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窒息するようなキスを初めて知った

 金はないからホテルには入れない。なので、うーんと悩んだ後、私はとむらくんを自宅に連れて帰った。逃げ場がなくなったり、不法侵入されたり、待ち伏せされたり。そんなことが起きないよう保身のために、実はここには誰も連れてきたことがない。とむらくんだけ特別だよ、とこっそりと教えてあげる。するととむらくんは、あっそ、と興味なさげに言う。でも、彼の纏う空気がほんの少しだけ柔らかくなったのを感じた。
 築云十年のボロアパート。それを見たとむらくんはうわ…と引いていた。ヒビが入り色も剥げ落ちた壁と、何処か閑散とした薄暗い空気は、なかなか人を寄せ付けない。曰く付きという噂もあるが、今のところ私の部屋でそういった体験はしたことがない、多分。ただ霊感がないだけかもしれないけれど。でも、隣の部屋は人の入れ替わりが激しく、たまに変な呻き声も聞こえることがあるため、曰く付きの噂も真実なのだろうと思っている。
 しかし、家とはどんな人でも無防備になれる癒しの場所だ。だからこそ、不安を煽るようなこんな場所を家にしようだなんて思う人はよっぽど変わり者か、ここでなくてはいけない理由がある者かに限られている。私は後者だ。だってここより家賃が安い場所を知らないんだもの。

「適当に座ってね」
「つまんねえ部屋だな」
「帰って寝るだけの場所だからね!それに、ものを買うお金もないもん」

 とむらくんの言う通り、私の部屋には何も無い。使った形跡のないキッチンと小さな冷蔵庫、机、ベッドくらいだ。トイレとお風呂は一緒になっている。ちなみに洗濯機は外だ。彼の言葉の通り面白みのない殺風景な部屋だ。
 
「はい、お茶」

 机の上にお茶のペットボトルを置く。そのまんまかよ、という小言は無視しておいた。
 なんせ冷蔵庫の中に大したものなど入っていない。なので、家に帰る前に自動販売機で飲み物を買った。ちなみにお茶2本。とむらくんはジュースがいいと渋っていたが、もし残ったら後日私が飲めるようにと、問答無用でお茶にした。

「ところでとむらくんって経験は?」
「無い」
「え、初めてが私でいいの!?」
「責任重大だぜ。なんせアンタとのセックスが、これからの土台となり基準にもなる」
「うわー、なんかドキドキしてきちゃった」

 チラッと視線がこちらにむく。暗い部屋の中で、彼の赤い目は鮮烈にギラギラと燃えていた。なるほど、確かに彼もそういうものに興味を持つお年頃だ。とりあえずセックスというものをしてみたかったのかな、と親心のような気持ちを抱いてしまう。

「触っていい?それとも、とむらくんから触る?」
「あの男みたいにお前も死にたいなら俺から触るが?」
「オッケー!リードされる方が好みね!」
「ちげえ」

 とむらくんの胸元をとんと押す。すると、彼の身体は簡単にベッドの上に倒れてしまった。上に着ていたカーディガンを脱いで、彼の体の上に跨る。こちらを無防備に見上げる彼の姿は、年相応に幼く見えた。そっと頬を撫でると、舌を打たれた。こういう時でも彼はやっぱり可愛くない。

「優しくするね」
「アンタがいつも相手にしているような悪趣味なことはすんなよ」
「初めての人にそんなハードなことはしません!!安心して、お姉さんに任せときなさい!!」

 するり、と。彼の服の中に手を差し込んだ。白くて薄い肌。ちゃんとご飯食べてるのかな、と自分のことは棚に置いて少し心配になる。首筋に唇を落とした。ぴくりと震える初々しい反応に、自然と目元が緩んだ。
 真っ赤な瞳が、波のようにゆらゆらと揺蕩う。まるで、海面に映った夕日みたいだった。もしかしたら彼が私の太陽なのかもしれない。馬鹿な私はそんな馬鹿みたいなことを夢に見ていた。





「私ね、王子様に憧れてたの」
「は?」

 とむらくんは何言ってんだこいつ、という態度を包み隠さず表現してくれる。でも、きっとそうなるよなあとも、諦めにも似た理解を私も示してしまう。
 全てを終えて、狭いベッドの中で二人で一緒に横になる。2人で生まれたままの姿を晒して、まだ足りぬ熱を補うように、そっと寄り添う。彼の体温は案外低い。でも、私は高いからきっと丁度いい。とむらくんには子供体温だとバカにされたけれど、私の背中に回る手は離れなかった。
 情事のあとにこんな心地のよい空気を味わったのは、初めてかもしれない。いつも終わったあとは皆用無しと言わんばかりにさっさと部屋を出ていくし、変なイチャモンやら悪態を突きつけられたこともある。それはまだマシな方で、気を失いかけるまで抱かれたこともあれば、陸で溜め込んだストレスを深い海の底にばら撒くように暴力に訴えられたこともある。誰かとこうして寄り添うだけでも、こんなに胸が温かくなるものなのだと、何年も誰かと熱を共にしながらも、今更のように初めて知ったのだ。これが、幸福と呼べるものなのかもしれない。太陽なんていらなかったけれど、冷たい海の中を1人で泳ぐのは寒いから、誰かの温もりにこうして触れたかったのだ。
 だから、胸の中にずっと沈めていたまだ純粋だったあのころの想いを、ポロッといとも簡単に零してしまったのかもしれない。

「三十路前に何言ってんだ、アンタ」
「女の子は、何歳になっても乙女なんだよ!」
「痛いからやめたがいいぜ」
「そんなん知ってるしー!」

 ズケズケと容赦のない言葉に、私もつっけんどんな返事をする。こんな当たり前みたいなやり取りに焦がれてた。誰かを愛して、愛される。自分もそうできると信じてたのに、どこかで道を誤ってしまった。私、馬鹿なんだなあ。何度も思ったけど、この時ほど強く身に染みて思ったことは無い。
 とむらくんの胸元に擦り寄れば、上から「で?」と続きを催促された。くわっと欠伸も零している。彼は寝物語を所望しているらしい。

「深い海みたいに真っ暗な世界から救い出して、陸の上に連れ出してくれる王子様がきっといるって、昔は信じてたの」
「今は?」
「分かんない」

 王子様の手を取って、キラキラとした世界を歩く。この地に足をつけて、くるくると回り、踊る。昔からハッピーエンドにしかならない物語ばかりを好んで読んでいたから、自分もそうなるのだと無垢に信じきっていた。でも、今ならわかる。現実は幸せな結末ばかりではない。王子様の手を取れるほど綺麗な女の子じゃないことを、大人になった今の私は知っている。

「この世界が嫌なのか」
「どうだろう。難しいけど、でも、私、ここでしか生きられないから」

 すると、頭の上から舌打ちが落ちてきた。怒ってるか、呆れてる。とむらくんはいつもそうだった。
 でも、若いとむらくんにはまだ分かんないことだ。いや、大人になりすぎた私が分かんないだけなのかもしれない。大人になりすぎると、嫌なものから目をそらせるようになるし、理想とかけはなれた現実を受け入れられるし、どうしようもない自分と世界に諦めることも出来る。今のとむらくんは眩しく見えて仕方ない。まるで、太陽みたいだ。

「ありがとね、とむらくん」
「何が?」
「私に太陽を見せてくれて」
「は?ポエマーかよ」
「ポエム売れたらこの生活ともおさらばできるかな」
「売れねえから安心しろ」
「売れたらナゲット買ってあげるよ」
「バーガーにレベル上げろよ」
「売上次第かな。とむらくん、売上に貢献してよ」
「しねえ。アンタのポエムは虫唾が走るし、気分が滅入る」
「ひどっ」

 とむらくんは私から少し距離を開ける。背中に回った手はそのまま。そのおかげで彼の顔が見えるようになった。首を上げて、それをじっと見つめる。
 とむらくんは、つい先程まで体を繋げたとは思えないほどに、至っていつもと変わらぬ普通の表情をしていた。肌は荒れているのかカサついているし、深淵を覗き込んだかのようにその赤い目は薄暗い何かを映している。迷子になったような不安定さが垣間見える顔つき。世界が嫌になった万年反抗期の子供みたいだ。
 私とセックスしてどう思ったんだろう。気持ちよかった?案外こんなものかってつまらなかった?見ていたAVと違っていた?理想と違った?聞くのが怖いと思ったのは初めてかもしれない。でも、お金の値段だけで価値の着いていた私の体を、彼の言葉で知りたいと思ってしまったのも事実であった。だって、これが最初で最後かもしれない。

「ねえ、私とのセックスどうだった?」

 普段ならば聞かないことだ。だって、お金以上の価値を見出そうとしなかったのは私自身だ。だから、それをドキドキとしながらも我慢できずに口にして、彼の答えを待った。もっと海の底に沈めてくれてもいいとさえ思ったのだ。

「俺はお前を殺すつもりでいた」
「え、怖っ!なにその突然のカミングアウト」
「名前はきっとこっちの世界に向いていない。馬鹿だから足踏み外して海に落ちちまったんだろ。だから、こっちの世界の奴らはお前を傷つけたくて、殺したくて、仕方ないんだ」

 なんで、と聞く。とむらくんは、眩しくて鬱陶しいから、となんでもないふうに答えた。酷いな。それ、悪口じゃん。でも、眩しいのはお互い一緒だったんだなと思った。おそろいだ。

「じゃあ、なんで殺すのやめたの」
「生きてる方がしんどそうだから」
「しんどそうな方選んじゃうんだ」
「俺は優しいんだよ」

 それ逆じゃん。優しくないよ。でも、私は別に死にたいわけじゃないから、たしかに優しいのかもしれない。うーん、分からない。やっぱり私は馬鹿だ。そんな馬鹿な私を見て、とむらくんはその目元に優しく皺を集めた。こんな顔をする彼は、初めて見たかもしれない。

「なあ」
「うん?」
「なんでキスしねえんだよ」
「え?」

 とむらくんの突然の問いかけに私は目を丸くした。すると、荒れた唇がちょんと少し尖ったのが見えた。まるで、拗ねてるみたいだ。いや、みたいだではなくて、たしかにそうなのかもしれない。

「したいの?」
「テレビや漫画では、こういうことをする時よく口をくっ付けてるだろ」
「うーん、一応遠慮してたんだけど」
「なんで」
「初めてのキスは大事な人に取っておいた方がいいよ」
「お前はどうだったんだよ」
「…………おぼえてないかな」

 嘘だ。覚えてる。桜の雨が降りしきるあの日。そっと触れただけの口付けは、それ以上にもそれ以下にもならなかった。春を知らせる風が私の心を掻き乱して、ただこの胸と口にほんのりとした甘酸っぱさだけを残した。懐かしい思い出。綺麗すぎて、思い出すのも勿体ないと思うほど。相手の顔も声も名前も思い出せないけれど、きっとあれは恋だった。
 とむらくんは私の嘘を見抜いているのか、はたまた騙されてくれているのか分からないけれど、ただ目を薄く細めてふーんと頷いた。そんな彼も恋をしたことがあるのかな、って少し気になった。

「しろよ」
「え?いいの?」
「やらないと今すぐ殺す」
「さっきと言ってること違くない?」

 私が渋っていると、そんなん今更だってとむらくんは笑う。それもそうかもしれない。彼の初めてを奪っておきながら、最後の最後に逃げを打つのは卑怯だ。わかったと肯定すれば、だからダメなんだろお前は、とダメ出しを食らった。自分から誘っておいてその反応は何なんだ。近頃の若者はちょっと分からない。

「じゃあ、目を瞑って」
「開けたらダメなのか」
「うーん、なんか雰囲気みたいな?恥ずかしいから閉じててよ」
「お前にも恥とかあるんだな。驚いた」
「私のことなんだと思ってんの」

 ようやく閉ざされた瞼を見て、彼の睫毛が案外長いことを知る。よく見てみれば、この男は綺麗な顔立ちをしているのだ。触れたら壊れてしまいそうな物々しい空気を何とかすればモテそうであるのに。それを残念に思いながら、そしてちょっと安心しながらも、私も目を閉じる。
 そして、首を伸ばして、その柔い部分にちょんっと触れた。夢ではなく現実だと知らしめるように、隙間なくしっかりと唇を埋め合わせる。それは、たったの数秒かもしれないし、何時間というとてつもなく長い時間のようにも思えた。なんともいえぬ不思議な感覚だ。埃被った桜色の記憶が胸の中に広がる。

「触れるだけかよ」

 名残惜しさを覚えながらもそっと離れれば、可愛くない悪態が飛んできた。触れた唇は冷たくて、でも胸は燃えるように熱かった。

「初めてならこれで十分だよ」

 そう言うと、とむらくんは笑った。笑い方は歪で下手くそで全く可愛くなかったけれど。でも、私はこの時になってようやく、彼に、とむらくんに、恋をした。この仄暗い太陽に、胸の奥底を焦がされてしまったのだ。



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