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ヒーローと呼んでくれますか

 入院してから1ヶ月ほど経った。雲雀から得た傷も随分と回復し、名前は病院を出ることになった。その回復力の速さには医者も随分と驚いていた。多分、何度も雲雀からボコボコにされてしまってから、体に耐性が着いたのかもしれない。それを聞いた幼馴染は、そんな耐性はつきたくもないだろ、と小言を漏らしていたけれど。
 明日からは学校に復帰することになっている。退院したての体は随分と鈍っているようで、名前はリハビリがてらにふらふらと外を歩いていた。
 青い空は随分と澄み渡っている。今日は野球部の秋の大会が近くで行われているらしい。その中の誰かの祈りが届いたのか、今日の天気は気持ちがいいくらいに晴れていた。名前は少し固くなっていた体をぐっと伸ばす。

「ねえ、お姉さん」
「ん?」

 すると、突如声をかけられた。近くに人の気配を感じていなかったので、少し驚いてしまった。キョロキョロと首を回すと、こっちだよ、と下から声が聞こえる。それに釣られて視線を落とすと、そこには幼い少年が1人いた。ニコッと人好きのする笑顔を向けられ、名前も同じように返す。

「お母さん…」
「お母さん?」
「うん」
「えっと、はぐれちゃった?」
「うん」

 迷子だろうか。確かにこんな幼い子供が1人で外をウロウロと歩くのも珍しい。しかし、この子供は母親とはぐれたというのに、どうも落ち着いていた。最近の子は大人びているなあ、と名前は素直に感心する。じっとこちらを見上げる視線はちょっと怖くも思ったが、名前は気にせずにその小さな頭を撫でてあげた。

「お母さんはどこにいるかわかる?」
「お兄ちゃんの野球の大会を見るつもりだったんだ」
「野球の大会かあ。じゃあ、そこの会場にいるのかもね。一緒に行こうか」
「うん!」

 手を差し出すと、小さな子供はそれを不思議そうに見つめてきた。おや、と首を傾げて、紅葉みたいなちっちゃな手を拾い上げる。それを、優しく握りしめた。どんぐりみたいに丸々とした目が、名前の手から顔に視線を移した。

「手、繋いでいこうか」
「……うん!!」

 きゅっと握り返されて、名前はそのまま野球の会場の道まで歩き出した。小さな足でせっせと歩く少年の歩幅にあわせて、名前もゆっくりと足を進める。

「お兄ちゃんは試合に出るの?」
「うん!!」
「じゃあ、頑張って応援しなきゃね」
「へへ、そーなの!!」

 ニコニコと笑う顔に、名前も自然と笑みが綻ぶ。今日も世界は平和だ。こうやって可愛らしい笑顔を見れるのだから、きっとそうなのだろう。
 でも、それを心の底から笑って祝福できない悪者がここに1人存在している。こんなにも光溢れた世界だと、名前の中にまだこびり付いている幻も溶けて消えてしまいそうで。笑えてしまったら、彼のことも忘れて、過去のことにしてしまいそうで。それが、怖くてたまらないのだ。

「お姉さん」
「んー?どうかしたー?」
「なんか元気ないね」
「そ、そうかなあ」

 そんなに表に出ていただろうかと、空いていた手で自身の顔に触れる。それで何か分かる訳では無いけれど。無心でこちらを見上げてくる大きな目から、ちょっと逃れたかっただけだ。

「何かあったの?」
「……うん、そうだね。色々、あったよ」

 子供らしい、無垢な問い。深い意味もない。こちらを気遣ったわけでなく、ただ気になったから聞いてみたという無関心ぶり。それが、今の名前には心地よく感じられた。
 だからだろうか。あまりにも簡単に、するりと。それは口から漏れた。

「助けたかった人がいたんだけどさ、助けられなくてね。多分色々と遅かったんだよ。早くても助けられていたのかは分からないけれど」
「それを、後悔してるの?」
「うん。私、望んだことはなんでもできるって自分の力を過信してたから。この人のことを何があっても助けたい、この人のヒーローになりたいって思った時、ハッピーエンドしか描けてなかった。私、本当は何にもできないのにね。ヒーローになれなかったよ」

 ヘラリ、と笑った。ちゃんと笑えていたかは分からない。
 子供相手に何を話しているのだろう。名前は自己嫌悪に陥った。子供だって馬鹿じゃない。名前が落ち込んでいたことに気づいたのと同じように、話の内容は理解できなくとも、その本質くらいは察することが出来るのだ。
 でも、名前は慰められたいわけでも、気を使われたいわけでもなかったのだ。あの日からずっと胸を押し潰している鉛の一部を吐き出したかった。それだけだった。

「変な話しちゃってごめんね。早く、行こうか」
「……お姉さんはさ、」
「うん?」
「人ってどうやって救われるか知ってる?」
「へ?」

 子供らしからぬ哲学っぽい難しい話題に、名前はつい目を点にする。思わず子供をまじまじと見降ろすが、名前の視界に映るのは彼の可愛らしい旋毛だけだった。
 握られた手に力を込められる。子供にしては、随分と力が強い。痛くて、ちょっぴり痺れた。

「救われたかどうかなんて、救った側が決めつけるものじゃない。救われた側が決めるものなんだよ」
「……え、と」
「人って案外何気ないことで救われたりしているものですよ。だから、きっと知らない内にヒーローになっていたりするんでしょうね」

 口調が丁寧なものに変わる。無邪気な子供のものでは無いそれに、驚くよりも前に名前は金縛りにあったみたいに、体を動かすことができなくなった。ビリビリと痺れるような空気が名前の背筋を襲う。掌からじわじわと汗が滲んで、喉が酷く乾いた。吹く風が悪意を持って、握りしめられた手を柔らかく舐めていく。幻が、蘇る。

「例えば、雨に濡れているところを傘を差し出してくれたり」

「例えば、美味しいものを教えてもらったり」

「例えば、優しい言葉を貰ったり」

「例えば、自分のために必死になって泣いてくれたり」

 子供は首を持ち上げて、こちらを見つめてきた。底の見えない色をした大きな瞳。それが、陽光を反射して、片方だけ赤く染めあげていた。その鮮やかな色彩に、喉奥がひくつく。ドクドクと胸が脈を打つ。手を繋いだ2人だけが、別の世界に取り残されたような気分だった。

「その手から零れ落ちたものは確かにあるでしょう。でも、そればかりを慮り、この手の中に残ったものまで、捨てなくともいい」
「……ろく、どうくんも?」
「クフフ、僕は小指ひとつで十分ですよ」

 小指。絡めた約束。その熱を思い出した。乾いたと思っていた涙腺が湿っていく。
 それを見た子供は目を細めた。また泣くんですか、と。楽しげに、面白そうに。その姿は、全く薄れることの無い記憶の中の彼の姿と同じであった。
 壊れた世界よりも、きっともっとずっと綺麗な光景がそこにある。

「みーくん!」
「あ、お母さん!!」

 繋がれた手があっさりと離れる。子供は一人の女性の元へと駆け出して行った。恐らく探していた母親なのだろう。
 世界が繋がる。夢は終わった。瞼を降ろす。もう、怖くなかった。

「お姉さん、ありがとう!!」
「うん!!」

 救えないものがあっても、世界は綺麗なままだ。名前は精一杯の笑顔を浮かべて、少年に手を振った。





「綺羅さん、大雑把すぎませんか。これではいつまでも池は片付きませんよ」
「そう言う凛だってサボってんじゃん!」
「う!た、体力がもう切れたんですよ……!」
「早くない!?」

「へ?」

 久々に訪れた学校。長らく不在だった池の掃除を行おうかと向かったところ、そこには見覚えのある女子生徒2人がいた。
 2人は口論を繰り出している。しかし、その足は濁った池水に浸し、その手は泥に塗れたゴミを取り出していた。その光景を、名前はぱちぱちと瞬きをしながらも、見つめる。
 そんな名前に、1人が気づいたのだろう。「あーーー!!」という絶叫がこの場に響きわたり、もう1人から「うるさいです!!」と怒られていた。

「綺羅ちゃん、と、えっと、凛ちゃんだよね?」

 池の掃除をしていた2人。それは、以前から池の掃除を手伝ってくれていた不破綺羅。そして、綺羅が荷物を池に落とすなどをして虐めていた眼鏡の女子生徒、篠田凛であった。
 二人の関係はもちろんのこと険悪なもので、更にいえば名前の無知のせいで両者の心を酷く傷つけてしまった。だというのに、何故この2人は仲良く池の掃除をするような関係となったのか。名前は信じられない気持ちでいっぱいであった。

「別に許したわけじゃないです。でも、ここを掃除すれば、私みたいな人も減るかなと思って…。私もあんな目に遭うのはもうごめんなので」
「その節は本当に申し訳ございませんでした」
「…………でも、綺羅ちゃんは謝ってくれましたし、あれから私が虐められていると止めてくれました。だから、これはそのお礼です。それだけですから!」
「ここが綺麗になったら友達になってくれるって約束したんだ!」
「なるなんて言ってません。考慮するだけです」

 憎まれ口を叩き合いながらも、2人は笑いあっていた。名前の願っていた光景が、そこにはあったのだ。
 ああ、そうか。そうだったのか。名前の手の中に残っているもの。彼が言っていたのは、この事だったのだ。名前はそれをようやく飲み込んで、納得することが出来た。そして、それをぎゅっと離さないように握りしめた。

「名前さんのおかげですよ。ありがとうございます」

 間違っていてもいい。後ろ指さされてもいい。それで、救われる人がいるのなら。それでも、救われたと言ってくれる人がいるのなら。
 どんな正義の形でも、名前はヒーローでいられる。