1
誰かがそれは麻薬のようだと言った。甘くじわじわと気付かぬうちに苦しめる。嫌なことから逃れようと必死にあがく。人はそれを現実逃避だという。けれども、逃げなくてはならないときもある。
大勢の人の中でひしめき、苦渋を強いられる。そのときに蜘蛛の糸のように細い藁が差し出されて、それに縋れる人間はいくらいるだろうか。這い上がろうと必死になる中で、また黒い海へと落ちる恐怖と絶望を味わうのではないかということを危惧する人間は、よほど冷静沈着なのか意地っ張り、あるいは―――。
「ひさしぶり、耀くん。」
そう言って、彼女は目の前の席へと腰を下ろした。耀秋とは小学校から高校まで一緒だった同級生で、初恋の相手だ。いや、実を言えば今でも好きなのだが。
そんな彼女を耀秋は呼び出した。穏やかに晴れて、桜が満開な三月の末のことだった。
小洒落た今風のカフェは開放感があって、少しでかけてのんびりと世間話をするには丁度いい。キャラメル色の床や壁に、シンプルな白の丸テーブル、頭上でくるくると回る天井扇がゆったりとした空間を演出していた。
「美代ちゃん、ひさしぶり。急にごめんね」
眉を下げて申し訳なさそうに謝る耀秋に、美代は微苦笑を零した。
「いいの、どうせ暇だったし。それより用って何?葉子からいきなり電話がきて、耀くんと会ってくれないかって言われるんだもの。ちょっとびっくりしちゃった。」
そうおどけて明るく笑う。彼女のその屈託のない笑みが堪らなく好きだった。久し振りに見たそれはちっとも変わってはいない。辛いことはおくびにもださない。朗らかで、それでいて仮面のような笑い方だった。
ふと、昔のことが思い出された。
小学校のときに彼女の教科書がなくなったことがあった。今思えば、あれは幼心のちょっとした悪戯だったのだろう。当時、美代が好きだった男子が悪戯で教科書を隠したのだ。耀秋はなんとも言えない顔をして何かを探す彼女に声をかけた。
『どうしたの』
『耀秋くん…。あのね、教科書がないの。さっきの休み時間まで確かにあったのに』
『探すの手伝おうか?』
『ううん、大丈夫。誰か他のクラスの子が勝手に借りちゃったんだと思う。明日返ってこなかったら先生に言ってみる』
ありがとう、彼女はそう言って笑った。
その時だって探しているだろう最中は泣きそうな顔をして探していたのに、耀秋に向けられた表情はそんな風を一切見せなかった。
まるでその時のようだ、と思った。ことの深刻さが違えど、彼女自身は変わらず優しい。それはもう残酷なほどに。
「美代ちゃん、いま付き合ってる彼氏がいるんだよね?俺なんかと一緒にいて大丈夫?」
自分が確認のためにわざと言っているのだと見抜かれたくなくて、誤魔化すようにコーヒーの入ったマグを口へと運んだ。
美代は一瞬、どこか迷ったような不安に駆られたような、心底寂しげな表情をした。それから何もなかったかのように、先ほどと同じ微苦笑をたたえた。
「大丈夫だよ。もう付き合いも長いし」
「彼氏にはちゃんと言ってきたんだよね?あとで勘違いされて、二人が破局とかやだよ、俺」
冗談のように笑いとばしつつ尋ねた。本心としては、あんなヤツなんか放っておいて、自分と付き合えばいいのに。そんなどす黒い感情が支配していた。けれど、彼氏のことについて何もない風を装う彼女の健気さに自分が何か疚しいことをしているような気がして嫌気がさした。
そんな内心が表に出てしまったのか、美代が不安そうに耀秋を窺い見た。彼女の瞳の奥に疑心が浮かんでいるのを見とって、耀秋はそれを払拭しようと笑顔を努めた。
「そっか、良かった。それより何か頼む?ここのケーキ美味しいんだよ」
「ほんと?私、ケーキとか甘いものに目がないからなあ。耀くん、おすすめってどれ?」
「ザッハ・トルテかな。俺はここのが一番好きだな。まあ、ここのケーキはどれも美味しいから。どれを頼んでも間違いはないよ」
俺の舌を信じろよ、とふざけてウィンクをする。えー、と声をあげつつも彼女はメニュー表に目を落としていた。
▼ ◎