21


 今日も私は仕事に精を出す。店内にはトムズの5年ぶりの新譜が流れていて、来日の時を想像しながらリズムよく入荷した商品を店頭に並べるための準備をしていた。けれど油断するとふわりと意識が飛びかける。睡魔、だ。トムズのデビュー当時を思わせる尖ったギターソロも今の眠気の前では子守唄だ。危うく旅立ちそうだった私の意識を引き止めたのはバルトロメオくんの声だった。

「先輩、ユメ先輩!!」
「っわ! はい! 何でしょうかロメオくん!」
「どしたんすか、ボーっとしちまって、今日は寝不足っすか?」
「いやー、今日は早朝があったのに寝坊しちゃいましてね」
「ユメ先輩が寝坊なんて、めんずらしいこともあるもんだべさ!」

 大量のハンガーをラックにかけながらロメオくんが呟く。彼は他のスタッフよりミスが少し多いけれど、基本的にはしっかりと業務に取り組んでくれるのでミスさえなければ一日の仕事の進みは速い。

「ところでロメオくん、そろそろその先輩呼びやめません?」
「いやァ、先輩はバンドマンの先輩だっぺ! トラファルガー先輩もやってんだべ? おれもやってみてェと思ってんだァ!」
「いやいや、私はまだまだひよっこでして……ローさんのバンドは素晴らしいですけど!」
「あ〜、早く先輩のライブさ行ってみてェなァ」

 目をキラキラと輝かせながらそう話す後輩。音楽への、ローさんへの熱量がまるで自分自身を見ているようで少しだけ恥ずかしい。私が勝手にHeartの音源を、バンドをしたいというロメオくんに聞かせたところクリティカルヒットしたらしい。それ以来ここBWにはHeratファンが2人いるのである。
 そして勤務の時間帯が一緒の私達。私はライブの日には当たり前のように休みを取ってしまうので少し申し訳なく思っている。

「ローさんのライブの日はローさんはもちろん、私も休み取っちゃうし……タイミング悪く大体サボさんも出れない日だったりして」
「店休日にさえかぶれば行けるんだけっど」
「あ、そういえばバーベキュー、次の店休日でしたっけ?」
「んだべ! ロビンさんも社長も来るっで!」
「わ、社長も来るんですね、なかなか規模が大きくなりそうな……」
「おれの学校の尊敬する大先輩も呼んだんだ、ユメ先輩もバンド仲間さんとか呼んだらいいべ」

 店休日に派手にバーベキュー大会をしたいという話をしたのが確か2週間ほど前。ロビンさんがすぐに会場を手配してくれて、その大会も間近に迫っていた。それにしても……この様子だと芋づる式に人数が増えそうだ。賑やかなのはいいことだ。収拾がつかなくなりそうだけれど、きっとその分楽しいに違いない。
 バーべキューの具材、何がいいかな。みんなでビールを飲みながら食べる焼きたてのお肉、絶対に美味しいよなぁ、じゅう、と音を立てて焼けていく肉を想像しながら、ロビンさんが仕入れてきた素敵な服達をハンガーにかけていく。

「そうだ、来月知り合いのバンドの企画に出ることになって、ローさんのバンドも出るんですけど今度こそロメオくん来ます?」
「なァんだってェ!! そんな一大イベント行かねェわけあんめェ! サボさんには悪いけんど、休み取っぺよ〜!!」

 今朝のバイトでマルコさんにも企画の話をしたら「そりゃァ見に行くしかないよい」とのことで、予定を空けてくれるそうだ。そうか、エースくんなんかはワイワイするのが好きそうだし、バーベキューも声をかけてみようかな。

「いやァ、楽しみが増えたべ〜」
「そうですね、私も楽しみです」
「そういえば! ユメ先輩は彼氏さんとかいないんすか?」

 ドキリとしてハンガーを手から滑らせそうになった。手のひらが妙にじっとりとしている。急にどうしてその話題に? 心臓が飛び出そうになったけれど、どうにか呼吸を整えて聞き返す。

「そ、そういうロメオくんはどうなのかなぁ?」
「おれはまだまだ、一人前の男を名乗るには早ェっぺ!」
「……な、なるほど」

 なんだかうまいこと切り返されてしまった。何と答えるべきか。そういえば私はローさんとお付き合いを……ローさんが私の、彼氏、なんだ。あらためて再認識してしまった。顔がみるみる熱くなっていくのがわかる。これは隠しきれていない。その証拠に目の前のロメオくんはにんまりと目じりを下げて何やら満足気に微笑んでいる。

「そうなんすね! やっぱり先輩には素敵な彼氏さんがいるんだべ!」
「あ、えっと……はい」
「くぅ〜〜!! そうだ! ぜひともバーベキューに連れて来てくんろ!」

 うん。私がわざわざ連れて行かなくてもその人物はバーベキューに顔を出すと思います。とは言えないので、ひとまずここはふんわりと話を合わせておこう。

「他にも連れてくる人がいるなら考えなくもないですけど……」
「おれの大先輩がえらいベッピンさん連れて来るんっす! ってよりは、ベッピンさんがどこにでもついて来るって言ったほうが合ってんなァ」
「ほ、ほう……いるんですね」

 どこにでもついてくるなんて、それはずいぶん愛されて……愛され……もしかして、もしかしなくても浮気防止だったりするのだろうか。そんな思考をぐるぐると展開させていると「楽しくなっぺ!!」とロメオくんのボルテージがグッと上昇したようだった。

「あと、サボさんも彼女さ連れて来るってな!」
「え、サボさんの彼女!?」
「んだ、本人が言ってたんだから間違いねェべ!」

 今までそんな話を聞いたことはなかった。もしかしたら最近できたのかもしれない。どちらにせよサボさんの彼女さんに会うことができるのは楽しみだ。きっとお洒落でかわいらしい……いや、キレイ系のお姉さんかもしれない。想像はむくむくと膨らむばかりだ。

「このバーベキュー、一体何人集まるんですかね」
「買出しさ気合い入れねェと!」

 バーベキューの規模の話にスライドさせて、どうにかロメオくんからの追撃をかわすことに成功した。ローさんに、職場の人達に言うなと言われた訳ではないけれど、一人に知られたら瞬く間に広まって大騒ぎになりそうだし、何より私の心の準備ができていない。「ローさんと付き合ってるんですか!?」と聞かれても上手く返事ができない気がする。まだ私自身も信じられないようなふわふわした気持ちでいるから――だからまだ、もうしばらくは内緒ということに、心に秘めておきたいのだ。



 それから毎日慌ただしく仕事に、練習に追われあっという間に店休日、バーベキュー大会の前日を迎えていた。ここまでBWの誰からも何も、私とローさんの関係性を突っ込まれることはなかった。私としてはうまくやれたと思う、というよりはバタバタしていて、今までとほとんど変わらなかったから、と言ったほうが正しいかもしれない。

「ふぅ……終わった〜! 今日も1日お疲れ様です」
「あァ。お疲れ」
「明日はバーベキューですし、さくさく帰りましょう!」
「そうだな」

 ローさんと付き合うことになってから、実は仕事中の会話を少し控えてみようかな、と思ったりもした。けれど、あれだけ話をしていたのに距離を置こうとするとどうしても不自然になってしまって、逆に怪しまれそうだという結論にいたったのでスッパリと諦めていた。

「……それで、そのバーベキューなんだが」
「え、あ、もしかして行かないとかです?」

 いつもの帰り道。急に立ち止まったローさん。何やら神妙な面持ちだ。今日までローさんがバーベキューについて話すことはほとんどなかった。かなり大規模なものになりそうなので、知らない人も多い集まりにはあまり参加したくないのかもしれない。一度視線をどこかへ外したローさんは煮え切らないような雰囲気で頭をわしゃわしゃと掻きながら、再び歩き始めた。私も返事を待ちつつローさんに続く。

「あれだ、明日の集合時間、どういう訳か朝早いだろう?」
「はい、みんな張り切ってますからね!」
「どうせまた朝早く迎えに行くんなら、このままお前の家にだな……」
「家に?」
「あれだ……泊まっても、いいか?」

 ローさんの歩く速度がほんの少しだけ上がった気がした。このまま家に泊まりたい――今までのローさんなら、スパっと行きたいと、泊まると伝えてきそうなのに。
 みるみるうちに離れていくローさんからは照れくささがあふれ出ている。これが愛おしいということなんだろうな……私の顔がだらしなく緩む。「えへへ、泊まりたいんですか?」とローさんに追いついて顔を覗き込むと、ローさんはふいっと視線をそらし、またずんずんと速度を上げて距離を取る。これはきっと照れているんだ……神様ありがとう、私は胸がいっぱいです。

「……わぁ、なんて乙女なんでしょう」
「は? お前目がおかしくなったのか?」

 私の発言に少し先にいたローさんは立ち止まりクワッと勢いよく振り向いた。自分が乙女と呼ばれたことにご立腹のようだ。「これはですね、視覚というよりは精神的に鼻血がですね」と、決して目がバグった訳ではないのだと説明する。するとふぅっと大きく息を吐いたローさんは「わかった、わかったから。それで……返事は。どうなんだ」と私の頭に手をぽすんと乗せた。
 我に返る。そうだ、私の中では聞かれた時点でローさんもう家に泊まると決定していたけれど、きちんと返事をしていない。

「はい、私は大丈夫ですよ。でも、着替えとかどうするんですか?」
「それなら持ってきた」

 しっかり準備してあるなんてさすがローさんだ。じゃなくて! 最初から泊まる気だったのなら前もって言ってくれれば色々と準備もできたのに。私はどうにか脳をフル稼働させて冷蔵庫の中身を思い出す。ダメだ、突然の出来事に何が入っていたかさっぱり思い出せないし、あってもいつものおつまみストックばかりだ。

「なるほど……ところでひとつ問題がありまして、食料が、ないですね」
「だと思った。何か飯買ってくか」
「はい、そうしましょう!」

 これは、もしかしなくてもお付き合いを始めてから初めてのカップルらしいイベントかもしれない。ただのお泊まり……されどお泊まりである。むしろ前回の兄乱入宅飲みはあったけれど、お泊まりって一大イベントなのでは。
 そこで思考は空っぽのお腹と冷蔵庫へと舞い戻った。ローさんと買い物をして帰るなんて、たったそれだけでも絶対に楽しい。けれど深夜営業のスーパーへ行くのはそこそこ遠回りだったので、そのまま家の近所のコンビニへと寄ることにした。



 ローさんの目を気にして野菜やヘルシー志向なおかずを買おうと思ったけれど、散々ニンニク料理を食べてきたし、お酒のつまみだらけの冷蔵庫も見られているのでこの行動にほとんど意味はないのだと気づき、豆腐サラダを取ろうとした手をひっこめた。
 ただただ欲望のままに食べたいものをかごへ入れ会計を済ませる。私のリュックにローさんの荷物をぶら下げて、ローさんがコンビニの袋を持ってアパートの前まで。とはいえコンビニはほぼ家なのでコンビニまで来た時点でもう家についたようなものである。

「やっぱり不思議ですね」
「何がだ?」

 玄関のドアを開け靴を脱ぐ。当たり前だけれどいつもは振り向いたところでそこには冷え切ったドアがあるだけなのに、今日はローさんがいる。

「だって、帰ってきて玄関にローさんがいるんですもん」
「来て欲しけりゃいくらでも来てやるよ」

 先ほどまでのローさんはどこへやら、いつもの俺様が発動したようだ。靴を脱ぎながらニッと口元を歪めるその姿。足が長すぎて私は一体何を見せられているのかわからなくなってきた。反則である。

「や、ローさんはバンドも忙しいでしょうしご無理なさらず」
「まァペンギンんちに泊まることも多いからな」
「確かにスタジオの近くだって言ってましたもんね」
「あいつの部屋、防音だしな」
「そうなんですか!」
「だから、まァ……お前といたい時は来るし、今度うちにも来るか?」
「はい、ぜひ!」

 そんなに頻繁に来られてもきっと心臓が持たない。反射的に「ぜひ」と答えたけれどローさんの家に行くなんて、きっと緊張しすぎて蒸発してしまう気がする。
 ひとまずローさんからコンビニの袋を受け取って、要冷蔵の食後のデザートを入れる。

「お風呂、お先にどうぞ! タオルが必要でしたら、この前の、洗濯機の横にあります」
「おれが先でいいのか?」
「はい。私はちょっ〜と明日の準備などを進めます」
「なら遠慮なく」

 着替えを持ってお風呂場へ向かうローさんを見送って、部屋を見回す。あの兄のお陰で多少の片付け癖があってよかったと心から思う。こんな突然の訪問でもどうにか耐えられる状態を維持できているのだから。
 それでも作業デスクはごちゃごちゃしていたので急いで引き出しにしまって、ソファやカーペットの上を粘着テープでコロコロ。使い捨てワイパーを片手に部屋を走り回り、朝バタバタしていて放置したままの食器類を洗い終えた頃、ローさんがお風呂から出てきた。

「お先」
「はい〜! って、ローさん髪乾かさないんですか!」
「面倒」
「まぁ……そうですけど」

 ローさんは私の家のクリームイエローのタオルを頭にかぶせていて、まっすぐにソファの方へ向かっている。これ以上は何を言っても無駄なのだろう。いや待てよ、本人に乾かす気がないのなら、私がちょっ早でお風呂を済ませて乾かせばいいのでは……名案を思いついてしまった。これは大至急実行しなければ。

「ふふふ、じゃあテレビでも見てゆっくりとしていてください。買った飲み物も冷蔵庫にありますので」
「……何だ、その顔は」
「ひみつです」

 ローさんはぴくりと眉を動かしてから、目的地を台所へ変え、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。あ、ずるい。早々に一杯やるらしい。それにしても一応初めての二人きりのお泊まり。何の会議もなくお酒を飲む流れになっているこの状況はいいのか、悪いのか。
 テーブルを拭きながらよく考えてみる。そういえば私達は、仕事中以外は外食にライブハウスにとほぼいつもお酒を飲んでいる。何だ、いつもどおりだな。
 それならばさらに急いで出てこなくては。ちくしょう、ビールを早く飲みたいし、絶対にあっと言わせてやるぞ。

 そんな意気込みで過去最短レベルの素早さでシャワーを済ませた。とはいえ念入りにアウトバストリートメントを髪になじませ、フェイスマスクをしながらのヘアドライ。時短はしつつも女子力だけはどうにか最低限維持したい。
 ドライを終えてパックをはがし、クリームで蓋をする。仕上げにすっぴんでいるよりもお肌に良いという謳い文句のパウダーを顔にはたいて、ドライヤーを手にいざ、ローさんの待つリビングへ。
 
「ローさん!」
「何だ、ずいぶん威勢がいいな」

 ソファに寄りかかり、先週買った音楽誌を見ていたローさん。テーブルには取り出していたはずのビールはなく、今日仕事中に飲んでいたであろう飲みかけのペットボトルのお茶が置いてあった。

「あれ、ビール飲んでないんですか?」
「お前が出てくるまで待とうと思い直した」
「あ……そうなんですね、へぇ……待っててくれたんですね」
「で、そのドライヤーは何だ」

 パタンと雑誌を閉じてテーブルに置くと、私の方へと向き直したローさん。頭に乗っていたタオルは首にかかっているけれど、まだ半乾きに見える。それにしても待っていてくれたなんて嬉しいじゃないですか。ニヤニヤを顔に出さないように必死だ。

「はい、私がローさんの髪を乾かしますの会です」
「会?」
「はいはい、ローさんはそのまま雑誌でも読んでてください」
「……別にいいんじゃねェのか。さっさとビールを、」
「乾かします!」

 これはローさんの髪のキューティクルを守るだけではなく、私がローさんの頭をわしゃわしゃとするためには必要なことだ。私だってさっさとビールを流し込みたい。ソファーの裏に回ってプラグをコンセントに挿し、素早くスイッチを入れる。ブォォォォと、強い風をローさんの頭頂部に当てる。そもそも髪の毛は私より遥かに短いので強風を当てれば瞬殺だ。それなのになぜ乾かさないのだろう。
 ローさんは抵抗することを諦めたのか再び雑誌を手に取る。ぐるりと一周、地肌に風が当たるように手を小刻みに動かす。少し遠くから。ふわふわ、私よりもしっかりした毛質だなぁ。けれどそんな触り心地を十分に堪能する前に髪の毛から大半の水分は吹き飛んだ。名残惜しいがこれ以上続けてしまってはローさんの頭皮がカラカラの砂漠になってしまう。諦めてスイッチをオフにした。

「おっけーです! さ! ビールを飲みましょう!」
「乾かす意味、あったか?」
「大いに! ありました!」

 髪を乾かすこと以外でローさんの頭をこんなに撫で回せるなんてことはそうそうないと思う。だからほんの数分だって、私にとっては貴重な時間だ。

「飲む前から酔っ払いみてェな顔してんな」
「え、そんなことないですよ」
「ほら、取りに行くぞ」

 こっそりニヤニヤしていたはずなのにバレている。おかしいな。立ち上がったローさんは私の手からドライヤーを回収し、コードを雑に丸めてソファに置いた。

「まだ酔ってませんからね」
「そうかよ」

 早く飲みたいだけでまだ酔っていない。まるでいつも酔ってるみたいだと言われたような気がして、しらふであると主張する。お風呂上がりでリラックスしているからか、いつもより髪が落ち着いているせいか、目元の雰囲気が柔らかい気がする。
 そんな日だまりのようなローさんを堪能する時間は与えられなかった。私の肩を掴んで私の体の向きを180℃変える。早くしろということなのだろう。大人しく後ろから押されてキッチンへ向かうことにした。



「ふぅ、ごちそうさまでした」
「足りんのか? それで」
「はい、明日もありますからね!」

 レンチンを待つ間にキッチンでビールを開けた私達。結局2本目とストックのおつまみを持って部屋へと向かった。
 バーベキューの話題が弾んだこともあるだろうけれど、食も進んであっという間におつまみの漬物やおひたしがなくなり、お惣菜、デザートも平らげた。
 ふと思う。いつも食べるコンビニ弁当なのに全く違って感じるのは、普段なら誰もいなくてソファや家具の存在しかない部屋に、ローさんがいるからかもしれない。

「ローさんはバーベキューに誰か誘ったんですか?」
「……誘う気はなかったんだが、このバーベキューは何なんだ。ただの職場の集まりじゃなかったのか?」
「ですよね、ロメオくんなんか学校の先輩とその彼女さんが来るって!」
「どっから聞きつけたのか、シャチが来る」
「シャチさん! シャチさんこういう集まり好きそうですもんね」

 明日は本当に賑やかな一日になりそうだ。想像しただけでもう楽しい。食後の時間の流れもゆったりと感じて、いくらでも話をしていられそうなのに、時計を確認すると体感よりも夜は更けていた。ふあ、まだまだ起きていたいのに、体は正直にあくびを吐き出した。するとローさんも釣られたように口元を手で隠した。

「明日も朝早ェし、もう少ししたら寝るか」
「そうですね」

 寝る。睡眠。そういえば。ローさんが泊まりに来たという事実に浮かれていて、すっかり失念していた。私は部屋を見渡す。ローさんの布団、どうしよう。

「掛け布団さえありゃおれはソファでも何でもいいが」

 びっくりした。エスパーかな。エスパーだ。さすがローさん。私と過ごしている時間が、密度が、それなりに濃いだけある。

「とは言いましても……ベッドはセミダブルなんでローさんでも大丈夫だと」
「それなら、一緒に寝るか?」
「そ、それなら私はソファで寝ますよ、よく寝てますので」

 もちろんローさんと一緒に寝たいと思う。けれど……やっぱりまだ、恥ずかしい。夜通しの宅飲みも経験しているけれど、あの時とは状況は違う。一応、初めてのお泊まりだ。浮かれすぎて幻滅されることだけはあってはならない。
 するとローさんはフッと笑みを浮かべてから「だったらおれもソファで寝る」と呟き、テーブルの反対側からこちら側、私の隣へとやってきた。つまりローさんはどこでもいいから私と寝たいということになる。床についていた左手にローさんの右手が、ぬくもりが重なる。バクバクと心臓が跳ね上がる。
 私の心臓、一晩耐えられるだろうか。きっと耐えられない。とっさにローさんと適正な、テーブルを挟んだ距離を取ろうと立ち上がる。けれどピンっと部屋着のワンピースが何かに引っかかった感覚で足を止める。ローさんがワンピの裾を掴んでいた。

「……ええと」
「逃げんな」
「逃げているわけでは……その、やっぱりまだ、慣れないと言いますか……恥ずかしくて」

 ローさんは裾を掴んだままで私をじっと見上げている。乙女心に直接訴えかけてくる。そんな目で見つめられたら溶けて消えてしまいそうだ。
 わかっている、何をそんなに恥ずかしがることがあるのだと言いたいことは。私だってもっと素直にローさんに触れたいし、甘えたりもしたい。恥ずかしささえ取り払ってしまえば、私だってずっとローさんのそばにいたいと思っているのだ。
 覚悟を決め、明後日の方へと視線を向けたままゆっくりローさんの隣に腰を下ろす。そろり、ローさんの方へと顔を向けると、してやったりとでも思っていそうな程に口角が吊り上がっていた。

「……あの、一緒に……寝ます」
「ん」

 ローさんは満足げに私の肩を抱き寄せ、コテンと頭を乗せてきた。今日も、これまでも、ローさんと一緒にいることで感じてきたフワフワとした、柔らかな、優しい気持ち。うん、これが幸せというものだ。目には見えないけれど、感じることはできるもの。人肌の温かさでよりぼんやりとしてきた頭でそんなことを思う。
 気づけば意識が断片的になっていて、薄暗くなった部屋の中で私はいつもの布団とローさんに包まれていた。よく眠れそうだな――まだこの幸せをじっくりと味わっていたいと思いつつ、抗えない眠気にゆっくりと目を閉じた。

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