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ずっと見てるからいつか振り返ってね


 地平線の向こう側から、日が昇っていく。夜を引き裂く朝がやってきた。暗い闇が光に少しずつ侵食され、呑まれていく様を、目を細めながら見つめる。
 朝の潮風は酷く冷たくて、身体がぶるりと震えた。そして、着ていたコートは死柄木に貸していたことを名前はここでようやく思い出す。おかげで肌寒い。鼻を啜りながら、荼毘に引っ付いた。暖かいなあとニコニコと笑う名前に、荼毘は慣れたようになんの反応も示さない。

「この前仲間になりそうって話していた人はホークスのことだったの?」
「ああ」
「そっかあ。なんか、複雑だなあ」

 ちらりと青い目がこちらを向く。静かに揺れる波の音だけが、明けていく夜を祝福するかのように2人を包み込んだ。潮風が目に染みて痛い。

「ホークスって凄いヒーローじゃん!テレビでよく見かけるし、私と歳も近いのに沢山の人を助けてる。そんな凄くてカッコイイ人が味方になるのは、敵連合からしたらとても心強いと思うよ。でも、こんなことを思っちゃうのは、身勝手かもしれないけどさ、」

 風に煽られ、乱れた髪を手で抑える。呟く言葉が何処か湿っぽくなっちゃうのは、吹く風に潮がたっぷりと含まれているからだと思いたい。

「彼にはヒーローでいて欲しかったなって思っちゃう自分もいるんだよね」
「理想が壊されたか?」
「そう……なのかなあ。へへ、それは私の勝手だけどね。でも、荼毘先輩もそういうことあった?」

 そんな何気ない問いに、荼毘はそうだな、と呟いた後、何処か遠い場所に目を向ける。それは、あまりにも遠すぎて名前には見えなかったけれど。いつか見える日が来るのだろうか。

「……とっくの昔に。過ぎたことさ」

 波の音にかき消されてしまいそうなくらいに小さく呟かれたそれは、正しく彼の本音なのだろう。掴みどころのない彼の、心の柔い部分。それが、垣間見えた気がした。
 朝焼けの光が荼毘の青に映って、轟々と燃える。今目の前に広がる海のように。朝日に灼かれたその目は、一体どこを見ているのだろうか。

「荼毘先輩、大丈夫?」
「突然何だ」
「テレビに映ってる荼毘先輩見た時、ちょっと違和感があって…」
「違和感?」
「うん。何かあった?」
「何も無いさ、まだ」
「まだ?」

 名前の繰り返した言葉に、荼毘はその口元に笑みを浮かべるだけであった。その"まだ"は、彼の心を覗こうとする名前に対する、拒絶でもあったのだろう。それに気づいて、名前は目を伏せた。目の前に広がる海の底を見ようとして、目を凝らすのと同じくらいに、彼の心に触れるのは難しい。しょっぱいな、と悲しくなった。
 知りたい。助けになりたい。力になりたい。名前には名前の自由がある。でも、荼毘には荼毘の自由があるのだ。それを、否定できる術が名前にあるはずもなかった。

「ん?」

 すると、名前はふと気づいた。固いコンクリートの上にポツポツと作り出される、赤い斑点に。潮の中に苦い鉄の香りが混じり始める。名前はすぐさま顔を上げた。

「荼毘先輩、血が…!」

 荼毘のツギハギの肌から血が溢れ、その肌を沿って流れ落ちていた。ああ、と荼毘は大した反応は見せず、濡れた頬に触れては、指に着いたそれをなんとなしに眺めていた。それを、ぺろりと舌で舐めて、睫毛を揺らす。

「思い出したんだ。スナッチってやつのこと」
「スナッチ?」
「俺が殺したヒーロー」

 荼毘はうっそりと目を細めて、笑うように語る。名前は何も言えなかった。彼が、彼を含めた敵連合が、人を殺せる集団であるということは知っている。だから、今更その事実を突きつけられたところで、どうというわけではない。そのはずなのだが、捨てたと思い込んでいたはずの良心がチリチリと痛んで、どうしようもなく動揺してしまう自分を自覚した。
 そんな名前を、荼毘は静かに見下ろす。嘲るわけでもない。蔑んでいる訳でもない。呆れている訳でもない。ただ、笑っていた。ただ、名前を見ていた。

「ハハ…考え過ぎてイカれたよ」

 荼毘はそう言って、慣れたように頬に流れる血を拭う。考え過ぎたとはどういう意味なのか。色んな感情が煮詰まった薄暗い眼差しは果たして何を映しているのか。気になることはいくつもある。だけど、そんな荼毘の姿を見て、名前は問いかけるよりも先に手を伸ばしていた。
 冷たい海の中に飛び込んだかのように、胸が痛い。海が、風が、夜が、泣いていた。名前も泣きたくなった。

「泣いてるみたいだね」
「何言ってんだ。俺は泣けねえんだ。そんな体になっちまってんだよ」
「ううん、違うよ、荼毘先輩。泣けなくても、泣けるよ。だって、人だもん」

 伸ばした指で、流れる血に触れた。熱いのに、でもすぐに冷たくなる。涙ってなんでしょっぱいのだろう。その疑問に昔義爛が教えてくれた気がするけれど、答えは忘れてしまった。でも、しょっぱい涙があるならば、甘い涙も、辛い涙も、不味い涙も、鉄臭い血の味がする涙があっても、いいと思うのだ。
 踵を上げて、背を伸ばす。彼との距離を詰める。ほんの少しだけ見開かれた目。開いた傷口にそっと唇で蓋をした。名前の唇が、紅を塗ったみたいに染まる。濃い赤は案外似合わないな、と荼毘は少し残念に思った。

「荼毘先輩の涙に触れられたらいいのにね」
「……そいつは難題だな」
「へへ、やっぱり?」
「ーーー……地獄でいっしょに踊るヤツはもう決めてるんだ。定員オーバーだな」
「荼毘先輩は優しいもんね」
「は?何故そうなる」
「地獄に来るなってことでしょ?優しーじゃん!」
「前向きすぎるだろ、お前」

 ふ、と荼毘は息を吐くよう笑う。その顔、好きだなあ、と名前も頬を緩ませた。ほっぺたが、熱い。

「でもね、私はついて行っちゃうから。その人と踊るのが終わるまで荼毘先輩のそばにいて、ずっと待っとくよ。へへ、踊り方とかよくわかんないからさ、予習する時間ってことにしておく!」

 血を拭ったその手を握る。辛うじて繋ぎ合わされた皮膚が、今頬から流れる血みたいに破けそうで、ちょっと怖い。だから、優しく触れた。
 あったかいね、と笑う。すると、舌打ちされた。それでも、握られた手は離されなかった。そういうところが、名前をさらに調子づかせるのだと、彼は気づいているのだろうか。

「私、荼毘先輩のこと、ずっと見てるから」

 彼がいつか名前のことを見てくれるまでずっと待っている。その傷口を見せてくれるまで、そばにいる。これまでの事を知られないなら、これからの彼を知れるようにずっと見ていく。冷たい海の底で溺れても、地獄の中を歩いても、何があっても。ずっと、ずっと、彼のことを好きでいたい。
 それが、名前の望んだ自由。名前が彼のそばでしたいこと。全てを投げ打って得た答えだった。

「……本当に救いようがないくらい、イカれてやがるな」
「いーよ!イカれてても!じゃなきゃ、荼毘先輩のことこんなに好きでいられないよ」

 名前は笑った。いつものように、世界の綺麗な部分しか知りませんよ、と言った無垢な顔をして。朝日を浴びて、丸まった蕾がそうっと花開く瞬間みたいに、美しい。
 そんな彼女がいつまでも荼毘の隣にいるから。その手を離さずにいるから。暗い地の底でも幸せそうに笑うから。
 だから、きっと、荼毘はーーー。

「名前」
「ん?」

 熱を持った掌が、名前の頬を撫でる。それに無防備に擦り寄れば、その白い肌に影ができた。名前の大きな目がさらに大きくなり、丸くなる。あ、という声も飲み込まれ、彼女は瞼を下ろした。あの夜が、現実という輪郭を持って、名前の元に戻ってきた。
 触れた熱は初めてでなくとも、慣れそうにもなかった。皮膚が爛れているからか、触れた部分は案外薄く、苦い味が鼻を突き抜けた。触れるだけ。舌を絡ませたり、唾液が混ざりあったりなどしない、単純な口付けだ。それでも、それだけで名前の胸はいっぱいに満たされた。満たされたものが溢れ出して、思わず泣いてしまいそうになるくらいに。

「目、瞑らないの」
「お前のアホ面見てた」
「キャッ、荼毘先輩のえっち」
「海に落とすぞ」
「へへ、それはもっかいした後にして」

 鼻先を擽って、彼の胸元を手繰り寄せて、舌を伸ばす。荼毘の唇の上に走った紅を舐めとり、もう一度そこを熱で埋め合わせる。今度は目を閉じなかった。海面を覗き込んだ時みたいに、青い瞳に名前の姿が映り込む。風のせいか、その目に映る名前も小さく揺れて、じんわりと滲んで歪んでいた。
 唇から伝わる熱が、冷えていた身体を温かくしていく。人体で温度に一番敏感な部位は唇らしいので、この熱が荼毘の正確な生きている温度なのだろう。それを知れただけでも、今はきっと十分だ。

「何泣きそうな顔をしてんだ」
「荼毘先輩は鈍いなー!泣けないって言う荼毘先輩の代わりに泣いてあげてんの!健気な乙女心よ!」
「……そりゃあ余計なお世話だな」

 名前の背中に、不器用な腕が巻きつく。その腕に導かれるがまま、その胸の中に名前は顔を埋めた。名前も彼の背中にしがみつくように、きつく抱きしめ返す。2人の涙が、2人の熱で蒸発して、溶けて、慰められて、消えたらいいのに。本気でそう思った。
 だから、お願い、太陽よ。ゆっくりと昇っていって。涙はまだ流れている。彼とまだこうしてくっついていたい。その熱をまだ感じていたいから。だから、今日だけはいつもよりも長く夜の気配を感じさせてほしい。