[]






 俺は、自分のむき出しの肩と、腰を掴んでいる先輩の手に思いっきり爪を立てた。
「っ」
 黒海先輩が、さすがに一瞬顔を歪めて体を離す。
 俺はベンチの背にしがみついて、ほとんど力の入らない体を俯せにした。そのまま先輩の下からにじるように逃れて、はだけていたシャツの前を掻き合わせる。荒れた呼吸に負けないように、言葉を振り絞った。
「こういうこと、しなくていいです……っ」
 まだ見ぬ、黒海先輩の本命だという人の存在が頭を過ぎる。
 ……ダメだ。泣きたくない。
「こういうのは……っ」
 こんな、愛し合う、みたいなことは。
「好きな人に、してあげてください……」
 雨音は俺の声を掻き消してくれなくて、やけにこの狭い空間に響いた。
 呼吸を調える間に、自分以外の速い呼吸音に気がつく。
 恐る恐る振り向くと、黒海先輩も息が上がっていた。瞳は赤がにじんでしまうほど濡れていて、その凄みに思わず背筋がぞくっとする。
 拍子に、首筋を血が流れる感覚がした。
「あ……」
 シャツにつく――。
 思った瞬間、先輩に腕を掴まれる。簡単に引き寄せられて、舌先で血をすくうように首の咬まれた辺りまで舐められた。
 呼吸が痛い。胸の中も。
 肌にかかる息がひとつかかるだけで、泣きたくなる自分が嫌だ。
「なんでそんなに――」
 呟きに目を上げると、先輩の視線が俺の唇を撫でている。
「……唇噛み切るほど、我慢すんの」
 指摘された唇を舐めてみると、たしかに血の味がした。
 顔に影がさして、あまりにも自然に唇を舐められる。
 10日前に会った時と同じだ。
 だから、この触れ合いも何の意味もない。
 複雑な想いに襲われて、唇を引き結ぶ。
 物思いに耽るような先輩の目が俺を見下ろしている。視線が俺の左肩から腕を撫でている。
 つられて見ると、さっき自分で爪を立てたところに赤く血が滲んでいた。
「……あ!」我に返って、俺は先輩の手をとった。
 爪を立ててしまった先輩の手の甲にも、同じように血が滲んでいる。
「ごめんなさい――」
「別に……舐めとけば治る」そう言って、先輩が自分の手を舐めた。「猫に引っかかれたと思えば」
 恥ずかしくて情けなくて、俺は小さくなった。ついでのように肩を舐められてびくつく。
「こっちもかよ」
 腕をとられて手首の内側に先輩の舌が這う。
 先輩に血を飲まれている間、正気を保とうとして、無意識に自分の体のあちこちに爪を食い込ませていたらしい。
「……出せば終わるのに――よく我慢するな」
 "今まで、誰とでもそうしてきた"
 先輩はきっと、そう言う。
 そう言った先輩の、暗い顔を見るのが嫌だ。
 仕方なく俺に触れて、またひとつ心に鎧をつける先輩を見るのは、嫌なんだ。
「さっきも……言いましたけど――」俺は、シャツの前を合わせながら、言葉を探した。
「血の代わりに気持ちよくしてやろうとか、考えなくていいんです。先輩はもうそういうの、しなくていいです。そのために……俺と契約したんじゃないですか」
 先輩だって、触れ合うなら好きな人と、と思う時が来るかもしれない。
 先輩の心に、かなうような人となら。
「おまえがわからない」
 唐突に言われて、俺は思わず眉を寄せた。
「どうしていつも必死になって我慢するの」黒海先輩が、俺を見つめる。
「……そういう契約だったはず、だから」
「答えになってない」まっすぐに紅の視線が降ってくる。「どうしてここまで我慢するんだよ」
 どうして、って。言われても。
 先輩が細めた目に、冷たい光が宿る。「相手が赤岩でも、そうするのか」
 血の気が引いた。胃の底が冷えるみたいに。
 怒りじゃない。これは哀しみだ。
 ――そんなの。そんなの、決まってるじゃないか。
 他の誰でもない。黒海先輩が。
「……好きだから」
 雨足が強くなる。
「先輩のことが好きだから、我慢するんじゃないですか……っ」
 先輩の呼吸のリズムが一瞬乱れた。
 血の気が上った頭が、一気に冷える。
「……あ」思わず口を押さえた。
 ――今、俺、何を言った?
 呆然とした耳の奥で、雨音が激しく鳴っている。
 黒海先輩の顔が見れない。
 いたたまれない空気に耐えられずに、先輩の視線から抜け出て、カバンと詰襟の上着を掴んだ。
「……すみません、帰ります」
「志田」
「我慢しないで、喉が渇いたら呼んでください」
 なんとか口早に言い残して、まだ強い雨の中に走り出た。
 一瞬めまいがして、足がもつれる。きっと、血が減ったせいだ。
 俺は体勢を立て直して、逃げるように走った。雨がシャツに染み込んでくる。
 ただただ、頭が真っ白だった。




 つづく
 2011/11/23 初稿
 2021/08/06 修正





[]







- ナノ -