白い煙は上へと登っていく
ガラゴロとスーツケースを引っ張りながら、名前は整備された山道を歩く。昨日の雨は嘘みたいに、空はからりとした晴天だった。青い空の上を小鳥が4羽泳いでいる。先程までいたコンクリートの建物に囲まれた街中とは違い、緑溢れるこの場所では空気もやけに澄んでいた。心做しかいつもよりも空は近い気がする。日本の都会を象徴する東京に、まさかこんな自然に囲まれた場所があるとは思ってもいなかった。
『無事に着いたかい?』
「ついたよー!東京にもこんな田舎っぽい場所とかあるんだね!」
『郊外ではこんなもんさ』
買ったばかりの折りたたみ携帯からは、クスクスと笑う声が耳を打つ。名前は携帯を肩と頬で器用に挟み、ケラケラと笑いながら軽口を叩いていた。その最中でも、スーツケースをせっせと持ち上げながら、角度のある斜面を登って行く。
じんわりと汗が滲む。ふう、と息を吐いた。
『緊張しているのかい?』
「ドキドキはする!でも、それよりもワクワクが強いかなー」
すると、緑ばかりで埋められた名前の視界に、建物の屋根が映り込んだ。随分と古めかしい作りをしている。現代の日本では珍しいだろう。お寺や神社と同じような異質な空気が漂っている。味がある、といえば聞こえはいいのかもしれない。
だが、どんな場所であれ、ここがこれから名前の通う学び舎となるのだ。改めてそう認識すると、スーツケースを握る手に自然と力が入った。
東京都立呪術高等専門学校。日本に2校しかない呪術教育機関の一校だ。多くの呪術師が卒業後もここを起点に活動をしており、教育のみならず任務の斡旋・サポートも行っている、呪術界の要。呪術師になるのならここに行くといい、と通話相手がおすすめしてくれた場所だ。
君の望む"彼"もここに来るらしいから、と細められた目に、白い影を見た。だから今、名前はここにいる。
『早く手続きが出来たら良かったんだけどね。遅めの入学になってしまってすまない』
「全然!むしろ感謝しかしてない!」
『君のそういうところ、気に入っているよ』
呪術師。読んで字のごとく呪いを祓う者のことを指す。しかし、呪いを祓えるものは、そうほいほいとはいない。その存在を知るものだって、希少だ。そのため、突然東京に行くと言い出した名前を家族はもちろん止めた。その家族を説得するのに、なかなか時間がかかったのだ。その中でも、なんだかんだで名前の背中を後押ししてくれたのは、祖母の存在だった。
そんなこんなで名前は、通常より入学が遅れてしまい、梅雨も落ち着きつつある6月の末となったわけである。
『君以外に今年の入学者は3人。いい高校生活を送るといい』
「うん!」
『あと、振込先はつい先日教えた通りだ。給料日後に振り込んでくれ』
「わかった!色々とありがとうね!」
『こちらこそ』
通話の切れた携帯電話を閉じ、ポケットに突っ込んだ。昨日の雨で濡れた道を滑らないように慎重に、だけどなるべく早足で進む。ぱしゃん、と水溜まりが跳ねた。しかし、名前は濡れた靴も気にならないくらいに、浮き足立っていた。
◆
「ええ、ここどこだ?」
しかし、その数分後のこと。ふわふわと浮いていた足も静かに地に着いてしまっていた。
キョロキョロと首を回しても、似たような建物が並んでいる。つい先程もここを通った気がするが、そうでも無い気もする。うーんと頭を捻ったところで、ここが何処なのかさっぱりと分かるはずもない。完全にお手上げ状態である。つまり、名前は迷子となっていた。
学校にたどり着いたところまではよかったのだ。しかし、問題は中に入ってからだ。見慣れぬ特徴的な外観に釣られて、その好奇心が擽られるがまま動いていたのが災いしてか、名前は今自分のいる場所が何処なのかわからなくなってしまっていた。しかも、これだけ動き回っていて、人っ子一人ともすれ違うことが無い。そのため、誰かに道案内をお願いすることもできず、名前は1人途方に暮れていた。
「えー、どうしよう!このまま誰にも見つからず、1人寂しく餓死するなんて、嫌な最後すぎるー!!せめて、死ぬ前に一目あの人に会うだけでも…!!」
名前はうわあんと1人寂しく唸る。すると、そんな彼女の鼻につんとした刺激が走った。なんだろう、これ。名前はすんすんと鼻を鳴らした。
それは、肺に鉛を落としたような、重くて苦い香りであった。それが辺りをふわふわと漂っている。多分、この匂いは煙草だ。
名前は花の蜜を求める虫のように、その匂いをくんくんと嗅ぎながらも追いかけた。
「あ」
「お、バレたか」
「ひ、」
「ひ?」
「人だーーーー!!」
「あ、うん。まあ、人だけど」
匂いの出処。そこには、名前と同年代らしき1人の女の子がいた。目が合う。名前は飛びつく勢いで、彼女の元まで駆け寄った。見慣れぬ場所で一人ぼっち。そんな名前からしたら、彼女の存在は正に救いの手であったのだ。
艶のあるボブヘアーがサラサラと揺れる。粒のような小さな黒子が右目の下に引っ付いていた。細い指先には名前の思っていたとおり、白い筒が挟まれており、女の子はそれを慣れたように口に含む。幼い顔立ちをしているのに、彼女から醸し出される空気は酷く大人びている。そのアンバランスさが名前の目には酷く魅力的に映った。
「見慣れない顔してんね。だれ?」
「あ!私、今日からここに入学することになった、苗字名前!よろしく!」
「あー、そういえば1人遅れて入学するって聞いたことあるかも。今日だったんだ」
ふー、と吐かれた煙に咳き込むと、女の子はその目に小さく弧を描いた。可愛らしい顔がちょっと意地の悪いものに変わる。でも、その後吐く息を違う場所に向けたから、きっといい人なのだろうと思った。
「もしかして、ここの先生?」
「ブフッ!そんなに老けて見える?」
「え、あ、いや、そういうつもりじゃなくて!でも、煙草吸ってるから」
「大人にならなくても、背伸びして大人の振りをすることはできんの」
そう言って、女の子は懐から出した煙草の箱を指で叩き、白い筒を1本とり出す。それを差し出してくるものだから、名前は思わず受け取った。だが、手に持ったそれをどうしたらいいのか分からず、困ったように見上げてくる名前に、女の子は猫みたいにニヤッと笑った。
「口に咥えて」
「こう?」
「そ」
すると、白い筒を口に挟んだ名前の顔の上に影がかかる。おや、と思っているうちに、それは少しずつ大きくなっていった。近づいてくる、彼女の顔。さらに濃くなる苦い香り。伏せられていく、綺麗なカールを描いたまつ毛。そして、咥えた筒の先端が引っ付き合った。
「吸って」
言われた通り、すうっと勢いよく息を吸った。すると、名前の咥えていた煙草の先端に火が灯る。それに驚いている間もなく、名前は肺からせり上がってくる何かを吐き出すように、咳を漏らした。
「ゲホゲホ!苦っ…!なにこれ!?」
「最初の煙は不味いから吸い込まない方がいいよ」
「それ早く言ってよぉ…」
「ハハハ」
涙目になって訴えても、女の子は飄々とした態度で笑うばかりであった。口の中はヒリヒリとする。どうやら煙草の味は、まだ子供の名前には早かったらしい。苦みの底にあるバニラの風味も、なかなか舌に合わない。
でも、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。彼女のことも、煙草のことも。
「アンタ、呪術師らしくないね」
「え?らしいとからしくないとかあるの?」
「呪いと縁なさそうな顔してるし」
「むむ?それは、褒めてる?」
「ある意味ね」
彼女の言う言葉がいまいちピンと来なくて、うーんと首を傾げる。しかし、ある意味でも褒めているというのなら、多分いいことなのだろうと、前向きに受け取っておくことにした。
「ま、らしくなくてもいいかな!神様に会えるなら」
そう言って、当たり前のように笑う名前を女の子は奇妙そうな目で見つめてくる。丸くなった目が何処か愛らしかった。
しかし、当人である名前はその目を向けられる理由がわからず、思わず眉を下げた。すると、その顔がおかしかったのか、彼女は腹を抱えて笑いだした。突然爆笑しだした彼女の情緒に、次は名前が奇妙な目を向けることになる。
「神様?アハハ、ヤバいね」
「確かにその神様はヤバいよ!!カッコイイし、綺麗だし、強いし、優しいし!!」
「いや、アンタが」
「え」
私?と自分に指をさして尋ねると、笑いを噛み殺した女の子はうんうんと頷いた。
せっかく貰った煙草は少しずつ灰になって、落ちていく。一口二口しか吸っていないと言うのに、勿体ない。だけど、まだ子供の名前の手に余る熱だった。
「ま、呪術師なんて皆ヤバいもんさ。気にしなくていいよ。ただ、アンタもアイツらと同じようにイカれてるみたいだから、少し安心しただけ」
「そっか!それならよかった!」
「意味わかって頷いてる?」
「うーん、ちょっとよくわかんないけど、安心させられたならいいのかなって!」
「前向きじゃん」
指まで登ってきた灰に、あち、と手を離せば、煙草は地面に落ちてしまった。あー、と残念そうに声を漏らす。女の子はその吸殻を慣れたようにぐりぐりと靴の裏で踏み潰した。
「それで?入学したてほやほやの君はここで何してんの?」
「それが、迷子になっちゃって…」
「なにそれ、面白いね」
「面白がらないでよー!似たような建物ばっかりだもん。人も少ないし、ずっとここで彷徨うのかと思った!」
「だから、私を見たときに人って叫んだんだ」
だからって、人呼びはないっしょ。女の子はクスクスと笑いながら、ボックスからもう一本新しい煙草を取り出して口に咥えた。ライターが音を鳴らし火を灯す。その火で筒の先端をジリジリと焼いていた。
「あっちを真っ直ぐ行けば先生たちがいると思うよ」
「ほんと!?教えてくれてありがとう!!」
「いーえ。でも、ここで見た事は秘密ね」
「秘密?」
「うん。煙草のこと」
「わかった!」
ニカッと笑顔を浮かべた名前に、彼女は一瞬目を細め、そして煙草を握った手をひらひらと振った。その動きに合わせて、辺りを漂う白煙もふわふわと揺れ動く。彼女はまだここで煙草の苦味を味わうつもりらしい。
名前はスーツケースをガラゴロと引っ張り、煙草の煙の指し示す道の先を目指して、歩き始めた。新たな学校生活に胸を躍らせながら。ずっと会いたいと焦がれていた、神様の姿を脳裏に思い描きながら。
「悟くん、元気かなあ」
意気揚々と歩む名前の小さくなった背中を、女の子は静かに見つめる。そして、ポケットから携帯を取りだすと、ピコピコとボタンを操作しはじめた。形の整えられた爪が素早い動きで文字を入力していく。
「面白そうな子、入ってきたよ、と」
彼女の吐いた白い毒は空に向かって、どんどんと立ち上っていく。しかし、それは空に届く前に空気に溶けて消えていった。
空は相変わらず青くて眩しい。