花が香る風に吹かれる黒髪が、千々の色の中で際立っている。
桜の嵐に、背中が掻き消されそうだ。
「黒海先輩!」
俺が慌てて声をかけると、先輩は振り向いてくれた。
冷たい陰があるのに、ふとした時に浮かぶこの柔らかい笑顔が見たくて、いつも声をかけてしまう。
「合格おめでとう」赤い唇がゆっくりと動く。
……そうだ、これから黒海先輩と同じ学校に通える。夢みたいだ。
いつになく穏やかな目に真っ直ぐ見つめられて、胸が高鳴ってくる。
言葉にしたくなった。
先輩、先輩――。
「俺、黒海先輩のことが……」
「――入学祝いを渡さないとな」
一転して冷えた声に、言いかけた言葉が阻まれる。
「いっ、つ……!」
手足に痛みが走った。見ると、薔薇のつるが無数に巻きついてくる。棘に肌を破られて、血が肌を伝った。
「あ」
俺の血が、黒海先輩の白い手の甲を汚した。赤が映えて、目が離せなくなる。
先輩も、自分の手を伝う俺の血を無表情に眺めている。
俺が謝るより先に、先輩の赤い舌先が俺の血を味わうように舐め取る。
「あ……!」
先輩の瞳の色が、赤く変わっていく。
見据えられると、声が出せない。頬に先輩の指が触れて、気だるそうな視線が俺の首筋を撫でる。
「人間は……気持ちイイのが好きなんだよな」
腰を抱かれて、息を呑んだ。
近づいてくる赤い唇の合間に、牙が――。
「ど……どうして……っ」
「なぜって」黒海先輩が鼻で哂う。「俺、吸血鬼(ヴァンパイア)だから」
先輩は人じゃない――。
どうしてこんな大事なことを忘れていたんだろう。
首筋に牙が触れて、息がひくつく。先輩の気配が一気に冷たくなって、身震いした。
これは、殺気だ。
――殺される。
「待って、待ってください、話を聞いて」
黒海先輩の動きが止まった。
「好きなんです」
俺は必死だった。最期に、伝えておかないといけないんだ。「初めて会った時から、ずっと好きなんです」
心の内を、全部伝えておかなきゃ。
「おまえ、人間だろ」先輩が興味なさそうに呟く。
「黒海先輩は人を好きにならないんですか」
俺のことを、ほんの少しも想ってはくれないんだろうか。
「どんなに好きでも、ダメなんですか」
気持ちが焦って、はやって、乞うように何度も口にしてしまう。
無表情の冷たい美貌は、冷たく俺を見つめたままで。
情けないほど必死な俺の耳元に唇を寄せて、黒海先輩が哂った。
「――おまえは、ただの食事だよ」
「は……っ!」
心臓が肋骨を強く叩いている。まばたきした拍子に、涙が頬を転がった。
暗く黙った夜だ。風の音ひとつしない。
ベッドサイドの明かりを頼りに見上げた時計は午前2時を指していた。息を吐いて、強く握りしめていた布団を離す。
もうここ数日、似たような夢を毎晩見ている。
(夢の中なら、何でも言えるんだよな……)
疼いた首筋を指で探ると、数日前に咬まれた痕はふさがっていた。咬み痕は2日もすればほぼ塞がる。超自然的だ。
黒海先輩がヴァンパイアなんだと知ってから、俺の"普通"の世界は変わってしまった。
「はあ……」
先輩に言いすがっていた夢の中の自分が恥ずかしい。
廊下で会ったら挨拶をして、ほんの少し言葉を交わして、1日浮かれた気分になって。
今になって、そんな頃を遠い昔のように感じる。
憧れてたまらなかった。遠くから想っていられればよかった。
先輩の柔らかい笑顔に一喜一憂できればそれでよかった。
なのに。
「……黒海先輩のこと、好きなのか……」
あんなに必死な、夢を見るくらいに。
でもこの感情だって、ヴァンパイアのフェロモンに生み出された副産物かもしれない。
そう考えてみても、胸は疼いて苦しかった。
何も知らずに憧れていた時の方が、きっと、何倍も幸せだった。