海の桜
頭上の波に穏やかな春の日差しが揺れる石畳の小道を紡と手を繋いで歩く。紡にエナができてからもう何度も一緒に海の中を散策したけれど、汐鹿生の外れへと続くこの古びた道を行くのははじめてだった。
道の周りは緑に覆われていて、銀色の鱗を煌めかせた魚とともに葉先を踊らせている。その様子を紡は興味深そうに眺めていた。海の中を散歩する時はいつもこうだ。出会った頃から変わらない瞳を輝かせた少年のような横顔を見上げて、ちさきは唇を綻ばせた。

しばらく進んでいくと、緩やかな下り坂になった。その先に花を纏った枝を垂らす木々がある。淡い薄紅色の花が海月のように揺れていて、ちさきは声を弾ませた。

「ほら、見て! あれが海の桜!」

海底を彩るあの花は海桜という海草で、名前の通り春になると地上の桜に似た花をつける。海村で単に桜といえば海桜のことで、村の中にもいくつか生えているけれど、この辺りは数が多くて花見の名所になっていた。

ちらと紡の反応を窺えば、目を見張って海の桜に見入っている。きっと紡も気に入るだろうと思っていたけれど、実際にそうなると嬉しくて笑みが零れた。

「枝垂れ桜に似てるんだな」

「そうだね。だから、普通の桜より枝垂れ桜の方が馴染みのある感じがしたな」

そのまま坂を下っていけば海桜のトンネルになって、空が桜の花に覆われる。花の間からは小さな魚が見え隠れしていて、時折枝の先をつついて遊んでいた。
桜を見上げて、綺麗、とため息を零す。
海村が冬眠している間はここにも来られなかったから、この光景を見るのはちさきも五年ぶりだった。だからだろうか。切なくなるほど美しく思える。

「昔から村の人達でお世話してたから、こんなに立派になったんだって。ずっと手入れできてなかったから心配だったけど、綺麗に咲いてよかった」

「お前も世話してたのか?」

「たまにね。子供だったからたいしたことはできなかったけど、お母さんと一緒に少しだけ手伝ってた」

そっと垂れた枝の先の花に触れてみる。
盛りを迎えた花は昔と変わらず艶やかで、懐かしさに目を細めた。

「地上の桜と違って春の間はずっと咲いてるから、村の花見も学校の遠足もここだったんだよ」

「いいな、それ」

「光なんかは毎年同じで見飽きたって、よく文句言ってけどね」

「光らしいな」

桜を見上げて思い出話をすれば、紡は苦笑して肩を竦めた。

「これだけ綺麗なら、見飽きそうにないけど」

「うん、私も」

同じように笑みを浮かべて、潮の流れに揺れる桜を二人で眺める。
ただそれだけのことで、あたたかなものが胸の内に広がっていった。なんだかくすぐったくて、不思議な感じがする。

「紡と海で桜を見ることになるなんて思わなかったな」

「前はエナがなかったからな」

「それもあるけど、それだけじゃなくて……」

説明しようと思うけれど、うまく言葉にできない。
こうして紡が隣にいることが不思議で、でも無性にしっくりもきていて、知らず知らずのうちにぎゅっと繋いだ手を握り締めていた。

その時、急に潮の流れが強くなった。思わず身を竦めれば、肩を掴んで引き寄せられる。海桜の花が一斉に翻るなか、どうにか少しだけ開けた目になにか大きな影が突風のように駆け抜けていくのが見えた。
影が見えなくなるとともに、潮流ももとの穏やかなものへと戻る。ちさきはほっと胸を撫で下ろした。

「なに、今の……?」

「スナメリ……いや、サメか? かなりでかかったけど」

驚きで速くなった鼓動が少しずつ落ち着いてくる。そうすると、ずっと紡に抱き締められていることに気が付いて、今度は別の意味でまた心臓が波打ちそうだった。触れられることにも少しは慣れたとはいえ、誰かに見られるかもしれないと思うと恥ずかしい。

さっきはありがとう、と呟いて、然り気無く身を離そうとする。
と、なにかに髪を引っ張られた。急な痛みに驚いて手をやると、髪に海桜の枝が引っ掛かっている。慌ててとろうとするが花を傷付けないようにしようとするとうまくいかず、ちさきは狼狽えた。

「やだ、あれ? ……いたっ」

「じっとしてろ、とってやるから」

すっと紡の手が伸びてきて、髪に絡んだ枝をそっと外そうとしてくれる。おかげで抱き締められることはなくなったけれど、今度は顔が近付いてどきりとした。枝をとろうとしてくれているだけだとわかっていても、じっと見つめられると顔が熱くなる。恥ずかしくなって目を伏せても、髪に触れる指先があたたかくて心地よさを感じてしまう。

「この花、うっすら透けてるんだな」

なのに、紡がそんなことを言うから、ちょっとだけむっとしてしまった。

「今、そんなこと気にする?」

「ヴェールみたいだなって思ったんだ」

「えっ?」

意外な返事に目を丸くしていると、髪を引っ張られる痛みがなくなった。けれど、紡の手は離れていかず、そっと髪を撫でられる。紡の瞳には熱が籠っていて、胸が甘く高鳴った。
ゆっくりと顔が近付いてきて、優しく口付けられる。
出会った頃は紡とこんなことになるなんて考えられなかった。でも今は、来年も、その先も、紡と一緒にこの花を見るのだろうと当たり前のように思った。
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