。
 引き出されたシャツの最後のボタンを外されて、おなかに唇と舌が這う。腰骨を辿る唇が肌を食んで、ももが震えた。
「ま、って、くださ――」
 このままじゃまた、その口に含まれてしまう。
 期待した腰がひくついた。どこかでそれを待ちわびている自分がいる。
(――だめだよ)
 このままじゃ、いつも黒海先輩が頭を悩ませている行為と、変わらなくなる。
 約束したのに。
 俺が相手をしている意味が、なくなってしまう――。
「ひ……っ」
 制服のスラックスの上から、疼いているそこを唇で食まれる。
 一瞬、窺い見てきた先輩の瞳は深紅だ。恐怖よりも危うさを感じて、背筋が震える。
 まつげの長い重たい目に色気が迸っていた。
『黒海先輩のセックスって、興奮するもんな』
「……っ」
 こんな時に、黄河の話を思い出してしまう。
 いくら体が興奮したって、心がついていかない。慣れているような先輩の愛撫にも泣きたくなる。
「や……やめ、て……くださいっ」
 膨らんでしまったのを布越しに唇で探る先輩の頭を、震える手で押しのける。
 先輩が、抵抗する俺の手首を掴んだ。「今日は我慢しなくていいから」
 言われて、目をみはる。
(――なんで?)
 毎回"しんどそう"な俺が、哀れだから?
 他の相手みたいに……俺のことも、血をもらう代わりに気持ちよくさせてやろう、ってことなのか。
(……いら、ない)
 そんな触れ合い、いらない。
 交換条件みたいな、同情みたいな触れ合いなんて。
 ジッパーを引き下げる音に泣きたくなる。
 気持ちもなしに。ただただ、仕方なく、なんて。
 ――そんなのは、もう、イヤだ。





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