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救いなんていらない


 2008年、夏。名前は大学3年生となっていた。
 何時の夏も日照りが強い。肌の焼ける感触に辟易していると、隣の友人は得意げな顔をして日傘をさしていたので、その中に無理矢理体をねじ込んだ。体の半分だけ焼ける!と抵抗されながらも2人ではしゃいで、熱したフライパンのようなコンクリートの道を歩く。額から流れる汗が顎の先から滴り落ちた。耳に劈くような蝉の声がさらにその暑さを助長させている。化粧が落ちちゃう、と友人は悲しげに笑った。

「はあ、この人とは大丈夫って思ってたのになあ」
「でも一番長かったじゃん。1年だっけ?」
「1年1ヶ月と13日だから」
「細かっ!」
「はあ、もう立ち直れる気がしないわあ。慰めてよ名前」

 友人は1年くらい付き合っていた恋人と別れたらしく、随分と意気消沈していた。その割にはケラケラと笑い、あっさりとした印象を受ける。しかし、ただ単に切り替えが早いだけで、別れたばかりの頃は大分落ち込んだそうだ。そういえば数日くらい学校も休んでたな、と思い出す。人は落ち込んで、でもまた立ち上がってを繰り返して、どんどんと前に進んでいくのだ。だから、きっと人は強い。

「付き合ってる時はさ、もうこの人しかいない!ってバカみたいに浮かれちゃってたなんて、何処の恋愛ソングだよって感じよね。世界が滅んでも別れないなんて、綺麗事よ」

 そう語る友人の瞼は少し赤かった。それを、ファンデーションやアイシャドウで上手く隠していることを、それなりの付き合いとなる名前は分かってしまう。それに触れずに見ない振りをするのも、一種の優しさだろう。

「でも、それだけ本気で好きだったってことでしょ。そんな風に誰かを想えることってなかなかないよ。これからだってそういう人と出会えるか分かんないんだし」
「それ慰めてんの?どっちなの?」
「えっ、一応慰めてんだけど」
「はあー。名前、そういうのはね、そんな男よりももっといいやつが世の中にいるよとか、もっといい出会いがあるよとかいうもんっしょ」
「そうなの!?」
「って言うか何?アンタ、まだふっ切れてないの?」

 友人の言葉が深く胸に刺さる。図星すぎて何も言えなくなったのだ。そんな名前を見て、友人は呆れたと言わんばかりに浅く息をつく。名前が気を使って見ない振りをしていても、友人は容赦なく指摘してくる。それもまたきっと優しさなのだろう。
 友人には夏油について深くは話してはいない。ただ彼がもう名前の元に戻っては来ないということだけを伝えた。それを聞いて、何故か当人である名前よりも友人の方が情緒を掻き乱し、なにそれ許せない!と憤慨していた。そんな彼女を何とか宥めているうちに、名前も夏油のいない現実というものを静かに受け入れていったのだ。

「あんなやつ忘れなよ。いつまで囚われてんの。貴重な青春がもったいないわ」
「そこまで言う?」
「言うよ!世の中に男なんて腐るほどいんの。世界の半分がアダムよ!」
「でも、その中で傑はたった1人だけだよ」

 それは、無意識にもするりと口から飛び出た言葉だった。友人の目が見開かれる。名前も自分で自分の発言にすごく驚いた。だって、こんなにもまだ未練が残ってたなんて、知らなかったのだ。何せ、名前は他人にも自分にも優しいので、突かれて痛いところは見ないようにしていた。多分、これは悪癖だ。
 だって、どんなにかっこいい人がいても、優しい人がいても、喧嘩に強い人がいても、きっと彼のことをついつい思い出してしまうのだろう。そして、どうしようも無く比べては、夏油ならこうするのにな、とその差異にきっとがっかりしてしまう。そんなの相手にも、夏油にも、失礼だ。そして、そんな自分に酷く嫌気がさす。
 でも、それほどまでに夏油という存在は名前の中に根深く残ってしまっているのだ。まるで、呪いみたいに。

「本当に名前ってば、羨ましいくらいに一途で純粋だね。その男も惜しいことしたよ、全く」
「そうかな?私には勿体ないくらいの人だよ」
「そういうところよ。まあ、初めての男は特別って言うしね。仕方ないから、今度合コン行きましょ!新しい出会い作って、思い出を超えるようなビッグな男釣ってみせるんだから!!」

 友人は拳を作って、意気揚々と日程を確認し出す。その横で名前は自然と笑っていられた。慰めていたはずなのに、気づけば逆に慰められていたようだ。
 思い出、かあ。そして、名前は友人の言葉を反芻した。人の記憶も限りがある。誰かを忘れる時、まずはその人の声から記憶をなくしていくらしい。一生忘れない恋なのだと、誰かが歌うラブソングみたいにそんなことを思っていても、名前もいつか彼の声を当たり前のように、なんの予兆もなく、記憶から消えていくのだろうか。それは、とんでもなく恐ろしいことのように思えてならなかった。
 だから、何度も脳裏に彼の姿を思い描いては、名前、と呼ぶ優しい声を頭の中で響かせて、ほっとしてしまう。忘れられないのではなく、名前はきっと彼のことを何ひとつとして忘れたくないのだろう。

「じゃあ、再来週の土曜日空いてる?」
「うん、空いてるよ」
「よっし!じゃあその日に合コンね」

 でも、名前だって分かっている。いつまでもあの永遠の夏に囚われてはいけないのだと。新しく1歩前に進みでないと、自分が幸せになれないことをちゃんと理解していた。もう理想だけを夢見る子供じゃないのだ。現実を受け止めて、ダメなところは諦めて妥協できるのが大人だ。分かっている。分かっているのだ。
 ただ、夏が来る度に思い出す。容赦なく照りつけてくる眩い陽光が、その影を濃くするみたいに、より鮮明に。忘れることを許さないと言わんばかりに、爛れた瞼の裏に、彼の姿を焼き付けてくる。だから、夏は好き。ただ、それだけ。本当にそれだけのことなのだ。





 友人と別れて家に辿り着く。名前は何だかんだで家を引っ越さなかった。家族も、友人も、隣人も、そして五条でさえも、いいのかそれでと心配の声を投げかけてくれたが、名前は決してここを離れようとしなかった。何せ大切な友人が死に、自分も同じように死に目にあった場所だ。トラウマに近い嫌な記憶が呼び起こされてもおかしくない。だが、ここは嫌な記憶ばかりではない場所だ。彼との思い出も沢山詰まっている。それを、顔も名前も知らぬ赤の他人に譲るなど、正直気に入らなかった。管理人としてはとんだ事故物件を持て余すことにならず、ほっとした様子を見せていたが。
 部屋に入る前にポストを開ける。いつもの習慣だ。大体は妙なセールスのようなチラシが入っていることがほとんどだ。ダイヤルを回して蓋を開ける。すると、その瞬間甘い香りが鼻を擽った。

「花……?」

 そこには、一輪の白いチューリップが心狭しと言わんばかりにポストの中に入っていた。花は何枚かのチラシを下敷きにしていたが、名前はそれに全く気を留めることなく、そっと花を手に取った。
 淑女の履いた純白のスカートのような花弁は、艶があって瑞々しい。買ったばかりのものなのかもしれない。凛とした愛らしさに、心を撫でられる。その白い夢に、名前、と呼ぶ柔らかな淡い声が何処からか聞こえた気がした。

「傑……!!」

 気づけば、名前は駆け出していた。花を片手に、手当たり次第に家の周りを走り回る。記憶の中でしか思い描けぬ彼の姿を探して。

「傑、傑、傑ーーー!!」

 角を曲がる。よく寄る肉屋さんだ。よくここに来て、牛肉コロッケを2つ分買っていた。ここの店主からは相変わらず仲良いわね、と言われ、2人で照れくさく笑っていた。コロッケを食べながら手を繋いで名前の家に向かっていた2つの影を横切る。
 道を真っ直ぐ走る。彼がよく寄る本屋があった。彼は案外本を読むのが好きで、逆に名前は苦手だった。でも、これ読んでみなよ、と勧められたのはちゃんと全部読んで感想を言い合ったりしていた。ここは数ヶ月前に閉店してしまい、懐かしい思い出だけが寂しく残っている。
 坂を上る。スーパーに買い物をしに行く時、名前が所持している自転車に2人で乗って行った。自転車に買い物袋と名前を乗せて、彼は必死にこの坂を駆け上がっていた。上下する広い背中に額を乗せて、風を浴びたあの日々はもう遠い。

「う、うぅ、ひっぐ、うわぁぁぁぁぁぁぁあん!!」

 名前は脇目も振らずに泣き叫ぶ。涙が止まらなかった。溢れ出るそれを何度も拭う。泣きながら必死に駆け回る名前の姿を、通りすがりの人たちは不審に見やるが、やがて興味をなくして自分の世界に閉じこもる。東京とはそんな街だ。

「傑!傑!傑!」

 忘れるわけがなかった。だって、今でも道を歩くだけで、彼との思い出が、記憶が、あの時の感情が、胸に宿るのだ。ずっとずっと名前の胸の中に影を残し、消えてくれない。
 こんなの呪いだ!酷い、酷すぎる。共に生きることも、死ぬことも、全てを忘れて前に進むことも、彼を嫌って恨むことも、赦しちゃくれない。名前は永遠に幸せな過去を抱いて、生きていくしかない。まるで亡霊だ。今の名前を幸せにしてくれやしない。気が狂う。正気でいられるわけがない。こんなの、愛と呼べるのか。
 ああ、それでも。それでも、だ。

「好き、好きだよ、傑、傑…!!」

 好きだ。好きだ。好きだ。やっぱり名前は彼のことが好きでたまらなかった。1年経っても、彼のことを何も知らなくても、理解できなくても、殺されかけても、他に目移りすることに嫌悪感を覚えるくらいには、ずっとずっと好きだった。
 そんな馬鹿みたいな地獄を選んだのは、紛れもない名前自身だ。だから、夏油は悪くない。誰の責任でもない。全部、名前自身のせいだ。だって、名前は夏油と同じように、幸せになれない自分を救いたいとは思わなかったから。

「あ、あ、ああああああああっ!!!!」
 
 陽炎に揺れる彼のあとを必死に追いかける。手は届かない。もう会えない。知ってる、知ってるよ、そんなこと。でも、足は止まらない。想いはなくならない。花は枯れても、涙は枯れない。
 あの夏の陽射しが、今でも名前の心を人知れず静かに熱く燃やしている。名前は永遠の夏にずっと囚われ続けていく。