その痛みが教えてくれた
「苗字名前、1つ頼んでもいいでしょうか」
「うん。どうかしたの?黒霧さん」
部屋の隅っこで体育座りをしていると、黒霧に声をかけられた。名前は恐る恐ると黒霧がいるカウンターまで駆け寄る。
「これを届けて頂きたいのです」
「これ?」
黒霧の手にはお盆がある。その上には美味しそうなご飯が盛り付けられた皿が乗っていた。それを、ポンっと渡されて、名前は首を傾げる。食べてもいいってことだろうか。残飯処理?
「食べたらダメですよ」
「うっ」
美味しそうな目で見ていたのがバレたのだろうか。黒霧にしっかりと釘を刺された。
「私たちが渡しても食べてくれなさそうですからね。名前に持って行って欲しいんです」
「渡しにいく…?誰に?」
「爆豪勝己にです」
「えっ」
昨夜この敵連合が攫った雄英高校の生徒、爆豪勝己。今この部屋にはいないということは、別の部屋にいるのかもしれない。
彼は、ヒーローを目指す雄英高校の生徒だ。ムーンフィッシュと対峙した短い時間に触れた彼の性格を考えるに、敵に捕えられてじっとしているようなタイプではないと名前は思う。
だが、彼はまだ若い。なんせ子供だ。敵に攫われたという恐怖に怯えの気持ちが生じてもおかしくない。その心が折れかけていても不思議ではない。
名前は身勝手にも彼の心情を推し量り、そっと心を痛めた。そうする立場になど、名前にあるわけが無いと理解はしているのだけれど。
「別の部屋にいるの?」
「はい。拘束はしてますが、反発はします。噛みつかれないようご注意を」
「噛み付く!?」
「はい。決して拘束を解いてはいけませんよ。爆破されますので」
「爆破!?」
黒霧は幾つか爆弾を落として、そのまま名前に丸投げする。これ以上は何も言うことはありませんと、彼はグラスを磨き始めたので名前は肩を落としてそのお盆を運び始めた。
でも、丁度いいとも思っていた。今敵連合のメンバーと同じ空間にいるのは気まずいし、爆豪のことは心配だった。爆豪に声をかける権利なんてないと自覚はある。でも、気になって仕方ないのは事実で、少しでも心細くしているだろう彼の力になれたら、と名前は思ったのだ。
私は、一体どちらの立場にいるのだろう。
宙ぶらりんの心を持て余しながら、名前は爆豪のいる部屋へと向かった。
「ふざけんなクソが!!こっから出せや!!」
うわー。全然怯えてないし、心細くもしていないし、全く心も折れていない。
部屋に入った名前を迎えてくれたのは、ギラギラとした苛烈な赤い視線と、容赦のない罵詈雑言であった。元気そうで何よりだ。というより、元気が有り余りすぎているようにも見えるが。
しかしそんな彼、爆豪は黒霧の言葉通りしっかりときつく拘束されているようであった。椅子に括りつけられ、特に手は使えないように厳重に縛られている。
「あ!ご飯持ってきたから食べる?」
「あぁ!?これで俺を懐柔しようってか!?」
「かいじゅう?爆豪くんのこと、誰も怪獣にしようだなんて思ってないよ」
「意味がちげぇんだよ!アホ!!」
そう吠える爆豪はまさに手負いの獣のようだった。近づければ牙を向き、声をかければ刺々しい言葉をフルスイングで打ち返してくる。ビリビリとした空気。肌を刺すような警戒心。当たり前だ。なんていったって、ここは敵のアジトだ。一瞬の油断が命取りというのは、ヒーローの卵とはいえしっかりと心得ているらしい。
「昨日から何か食べた?」
「うっせえ!」
「これさ、美味しいよ。黒霧さんの作ってくれるご飯はね、なんでも美味しいの」
「そんなん絶対口にするか」
「でもさ、何も食べなかったら辛いよ」
「はぁ?じゃあ今すぐこれ外せや」
「うーん…」
正論といえば正論だ。ここで爆豪の拘束を解いて逃がしてあげることが正しい人間として、花丸満点の答えなのだろう。
名前は恐らく敵連合に信頼されている。でなければ、折角の人質である爆豪の元へ1人で送り出すなんてことしないと思うから。
それを裏切って、爆豪と共にここを抜け出す。容易ではないかもしれないが、できる可能性はある。名前もここから逃げて、普通の生活に戻る。そうすべきなのだろう。それは理解はしている。しているのだけれど、何故だろうか。名前は爆豪の拘束を勝手に解くことは躊躇われた。
「まあ、食べてから考えよっか!!」
「あぁ!?いらねえっつってんだろッ!!」
「まあまあ。イライラしてても何も始まらないって。ほら、あーんしてあげるからさ」
「話聞けや!!」
お盆に乗ったご飯を持って、ギャンギャンと吠える爆豪の元へ向かおうとする。しかし、名前はここで油断していた。すっかりと自身の不運体質を忘れていたのだ。名前は足がつんのめって、ベタンと顔面からずっこける。漫画のような見事な転けっぷりであった。
「いっだあ!!」
それと一緒に手に持っていたお盆も放り出された。ポーンと綺麗な放物線を描いたそれは、爆豪の目の前でぐしゃりと地面にぶちまけられたのだ。ピクリと爆豪は口元を引き攣らせる。
「ああ!ご飯がァ!?」
名前の悲痛を滲ませた叫びが虚しく響く。そんな彼女の額は地面に打ち付けられたからか、赤色に染まっていた。
「……上だけでも食べられないかな」
「ふざけんな」
「でも勿体ないし」
そう言って、転がったスプーンで地面に触れていない箇所を掬いあげ、名前はパクリと食べる。
「あ、美味しいよ!爆豪くんも食べる?」
「いらねえっつってんだろ」
「ええー」
すると、しゅんと名前は落ち込んだ。美味しいのになー、とブツブツと拗ねたように呟いている。そんな彼女の姿を見て、爆豪はため息をついた。
「てめェは、なんでこんなとこいんだよ」
「へ?」
「違ぇだろ。お前は、敵じゃねえ。お前は他のクソ共とはちげェ」
爆豪は名前に対して違和感を抱いていた。それは、敵連合が雄英高校の合宿に奇襲を仕掛けてきた昨夜、彼女が爆豪に助けを求めてきた時からだ。
彼女からは敵のような悪意が全く見えないのだ。他人と比べればポジティブ過ぎるところも見受けられるが、世間から外れた思考を持っているように感じられず、またそこから弾かれるような人種にも見えない。
爆豪から見た名前は、世間一般的な女性。ただそれだけであった。
「そ、それは……」
「脅されてんのか。弱み握られてんのか。それとも、騙されてんのか」
「それは!それだけは違う!!」
爆豪の言葉に先程まで戸惑っていた名前は、それだけは強く否定した。
ここにいること、敵連合にいることは、名前の意思だ。確かに名前の中で変な行き違いはあったが、それでも脅されたり、無理矢理ここに入れられたわけではない。ここまでの日々、名前は自分が好きでこのバーに何度も足を運ばせていたのだ。
「じゃあ、何だ」
「……分かんない。でも、良くないことをしてるのは、分かってる」
「だろうな。てめェだけは心底クソムカつく目で俺を見てくるからな」
「え?」
爆豪の嫌いな目。爆豪を心配するような目。爆豪を下に見た、目。大嫌いなあの幼馴染と似た、その目が気に入らない。爆豪は舌打ちを漏らす。
「さっさとこれを外せ。ついでだから助けてやる」
「え?」
「そのあとは俺がやる。誰か来たら速攻ぶっ叩いてこっから抜け出す」
「え、えぇぇぇ…」
「いいから黙って外せや!!てめェもいいことじゃねえって理解してんだろうが!!」
「そ、そうだけどさ…」
ふと黒霧の言葉が脳裏に過ぎる。"決して拘束を解いてはいけませんよ"、と。ここで、爆豪を解放したらどうなるのだろうか。
名前はそっと爆豪を縛る拘束具に触れた。
「あのさ、私、みんなに話してみようと思うんだけど」
「は?」
名前の思わぬ提案に爆豪は目を点にする。何言ってんだこいつ。そんな感情がありありと表に出ている。
「爆豪くんの拘束を外そうって話してみる!」
「何言ってんだてめェ」
「みんな話せば、わかってくれると思うんだよね……多分」
「んなわけねェだろ。夢見てんじゃねえぞ」
「よし!!じゃあ早速行ってくるね!!」
「話聞けって言ってんだろうが!!」
思い立ったが吉日。名前は元気よく立ち上がると、皆がいるバーへと足を進め始めた。背後から爆豪の焦ったような声が浴びせられるが、マイペースな名前の耳には届かない。
「おい!!」
名前が部屋の扉を開けようとドアノブに手を伸ばした時、その前に扉は開き名前の目の前にまで迫ってきた。
「えっ」
ゴンッ!!
鈍い音が響く。先程床にぶつけて負傷した額にまた衝撃が与えられた。ぐらりと視界が揺れる。
「いたい!!!!」
額を抑えて痛みに悶える。それに冷ややかな視線を向けるのは、爆豪以外にもう1人いた。
「何してんだお前」
それは、名前の額に2度目の衝撃を与えた犯人である荼毘だ。どうやら名前が扉を開ける前に彼が先に開けてしまったらしい。それが、はたまた運悪く名前にぶつかった。ただそれだけだ。いつもと変わらぬ不運の光景である。
「何だこれ」
名前の背後に視線を向けると、顰めた面を見せる爆豪と、床にぶちまけられた残飯達が見えた。それらを見て、荼毘は眉を顰める。面倒な仕事が増えたと頭が痛くなりそうだった。
「荼毘先輩!どうしたの?」
「遅ぇから見に行けって言われたんだよ。爆破されてんじゃねえかってな」
「爆豪くんはそんなことしないよ!」
「へえ」
荼毘の淡い青色の瞳が爆豪に向けられる。その視線を受け、爆豪は額から汗を流した。
「お前にはそうだろうな」
「ん?どういうこと?」
「さぁな」
荼毘はククッと喉を鳴らす。名前は何処か楽しげな荼毘を、不思議そうに見つめた。
「食わなかったのか」
「えっ!あ、その、えっと……落としちゃって」
「だろうな」
「でもでも、わざとじゃないよ!」
「言い訳は作り主にいえ」
「く、黒霧さんにかぁ…怒るかなあ…」
ブルブルと震える名前と、冷たくあしらいながらもちゃんと返事をしてくれる荼毘。いつもと変わらないやり取りだ。
名前が感じていた敵連合のメンバーとの間にできた距離。はたまたその間に存在する分厚い壁のようなもの。それらが、薄れたような気がした。
もしかしたら、大丈夫なのかもしれない。これまでの日々のように、いつも通り彼らと笑い合えるかもしれない。名前は荼毘との会話にそんな希望を見た。
だから、するりと躊躇なく、あの提案を口にしてしまったのだ。
「あ、ねえ、荼毘先輩!」
「なんだ」
「1つ提案なんだけど!!」
「あ?」
「爆豪くんの拘束って解いちゃダメかな?」
だが、その期待が間違えだったのだと、気づいたのはすぐのことであった。
「あれ、荼毘先輩……?」
名前の提案を聞いて、荼毘は何も言わなかった。ただ口を閉ざし、顔を俯かせる。名前は妙な引っ掛かりを感じながらも、彼に近づこうとした。
「やめろ!!近づくな!!」
「えっ」
爆豪から鋭い言葉を投げかけられ、名前はついそちらへと意識をやってしまった。その隙に、手を伸ばされる。
「残念だなあ、名前」
「あっ、ぐぅ……っ!?」
荼毘の継ぎ接ぎだらけの手は、名前の首を素早く掴んだ。容赦なく首を圧迫され、名前の口からは苦しげなうめき声が零れる。そんな彼女を、氷のように冷めた目がじいっと見つめていた。
「俺らとお前はやはり違うらしい」
「ひっ……ぐ、あぁっ…!!」
ゾッとするほどに冷たい声だった。明確な殺意と悪意。それを、一心に浴びせられる。
怖い。怖い。怖い。名前は目の前のいる男にただ恐怖した。
「やめろ!!離せ!!」
「あっ……づぃ……うぅ…っ!!」
爆豪の叫びは虚しく、名前の首を掴む荼毘の手から青色の炎が宿る。皮膚が、喉が、骨が、じりじりと焦げていく。熱い、痛い、苦しい、悲しい。ボロリ、と名前の目から涙が溢れた。
目の前にいる男は誰だ。こんな冷たい目をした男を、ビリッとした殺意を放つ男を、戸惑いなく他人を傷つける男を、名前は知らない。
攻撃的な敵に絡まれた時に助けてくれた彼は、風邪を引いた時に温めてくれた彼は、遊園地に連れていってくれた彼は、観覧車の中で優しげに目を細めて夕日を眺めていた彼は。いつも名前を助けてくれた、あの荼毘は。一体どこにいるのだろうか。名前の幻、あるいは夢だったのだろうか。
「いだぁ……ひっ…た、たすけ、……だびせん、ぱい……っぁ…」
名前はその幻想に縋り、助けを求める。名前の首を緩やかに締め上げ、死に誘おうとするその手をぎゅうっと掴んだ。名前はそうすること以外に、何も出来なかったのだ。
その時。爆豪は見た。
何の感情も宿さぬ青色の瞳が、小さく揺れ動いたのを。
「がっ、ゲホッ……ふ、はぁっ……」
それは突然だった。このまま彼の手で死んでしまうのだと、ぼうぼうと燃える青色の炎を目に焼き付け、それをそっと閉ざした時。
名前の首を掴んでいた手が、離された。
名前の身体は慌てて新鮮な空気を取り込もうとする。ひゅー、ひゅー、と口からは弱々しい息が零れた。身を屈めながら、過呼吸のように空気を入れこんでは吐く。それをただ繰り返した。
「次は殺す」
無機質な声がポツリと部屋に落とされた。名前が顔をあげれば、荼毘はこちらに背を向け部屋を出ていこうとしていた。完全な拒絶。彼と名前を繋いでいた不安定な架け橋がようやく崩れた。それが、この目に映ったのだ。
嫌だ。嫌だよ、荼毘先輩。
その背中に手を伸ばす。名前を呼ぶ。しかし、声は出ず、意味の無い息が漏れ出るだけであった。
「……生きてっかよ」
「……」
「お前の言葉が、あいつらに届くわけねえだろうが。自惚れんな、クソが」
爆豪の言葉が、荼毘の殺意と拒絶が、名前の胸を突き刺し、確かな痛みをもたらす。
ぐらり、ぐらり。名前の立ち位置が崩れ落ちていく。思考は真っ暗に染まった。