悪い予感のする香り
ポコン!名前の頭に衝撃が走った。
「痛い!!」
「自業自得だろ!!急にいなくなるなよ!!」
頭を抑えて訴えれば、すごい気迫で返された。名前は思わず口を噤む。悪い事をしたという自覚はあるのだ。それ故に返せる言葉が何も見つからなかった。
荼毘と名前はコソコソと周囲の目を掻い潜りながら歩いていると、運良く偶然スピナーと鉢合わせた。「あ、師匠だ」と言った瞬間、名前は目を三角にした彼から強烈な一撃を頭に貰い受けたのだ。はあ、と重々しくため息をつかれる。スピナーは肩の荷が降りたように、疲れたように、肩を落として息を吐いていた。
「……久しぶりだな、荼毘」
「ああ」
スピナーは名前の背後にいた男の姿を目にして、トゲトゲとした口調のまま挨拶をした。それも仕方あるまい。他の連合メンバーからは、連絡が取れないと言う情報は聞いている。名前然り、荼毘然り、もう少し慎重に行動をしろと口酸っぱく言い聞かせてやりたいくらいだ。
そんなスピナーを気にも留めていないのか、荼毘はあくびを噛み殺していた。それが更にスピナーの逆鱗を突いてくる。しかし、湧き上がる激情に耐え、スピナーは努めて平静に話す。ここで仲間割れするのは得策ではない。もとより敵連合のメンバーは己が道を行くものばかりだ。あーだこーだと文句を垂れるのも、今更である。
「死柄木が集まりたいんだと。今から行くぞ」
「やったー!みんなに久々に会えるねー!」
「ここから近いのか?」
「少し歩く。場所は予め確認している。ついてこい」
スピナーの言葉に従い、名前と荼毘は後をついてくる。人が少なく薄暗い路地を3人で歩いていく。その間に、スピナーは自身の携帯電話を操作し、他の仲間に報告しようと電話をかけた。
しかし、幾ら待てども耳元で響くのは無機質な呼び出し音のみ。通話はなかなか繋がらなかった。その作業を何度か繰り返し、途中で諦める。なぜ出ないのだろうか。そう疑問を抱きながらも、スピナーは携帯電話をポケットにしまい込む。それを見ていた名前はスピナーの元に駆け寄り、顔を覗き込んできた。
「繋がらないの?」
「ああ、見つけたら早く連絡しろって言われたんだがな」
「へえ!他の人には?」
「ダメだった」
「ありゃー?どうかしたのかな?」
「さあな」
スピナーは肩を竦める。名前も首を傾げた。
敵連合は敵であるにも関わらず、互いの結束力が強い。それぞれの志や意図を持って所属しているが、彼らの心に根差すものは似通っているからだ。躊躇なく人を傷つけることは出来る。だが、情はある。名前は彼らのそんなところから、人間の温かみを感じるのだ。
「お前、その首……」
「んー?」
「……いや、気にならないならいいが」
名前とはぐれる前、スピナーはその首を覆っていた白い布の存在を把握していた。それが今はなくなっている。赤く爛れた火傷のあとが痛々しく残っており、スピナーはそそくさと視線を逸らした。そして、何処かへと消えた包帯と入れ替わるかのようにスピナーの前に現れた荼毘。二人の間にあったすったもんだの拗れは少しは緩和されているようだと、スピナーは察した。
名前は首の跡を気にした素振りもなく、スピナーの横顔を不思議そうに見つめてくる。サクサクと刺さってくる視線がうざったい。
「よかったな」
「え?」
「そいつと会えて」
正直にいってスピナーからしたら、荼毘と名前の関係が進展しようが、ぎくしゃくしようが興味はない。しかし、すっかりいつもの調子を取り戻し荼毘と共に姿を現した名前を思い返すと、自然とそんな言葉がこぼれ落ちたのだ。余計なことを言ってしまったとほんの少し後悔するが、口にしてしまった以上どうしようもない。
「え、えへへ、うん…」
すると、名前は照れくさそうにはにかんだ。頬を赤く染めて、幸せそうに顔を緩めるその姿は、まさに恋する乙女そのもの。スピナーは思わず後ろを振り返った。
「なんだ?」
目が合った荼毘はいつもと変わらない。体のあちこちに少しだけ切り傷はあるが、それ以外はスピナーの知る荼毘と相違なかった。
「いや、なんでもない」
そっと目をそらす。「は?」と怪訝そうな声が後ろから聞こえたが、黙殺しておいた。
何かあった。この2人、絶対に何かあった。スピナーはそのことに不運にも気づいてしまった。しかも、名前の様子を見るに恐らくその関係性に進展があったとみた。そんなことなど知りたくなかった。誰が好んでメンバー内の色恋沙汰に首を突っ込みたいと思うだろうか。非常に気まずい。気まずくて、仕方がない。
だって、あの荼毘が、だ。想像なんてできるだろうか。あちこちに焼死体が相次いで見つかるというニュースは、今密かに世間を賑わせている。恐らくではあるが、その犯人はスピナーの背後にいる男で間違いないであろう。恋という言葉からかけ離れた場所にいる男が、まさか今スピナーの隣にいる女と甘酸っぱい恋物語を進めている。その事実に薄ら寒さしか感じない。あるいは、何かしら企んでいるのかと訝しむ。
そこで、ふとマグネの言葉を思い出した。"恋とは人を変えるものよ"と。そうなのか。恋とはそんなに恐ろしい感情なのか。人を傷つけることになんの躊躇もない冷徹な男が、一人の女の顔を赤らめさせるようなことをしてしまうくらいには。想像したくないが、鳥肌は立つ。やめよう。深く考えれば考えるほどドツボにハマる気がする。スピナーは首を横に振った。
「あづっ!?」
「秀ちゃん!?」
すると、突如後頭部あたりに熱い痛みを覚えた。飛び跳ねて後ろを振り返れば、指から少量の炎を零れさせた荼毘が目に入る。
「俺にとって非常に不本意なことを考えてそうだったからな」
なんて、悪びれもせず、荼毘はケロッとした顔で言う。非常に腹立たしいことこの上ない。
「ちょっと!荼毘先輩、何してんの!秀ちゃん、大丈夫?」
「全然大丈夫じゃないから離れてくれ」
「へ?なんで?」
そりゃあ馬に蹴られたくないからだ。なるべく巻き込まれたくない。そう思っていても、鈍い名前にその意図は伝わっていないらしく、スピナーの後頭部を気にしている。心配してくれているとわかっているので、強く拒絶もできない。
「あ、そういえばこの前塗り薬買わなかったっけ?」
「ああ、お前が料理に失敗して何度も火傷してたからな」
「それ塗ろうよ!」
そう言って、名前はスピナーから荷物をひったくると、ガサゴソと中を漁る。非常に嫌な予感しかしない。名前は類まれなる不運体質なので、なるべく物を持たせないようにしていた。理由は簡単、壊すかなくすか、何かしらあるからだ。
「おい、自分で探すから、返せ」
「あ、見つけた!……って、ぎゃあああっ!?」
大変嬉しくないことではあるが、スピナーの予感は見事的中した。
何処かに隠れていたのであろう黒い野良猫が名前の手元に突如飛びかかってきたのだ。長く伸びた爪が名前の手を裂く。手の甲に赤い線がいくつか引かれてしまった。驚いた名前はスピナーの荷物を手から離してしまう。その隙に、丁度バックから取り出していた塗り薬を咥え、猫は俊敏に何処かへと駆けていった。実に鮮やかな手口であった。猫ながらあっぱれと言うべきか。
「あ!!待てーーー!!」
「こら、名前!」
それを、名前も慌てて追いかける。引き留めようとするが、一足遅かった。名前の背中は遠くなる。荼毘は去りゆく背中を半目で眺めていた。相変わらずの不運っぷりに呆れているのだろう。少しは止めてくれと不満を零しそうになる。
「全く!あいつはまたはぐれるつもりか!」
仕方なしにスピナーは地面に落ちた荷物を拾い上げると、名前を追いかける。彼女は不運なくせに妙に逃げ足は早いのだ。見逃してしまえば、また探す手間が増えてしまう。そんなのはもう勘弁だ。荼毘も帰ってきたことにより、スピナーは名前のお世話係(仮)を辞めたいと思っているのだ。このように振り回されるのはもうごめんである。
「こんにゃろう!!」
「おい!深追いするな!路地から出るぞ!」
「うぇ!?」
スピナーの言葉を聞いて、名前は路地の曲がり角ギリギリのところで足を止める。あと一歩踏み出せば、光の差した大通りに出るところであっただろう。雑踏の波の中に紛れるようにして逃げる黒猫を、名前は名残惜しげに見つめた。
「もういい。早く行くぞ」
「うう、はぁい」
名前がその場から離れようと、路地の中にまたその身を深く沈めこませようとした時。トン、と何かが体にぶつかった。突然の衝撃に名前は「うひゃあ!?」と地面に倒れる。踏んだり蹴ったりだ。
「なんだ、こいつ」
「うぇ……」
その集団は、正しく異様であった。鳥のくちばしのような面で顔の大半を隠し、禍々しい気を纏わせている。そして、彼らから発せられる鉄っぽい匂い。この特徴的な香りに名前は自然と眉を真ん中に寄せた。
彼らは大通りから路地に身を潜ませようとしていたらしい。その時に丁度路地の入口にいた名前とぶつかってしまったのだ。
「ちっ……またか。汚ねえ」
名前とぶつかった男は、ごしごしと名前と触れた場所を一生懸命拭っていた。額から血が流れている。そこにはブツブツと蕁麻疹のようなものが浮きでていた。少し触れただけで、まるで病原菌かなにかに触れたかのような反応。あまり気分は良くないだろう。
「何見てんだ」
男と目が合う。その瞬間をなんと言葉に形容できるだろうか。まるで蛇に睨まれたカエル。名前は倒れたまま体を動かすことも出来ず、ただ呆然としていた。
「名前!!」
男の手が伸ばされる。スピナーは叫んだ。それと同時に体も動き出していた。彼女の目の前に大きく広げられた手のひらに、警鐘が鳴る。こいつはやばいやつだ。早く、早く逃げろ、と。
その時だ。プーーーッ!!と。車のクラクションが響きわたる。名前に伸ばされていた手が止まり、舌打ちが聞こえた。その後、ドオンと何かがぶつかる衝撃。遠いところにあった喧噪がどんどんと近づいてきているようであった。
どうやら車が歩道に乗り上げ、こちらに突撃してきたらしい。名前の左手にある建物に衝突したようで、やんややんやとその場は騒然とし始める。
「若頭!ここでは人の目につきます」
「どいつもこいつも……ッ」
「急いでこの場から離れましょう」
名前の目の前にまで迫っていた手は降ろされる。そして、彼らは風のように姿を消してしまった。
名前はそこで詰めていた息を吐き出す。ようやく現実に戻ってこられたかのような感覚だった。
「大丈夫か、名前」
「う、うん…」
「立てるか?」
「うん、ありがとう」
スピナーは名前に手を差し伸べる。名前はそれを手に取り、体を持ち上げた。名前の体は緊張のためか固くなっており、その肌の温度も冷たくなっていた。
「あの人、なんだったんだろ」
「あいつ、お前に何をしようとしてたんだ?」
「わかんない」
「なんかやばい雰囲気してたもんなあ。まあ何も無くてよかったけどよ」
「うん」
普通では無いからこそ、普通でないものが分かる。彼の目は、普通の人間としての温かみが見当たらなかった。名前を見下ろす、伸びた下まつげのついた目。まるで、そこら辺に生えた雑草を見るかのような冷めた目をしていた。思い出すだけでも、背筋が凍りかける。
「……関わらなくて正解かもな」
「へ?」
「荼毘、何か知ってるのか?」
荼毘はポツリと呟く。難しそうに眉間に皺を寄せ、先程まで彼らのいた場所を睨みつけていた。
「いや、とりあえず早くこの場を離れるぞ。人が集まってきている。見つかるのは不味い」
その言葉にハッと気づき、スピナーと名前はもうこちらに背中を向けて歩き出す荼毘を追いかける。
鼻をすんと鳴らす。まだ鼻腔には血の匂いのようなものが引っ付いているみたいで、なかなか離れなかった。嫌だなあ、と。大した意味をなさないが、名前は鼻の下をぐしぐしと拭った。