「――それからいろいろあった。仲間はみんないなくなってしまって、結果として彼女の元に残ったのは僕だけだった。それから程なくして、主が時間遡行軍に入ることを決意した。だから僕も覚悟を決めて彼女についてきたんだよ」
 「それが僕がここへやってきた理由さ。ずっと一緒にいるっていう約束だったからね」と歌仙兼定は私に笑いかけた。笑いたくて笑っているようなのに、どうしてかどことなく疲れがみえる微笑みだった。
「でもやっぱり僕にはここがどうにも合わないみたいでね」
 彼が情けなさそうに苦笑する。
 そりゃそうだろう。ここには雅さなんて欠片もないし、衛生なんて観念はまるで存在していない。書を親しむための場もなければ歌を詠む場もなく、きっとそんな暇もない。花だってここの穢れた空気に耐え切れなかったのか咲いていないし。こんな場所で何をどう愛でるというのだろうか。歌仙兼定という存在の性質からして精神的にも肉体的にも時間遡行軍という場所は窮屈で退屈で苦痛しかもたらさないであろうことは容易に想像できる。こんな場所に彼を連れてきたらどうなるかなんてわかりきっているのに、と私は彼の主人の神経を疑った。もちろんそのことは彼も承知の上だろうから面と向かって伝えることはしなかったが。
「あなたの主様は今どこにいらっしゃるのですか」
「昇格してからは知らないな。おそらく今頃はここの幹部的な立ち位置にいるんじゃないかと思うんだが……。残念ながら僕はその日から彼女に会っていないんだよ。仮定形でしか話せなくてすまないね」
「いいえいいえ。お気になさらないでください。お話を聞く限りだととても優秀な御方なんですね」
 そう言ってから私は一口お茶を含んだ。じんわりと広がった苦味が口内を満たし喉を通っていく。今日はいつもの高級茶葉ではなくお抹茶だ。目の前に座る彼のためなんかじゃない。これはたまたまの偶然である。
「君はお茶を点てるのが上手なんだね」
「いえ、とんでもないです」
 私は滅相もない褒め言葉を笑って右から左へと受け流し、内心では早く帰って欲しいなぁなどといつも通りだいぶ失礼なことを考えていた。申し訳ないがこれも仕方のない心情だと思う。だってもうとっくの前に終業時間は過ぎているのだから。なんだってここへやってくる人たちはみんながみんな自分勝手なんだろう。張り紙にもきちんと診療時間を書いているのにな。誰も守っちゃくれない。
「謙虚なんだね。慎み深いのはいいことだ」
「謙遜しているわけじゃありませんよ。あなたに褒められるほどの腕前ではないと本気で思っているんです」
 そう言うと彼は「そうかい?」と首を傾げる。
「君のお点前はなかなかのものだと思うけれど。いつの時代からきたのかわからないが、きっと現代の若者なんだろう? 点て方を知っているだけでも珍しいのにここまでだなんて脱帽するよ。誇ってもいい」
「……根気強く教えてくれた人がいたので。べつに頼んではいなかったんですけど、僕の主ならこれくらいやってもらわないとだとか言って口うるさくて」
「そうか。その人はきっと君が大切だったんだろうな」
「そうでしょうね。とても大事にしてくれましたよ」
 それはいい、と彼は頷いて言った。ほんの少しだけ羨ましげに呟かれたその声を私はあえて聞こえないふりをしてやり過ごした。
「…………僕は未だにずっと考えていることがあるんだよ」
「今の自分について、でしょう。今の自分は本当に正しいのか。主様が時間遡行軍の一員になると言ったときに本当は止めておくべきだったんじゃないのかについて悩んでいるんじゃないですか」
 その瞳と私の視線がぶつかった。
 こちらに来てからまだ間もないからか彼は然程変質していない。だから彼のことは知っていた。彼が私の元を訪れる前から一方的にではあるが、私はたしかに彼の存在について知覚していた。――だから、本当なら会いたくなかった。
 彼はふうと息を吐いて目蓋を閉じる。その仕草はとても穏やかだった。見慣れた何かを思い出して私の胸が痛む。
「よくわかるものだ。多くの刀たちと話してきたからかい」
「そんなことなくてもわかりますよ、あなたのことくらい。簡単なことです」
「そうか。そういえば君は以前審神者だったね」
 時計が鳴った。ぽんぽんと、正直この場の空気に最も合わない音で。
 「もうこんな時間か」と彼は湯呑みをこちらへ渡した。
「君はここにきたことを一度でも後悔したことはあるかい? 僕の主は後悔したんだろうか」
 「さあ、あなたの主様のことはよくわかりませんけど」と私は吐き出した。
「少なくとも私は今まで一度も後悔したことはありませんよ。いつだって自分の選択に矜持をもって生きていますから」
「それはいい。彼女も、そうだといいな」
 ごちそうさま、と彼は席をたった。終始所作の綺麗な刀だ。
「生きて会えたら、いつかまた」
「さようなら」
 彼は廊下に出て、こちらに一礼した。後ろ姿が遠ざかっていく。
 どこにも変わったところはなかった。少々疲れているとしても精神は正常で話していておかしいところは何もなかった。だからこそ、彼はおかしかった。
 私の返答はきっと彼を救えなかったはずだ。彼が私の答えに納得しなかったのは一目瞭然だった。だからこれからも彼は過去の自分の選択について悩み続けることになるだろう。主への忠誠と自身の良心の呵責との板挟みになって。
「そう思うのならここにきてからでもすぐに止めてあげればよかったんですよ。あなたの言葉はまだ彼女に届いたんですから」
 本当はそう言うつもりだった。だけど言えなかった。この言葉は彼に現実を突きつけて傷つけるだけだったから。
 だって、もう全部が手遅れなのだ。彼女はもう遠いところにいるんだから。ついてきて欲しいと、一緒にいてほしいと、いつか彼に真摯に願った彼女は、苛まれ続ける彼を置き去りにしてとっくの前に遠くへ行ってしまったんだから。
 たとえどれだけ今の彼があの日の選択の正誤とやらに取り憑かれたってもう意味なんかない。それこそ海のように深く悩んだとしても。手の届かないところへ行ってしまった彼女をもはやどうすることもできないだろう。彼の声は、きっともう届きはしまい。
 後悔先に立たずとはまさしくこのことである。

歌仙兼定の話

2021/07/12

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