散歩からはじまるはなし


 私のクラスには学年を問わず人気があるルフィくんがいる。だから毎日お祭りみたいににぎやかだけれど、昼休みにもなるとそれはさらに一段加速する。そこから抜け出して、腹ペコ達でにぎわう購買とは逆方向、人混みを避けて別棟にある自動販売機へ向かっていた。
 無駄に広い学校の別棟だ。放課後は部活で人の往来は増えるけれど、この時間はほとんど誰も寄り付かない。いても文化部の人達がたまに通る程度。そしてそこにだけ置いてある乳酸菌飲料がお気に入りなのだ。似たものはほかの自販機にだってある。少しだけさっぱりとした、みんなからすると物足りない味、それが私の好みなのだ。わざわざ時間をかけてまで飲むなんて物好きだといわれるけれど、味覚なんて人それぞれだし、この棟独特の雰囲気というか、過去の卒業生達の制作物や華道部や書道部の展示を眺めるのも好きだった。
 その道中。何かが陽の光に照らされてきらりと光ったように見えた。引き寄せられるように近づいた。しゃがみ込む前にわかったけれど、それはただの小さなノート、生徒手帳だった。
 もしかしたら持ち主が探しにくるかもしれないし、周りには誰もいなかったからそのままにしてもいいかな、とも考えた。けれどどうしてか、手帳に拾ってくれと言われているような気になった。まぁ、一応。そう思って拾い上げてすぐに、やけに輝いて見えた理由がわかった。開いてまず証明写真と目が合った。眠かったのか、タイミングが悪かったのか、ずいぶん目つきが悪く見える。2年、ポートガス・D・エース。ルフィくんのお兄さん分でルフィくんにも負けず劣らずの人気者、あの太陽みたいに眩しくて、実は密かに憧れている人のものだった。
 扱いが雑なのだろう。2年目にしてかなりくたびれている。別棟にいるイメージは浮かばないけれど、生徒会をしているエース先輩なら用事で来ることもあるのかもしれない。
 どうしよう。落とし物を届けるという口実で先輩に近づけるかもしれない。けれどマンガや小説の主人公のような大胆さや勇気は、残念ながら持ち合わせていない。
 ざわり、人の気配がして慌ててエース先輩の生徒手帳をブレザーのポケットにしまい込んでしまった。落ち着こう、まだ戻せる。戻すのなら今だ。掲示板なんかを見ているふりをして立ち止まったまま、人が通り過ぎるのを待つ。
 あぁ、もし今このタイミングでエース先輩が手帳を探しに来たら、どうしたらいいのだろう。それをきっかけに顔だけでも覚えてもらおうか。その前に悪用しようとしたとか、売ろうとしたとか変な疑いをかけられたら、どうしよう。そう思うとポケットの中の手帳が、やけに熱を持っているようだった。私を惑わせ、冷静さを奪っていく。そんな不思議な力があるような気さえした。
 落ち着け私。本来の目的である自動販売機まで走って、いつものようにカードをかざして飲み物を買う。それを飲みながら教室へ戻る。いつもどおりにすればきっと一番いい答えを導き出せるはず。
「あ」
 そうだ。ルフィくんはエース先輩と一緒に住んでいるはず。だったらルフィくん経由で渡してもらえばいい。本来床にあるべきではない物を今さら床に戻すのも人間としてどうかと思うし、それが一番角が立たない平和な案、だろう。あとはそれをルフィくんに依頼するタイミングだ。
 いつ、どうやって話しかければ不自然ではないかのシミュレーションを脳内で繰り返しながら、またいつものにぎやかな世界へと戻るために歩を進めた。



「おれ、ゾロ達とトクモリ四郎に行くんだよ、だから悪ィけど渡しておいてくれよ」
「えっ、あ、いやその」
「エースなら今日は生徒会室にいるだろうから! 頼んだぞ!」
 想定外の返答だった。待って、ルフィくんは家でエース先輩に会うよね、それが一番確実だよ。そう反論する前に彼はあっという間に教室から消え去ってしまった。伸ばしたままの右手にスポットライトのように西日が当たっていて、プランが崩壊した悲しさというか、虚しさのようなものが増長した。
 昼休みのうちに渡しておけばよかったと思っても後の祭り。結局言いだせなくて放課後まで持っていたなんて、ルフィくんだから何も言われなかったけれど考えれば考えるほど気持ちが悪い人だ。こうなってしまった今、私にできることは一刻も早くエース先輩本人に返すこと。
 一度だけ、友達の用事の付き添いで生徒会室に行ったことがある。けれどやはり縁がなさすぎて近寄りがたい。それに。私は今からエース先輩に直接話しかけに行くのだ。心臓が今にも爆散しそうなほどに暴れている。
 あぁ、帰りたくなってきた。生徒会室とでかでかと書かれたドアの前で、いくつものどうしようが浮かんでは転がり落ちていく。正解がわからない。
「おい、ここに何か用か?」
「へぁっ!?」
 突然背後から話しかけられて、驚きのあまり声が裏返ってしまった。いや、突然ではあるけれど、私は今ドアを塞ぐような格好だ。これは立ち止まっていた私が悪い。それよりも、だ。聞こえてきた声はどう考えても今期からの新副会長、つまりエース先輩である。
 ここまでを脳内で考えるのは早かった。けれど、冷静なわけではない。混乱している。私は慌てて振り向いて先輩の顔を見る前に猛スピードで頭を下げた。
「すみません、決して怪しい者ではなく、先輩の落とし物を届けに!!」
「おれの落とし物?」
「るっ、ルフィくんが、先輩はここにいるだろうって」
 危ない、ルフィくんという人物を挟むと挟まないとでは与える印象が大違いだろう。本当はルフィくんに頼らなくたってエース先輩とうまく話せたらいいのに。そう思いながら落書きだらけの先輩の上履きをじっと眺めて反応を待つ。顔を見ていなくても、こうして向かい合っているだけで溶けて消えてしまいそうだ。私にとっての太陽、だから。
 入学してすぐ、先生から雑用を頼まれて視聴覚室へ行こうとした私は無駄に広い校舎内で迷子になった。そんな私に声をかけてくれて、目的地まで案内してくれたのがエース先輩だった。話しかけられた瞬間はちょっと怖くてどうしようかと思ったけれど、事情を話すと「この学校クソみてェに広いからな」と、にぃと歯を見せながら笑った顔が頭から離れなくなって、目で追う日々が始まった。
 クラスメイトのルフィくんとは仲がいいから教室にやってくることもよくあった。私は本や友達とのおしゃべりに夢中なそぶりをしながら、そっとそれを嬉しく思っていた。つい最近あった選挙でサボ先輩に推薦されて二年生ながら生徒会入りしたエース先輩は、ますます人気に拍車がかかって、より遠い存在になってしまった。でも、それでいい。登校するだけで元気に笑う姿が見れるんだから。そう言い聞かせていた。
 慌てて差し出した生徒手帳が持ち主へと渡った。よかった、これでお昼からのこの途方もない緊張というか、後ろめたさにも似た気持ちからは解放される。直接話せたことも、いい思い出になる。
「マジか! 気づいたらなくなっちまって、再発行しねェとって思ってたところなんだよ……わざわざありがとうな」
 エース先輩による感謝の言葉を浴びた私の中身はじゅっ、と音を立てて消滅した。もう何も思い残すことはないかもしれない。私の方が感謝したいくらいだ。今顔を上げればきっと、いつもみたいなキラキラとした笑顔をしているに違いない。見ないのはもったいないけれど、こんな至近距離で食らってしまったらいよいよ私の命が危ない。
「そうだ、さっきクッキーとせんべいもらったんだ、一緒に食ってけよ」
「へっ? え?」
 クッキーとおせんべいを、私も食べる? 反射的に顔を上げてしまって後悔した。やっぱり眩しくて、胸の中でむくむくと風船が膨らんでパンパンになってしまった。そのせいでうまく言葉が出てこない。
「ほら、入った入った」
 エース先輩が私の体をくるりとドアのほうへ向け、中へ押し込む。何が起きているのだろう。オーバーヒートしている間に私は半強制的に生徒会室へと足を踏み入れていた。どうにか正気を取り戻して部屋を見渡す。話し合いをするための配置になった机と椅子。過去の資料だろうか、棚にはみっちりと本や冊子が並んでいる。
 カチコチのロボットのような動きで、私は案内されるがままに椅子に腰かけた。ビニール袋から続々とお菓子が出てきて、机の上に広げられる。どうしよう、私のことなんか覚えているわけないのに、ただ落とし物を届けただけでこんな待遇を受けていいのだろうか。それよりも、生徒会室でお茶会、もとい量が多すぎてもはやお菓子パーティーをしてもいいのだろうか。
「本当に助かったんだ。届けてくれた礼だと思って食ってくれ。それにしてもどこでそれを?」
「は、はい。手帳、は、べっ、別棟の方で……」
「なるほど、あっちで落としちまったのか。それにしても、ずいぶんカチコチだな! いつもみたいによォ」
 エース先輩はドカッと反対側の椅子に座り、大きな音を立てておせんべいにかぶりついたところで急に動きを止めた。ドアの方を見たり、窓の方を向いたりと落ち着かない様子だ。さっきまで挙動不審なのは私のほうだったのに。私はクッキーを手に持ったままそんな先輩を見ていた。
「い、いつも?」
「いや、あー。いつもってのは、その。別に」
「その、それにしても、本当にいいんですか? 知り合いでもない部外者が……お邪魔してしまって」
「いいんだ。ルフィのクラスメートだろ?」
「はい」
「あいつ……いや、まさかそこまで考えてねェよなァ……」
 これは私に話しかけているわけではなさそうだ。それにしても、私はエース先輩にルフィくんと同じクラスだと認知されていたのか。違う、何を思い上がっているのだ。さっき自分でルフィくんに頼まれたのだと、実質同じクラス、または知り合いだと自己紹介したではないか。
「それに、もしかしたら忘れちまってるかもしれねェが、話したことあるんだぜ? おれ達」
 ぽろりと手元のクッキーを机に落としてしまった。まさか、先輩もあの時のことを覚えてくれていたなんて。どうしよう。嬉しさが一気に弾けて、しぼんだ風船のように急に体中から力が抜けてしまったような感覚だ。迷子の新入生を案内してくれた。たったそれだけ。でも、私にとっては大切な思い出だったから。
「わ、私も、覚えてます。入学してすぐ、先輩が視聴覚室まで案内してくれたこと」
「な、ま……マジか? おれが教室に行っても挨拶どころか目も合わなかったじゃねェか」
「そ、それは……」
 先輩は私なんかが話しかけていいような人ではない。キラキラしている先輩はキラキラした人達に囲まれてこそ、エネルギッシュに見える。今こうしているのだって、本当にただ落とし物を届けるためだけに来て、お礼を受けるためだけだから。そう言ったらどう思われるだろうか。
「その……世界が、違うっていうか」
「そりゃァどういう意味だ?」
 エース先輩の声が低くなったように思える。顔を下げたまま、上げるのが怖い。間違えたかもしれない。けれど。変に希望をもって生きるよりもここで終わってしまったほうがいいのかもしれない。
「先輩は……その、眩しすぎるんです。たくさんの人に囲まれて、太陽、みたいな人だから」
「それならあんたは、えーと」
「……」
「葉っぱ……いや、木? 木陰……?」
「な、なるほど?」
「ち、違う! 変な意味じゃねェぞ! 別にいいって断ったのに必死にお礼を考えてポケットから飴を出して『こんな物しかないんですけど』って恥ずかしそうに笑ったろ? その笑顔になんだかホッとしたんだ。あの日。それで、ルフィと同じクラスだって分かって、用事がなくたって顔だしたりして。なのに」
「そ……!! そんな、誰かと間違えてませんか!?」
「絶対に間違えねェ」
「でも、それなら話しかけてくれたらよかったじゃないですか」
「そりゃ……おれだって、できるならそうしたかった」
「理由が、あったんですか?」
「なんつーか。おれの周りはちょっとばかし騒がしすぎるだろ。色々と巻き込むことになってもと思ったんだが……そうだよな、これじゃお互い様だ。かっこ悪ィな」
 真剣な表情から一変してふぅ、と息を吐いたエース先輩は口の中いっぱいにおせんべいを頬張って、ぼりぼりと租借する。ごくり、それを飲み込んでから先輩は一瞬何か考え込むように机に突っ伏したけれど、すぐにむくりと体を起こした。
「っと、危ねェ……大事なときに」
「えっと、その。つまり、間違えてたらすみません。お互いに考えすぎてあの日以降声をかけることはなかった、ということでしょうか」
「そういうことだ!」
 がはは、笑いながらお茶のペットボトルのキャップを開けると豪快に流し入れる。エース先輩が飲食する姿をこんなに近くでまじまじと見るのは初めてだから、何だか圧倒されてしまった。
「先輩って、すごく美味しそうに食べたり飲んだりするんですね」
「実際に美味いからな!!」
「ふふ、食べかすついてます」
 そっち、と右頬あたりを指さすと、エース先輩は私が伸ばしたその人差し指をがっしりと掴んだ。抜こうにもそれなりに力がこもっていて私にはどうすることもできない。全神経が指先に集まっていく。
「だが。今日、何の因果かこうしておれがあんな人けのねェ場所で無くしちまった生徒手帳を持っておれの前に現れたってことは、どの道おれの人生に巻き込まれる運命だったってわけだ」
「え、そっ、そそそ、その、人生とか、運命って……なんだか少し、大げさすぎませんか?」
「ルフィのことだからなァ。自分が受け取って家で渡すとか、そういうことまで考えなかったんだろ。それに、わざわざこうして直接渡さなくても職員室とか事務室に届けたってよかったんだ」
「あっ……!!」
 そうだ、その手があったのだ。直接届けなくたってよかったのに、頭がパンパンすぎて拾得物として届けるという考えがすっかり抜け落ちていた。
「……えっと、その」
「そろそろサボのヤツらが来ちまうな。とりあえず」
 そう言ってエース先輩は反対の手でポケットからスマートフォンを取り出す。まだ掴まれたままの指は今にも発火しそうなほどに、熱い。
「まずは生徒会の手伝い、から始めるのはどうだ?」
 先輩はじっとこちらを見ながら、確か部活には入ってなかったよな? と付け足した。生徒会のお手伝いから始めるというのは、私とエース先輩の関係性、ということだろうか。それなら、主な活動は放課後だから普段より人の目は少ないだろうし……正直、今となっては何だっていい。キラキラに飛び込むのはやっぱり怖いけれど、人を避けたお昼休みの散歩によって一世一代のチャンスが与えられたのだ。逃すなんてこと、絶対にしてはいけない。そう感じる。
「は、はい。あの……私でよければ」
「っつしゃ〜〜〜!!」
「なんだエース、ずいぶん騒がしいな」
 指から離れたエース先輩の手がそのまま宙に突き上げられたところでガラリと大きな音を立ててドアが開いて、サボ先輩とコアラ先輩、ロビン先輩も入ってきた。大変だ、この学校では人気の生徒会役員が続々と……あまりの眩しさで目が潰れてしまいそうだ。
「手伝い! 決まったぞ!」
「手伝い? 何に必要だったかしら。それにしても、喜び方が手伝いが決まったソレじゃないわね」
「ちょっとキミ、顔が真っ赤だよ! もしかして何かされた? 大丈夫?」

 私のクラスや名前、生年月日などの情報をしっかりと知っている先輩達に暖かく迎え入れ、時々生徒会のお手伝いをさせてもらうことが正式に決定した。姿勢を正して、このまぶしい光の中でちょっとだけもがいてみようと思う。今日はその第一歩を踏み出した記念すべき日。
 エース先輩がメッセージアプリの友達一覧にいるという奇跡、喜びを噛みしめながら、あらためて「よろしくお願いします」と声を張った。お辞儀をして頭を上げた視線の先には、薄っすらと目を細めて微笑んでいるエース先輩の姿があって……これまでで一番の眩しさに今にも倒れてしまいそうになった。けれど、そう、エース先輩の言うとおり私は木だ、青々と茂る大木になるのだと言い聞かせて、どうにか踏ん張ったけれど、心臓はしっかり鍛えておかないと身が持たないかもしれない。帰ってすぐに姉の少女マンガをごっそりと借りることに決めた。

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