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「……よお」
 入ってきたのは、バイトの先輩だった。
 そう。俺の首の後ろに、ふざけて痕をつけた人。
 オレンジに近い茶髪を黒いキャップで隠して、さらに白いだぼついたパーカーのフードで覆っている。
 腰パンで、チェックのトランクスが見えてる。
 普段着を見ると、地元のヤンキーって感じだ。
 ガムを噛みながら、受付にドンと音をたてて両手をつかれて、反射的にびくりと肩が揺れる。
 相変わらず、表情の読めない乾いたまなざしでじっと見られて、気まずさに消え入りたくなった。
 なんで、今日に限って、先輩が?
 一度だって、職場に客として来たことないのに。
 俺が居ない間に来てたかもしれないけど、何も、店長がいなくて、この後笠井さんが迎えに来てくれる、今日でなくてもいいのに。
 俺は、冷静に、と自分に言い聞かせて言った。
「何時間、ご利用ですか」
「2時間」
 ひやっと、背中が冷えた。
 俺が上がる時間じゃん……。
 偶然だ、と言い聞かせて、パソコンに情報入力する。
「ドリンクは、バーがございます、右手の――」
「知ってる」
 冷たい声と一緒に、くちゃくちゃとガムを噛む音がする。
「13番のブースでおくつろぎくださ……」
「黙って、やめるのな」
 声を阻むように口早に言われて、息を呑む。
「今月で終わりだっけか?避けまくってたよなあ。俺のこと」
「……何、言ってんすか」
「おまえ、俺に犯されると思ってんじゃねーの」
 こういう冗談も、同じシフトの時はしょっちゅうだった。
 抵抗すれば、カウンターの影で尻を掴んで握られたり、腰をむりやり押し付けられたりっていう風にエスカレートした。
 冗談やめてくださいって、笑って流そうとしても全然通じないんだ。
 ……男同士でもセクハラってのが成立するなら、よっぽど訴えてやりたかったけど。
 言い返すと余計にこじれるので、黙って受付ブースのプレートとIDカードをカウンターの上に差し出した。
「なあ、おまえ、今日何時に上がり?」
「わかりません」
「上がった後、つき合えよ」
「この後、約束があって――」
「いいよ、そいつも一緒で」
 ぎくりと、重い空気が体にまとわりつく。
 カウンターに差し出していたカードの上の俺の手に、先輩が手を重ねてくる。
 あ、と思った瞬間、乱暴に手首を掴まれて、ぎりっと力が込められた。
「い……っ!」
 ブースにはお客さんがいるし、俺は慌てて唇を噛んだ。
 先輩が、口端を上げて笑う。
「ソソる。その顔」
「冗談、よしてくださいよ……っ」
「冗談はおまえだろ」
 ぎりぎりと力が加わって、危うく悲鳴を上げそうになった。
「俺のこと、意識してたクセに」
「は、はあ……?」
「わざわざシフト避けやがって。人煽るのうめえのな」
 怖い。
 絡みついてくるような、悪意というか、歪んだ感情、というか。
 そういう恐怖を今、男から向けられるという異常な状況を人生で初めて味わってる。
 ガーッ、と自動ドアが開いて、はっとして顔を上げる。お客さんが入ってきたんだ。
「ちっ」
 舌打ちして、先輩が俺の手を離す。
 手首が赤くなっていた。爪の痕が紫色になっていて、我ながら痛々しい。
「……逃がさねえからな」
 ぽつりと言って、ブースに歩いていく先輩の背中に戦慄した。
 慌てて我に返って、長袖で隠しながら接客する。
 この後、どうやってこの状況を乗り切るか。……笠井さんに、迷惑をかけないように。それだけで、俺の頭の中はいっぱいだった。


 カウンターに人の気配がなくなると、どこからともなく見ていたように先輩がやってくる。
 その度に俺は、身を硬くした。
「消えたか?」
「……え?」
「前につけてやっただろーが」
 とんとん、と首の後ろを叩くような仕草で、先輩が俺を横目に見てくる。
 すぐに思い当たって、変な汗が出た。
「……知りません、なんのことですか」
「ヨかったろ。またつけてやるよ。今度はどこがいい」
 カウンターの周辺の整理をするフリをして、無視をした。
 それに構わず、先輩がカウンターに身を乗り出してくる。
「乳首がいいか?それとも、尻か……キスマーク、×××にもつくか試してやろうか」
 ぐうっ、と悪寒が背筋を駆け上ってくる。
 思わず目を向けると、先輩のあの、読めない目が、俺の体を下から上へ舐めるように見た。そのまま、わざとらしく下腹部をじろじろ見られて、胸が悪くなってくる。
「……一発やらせろよ」
「は!?」
 思わず声を上げて、慌てて口をつぐむ。
「興味ぐらいあんだろ。女みてえなんだよ、おまえ」
 頭が真っ白になる。
「なに――」
「俺は、男の尻もイケるんだ。気づいてただろ」
「し、知りませんよ、そんなこと……!」
「おまえと最初にシフト入った時、胸揉んだらイイ顔したじゃねえか。あれからヤリたくてしょうがねえんだ。ヤらせろ」
 何言ってんだ、この人。
 俺は、半ば呆然として、その暗い表情を見ていた。
 こんなことが現実にあるのか、信じられない。
「この後の予定、断れ」
「は、は?」
「命令だ。じゃねえと、そのお友達に、おまえはオカマで俺に掘られてるって言ってやるぞ」
 ぐらっと、めまいがした。緊張で、手のひらに嫌な汗が浮かぶ。
「べ……別に、言えばいいじゃないですか。そんな嘘聞くような人じゃないですから」
「じゃあ、そのダチ、俺に紹介しろ」
「な――」
「金困ってんだよ。貸さないと、おまえのこと犯すって言ってやる」
 なんなんだ、この人。
 なんでそんなにしつこくしてくるんだよ。やるとか、やらないとか。わけがわからない。
「迷惑かけたく、ないだろ?」
 笠井さんの顔が、頭を過ぎる。
 俺は、先輩の舌なめずりするような暗い表情を、呆然と見つめていた。




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