Verweile doch | ナノ

Act.1 白い鴉 -18


緩やかな時の中朝餉を済ませれば、春草は今日中に仕上げたい課題があるからと早々に自室にこもってしまった。
その後私は林太郎について家を案内される。なんでもドイツは客人を自分の家に招く際はこうして部屋を案内するのがしきたりだそうだ。文献で知識として知ってはいたものの、実際にこうして案内されると言う体験はそうそうない。この場合はどう反応するのが一番正しいのかがなかなか思い浮かばず、少し困惑してしまう。次の瞬間には、まあ無理に気を張るのもおかしいかと早期に諦めてしまったが。

「大分回ったね。最後にここが、僕の書斎だ。」

ウェルカメン、と流暢なドイツ語で歓迎されると、そこには綺麗に整頓されたたくさんの書類や本で溢れかえっていた。思わず感嘆の声を漏らしてしまえば、気に入ったかい、と嬉しそうに尋ねられる。

「これは……すごいな。
ここの本棚、少し拝見しても良いだろうか?」

「ああ、構わないさ。
僕のいない間でも存分に堪能したまえ。」

私の身長では到底上の列まで届かないほど大きな本棚がデスクを囲む形で備え付けられている。そこに詰められた文献の量は、甚だ一個人が集める量ではない。そこには現代ではもう残っていない文学史上の現本や、漢文。詩集。何より、今の時代すごく貴重なはずの外国文学が所狭しと敷き詰められていた。私にしてもお宝の山にしか見えない、きっと林太郎も自慢の本棚であろうことは確かである。

「ルイス・キャロル、アンデルセン、ドストエフスキー……!
な、楽園ではないか……っ!!!」

「そうだろうそうだろう!この素晴らしさがわかるとは、流石文乃だ。
それにしてもおまえのキャラクターが変わりつつあるが、そこは置いておこう。」

つつつ、とゆっくり作者順に並べられた本棚の本たちを追っていく。上の段は流石に手が届かないので、目で追うばかりではあるが。
しばらく上を向きながら横に歩くと、ある一角でその行為は止まった。その本のタイトルと作者は、私の浮かれた心を一瞬にして、全て奪い去るのである。まるで時が止まったかのように息が止まる。ああ、運命の出会いとはあながちこう言った瞬間のことで間違いはないのではないのだろうか。

「……だからね。
……文乃?」

「……りん、たろ…。」

「どうかしたのかい?」

瞬きでもしたら逃げて、その視界から消えてしまうような気さえした。視線をその本から離すまいと、右手だけてドアの方にいるであろう林太郎を手招きした。

「あれ、あれを……取ってくれないか………頼む…。」

うわごとのようにそう呟く。林太郎に訝しげに見られただろうか。……いいや、今はそんなこときにしている余裕はない。私の心臓はそのボリュームを徐々に上げ、ひとつの予感にしか思考が回らないのだ。

「おや…これは……っはは、お前も余程の文学好きだなぁ。」

ひょいと、いとも簡単にその本を手にして私に渡した林太郎の顔は、呆れるどころか酷く嬉しそうに照れていた。目の前に手渡された本の表紙をゆっくりとなぞる。本のタイトルは、【Faust】。その下方には、Johann Wolfgang von Goethe、と確かに書かれていた。

正真正銘の、ゲーテ卿の【ファウスト】だ……!!!

そのページを開けようと試みるが、ダメだ、歓喜のあまり手が震えてしまう。私は、その本を少しも傷つけないように、ゆっくりと両手に抱いて、その幸福に浸った。この胸の内を流れる興奮は、もうしばらく抑えられそうにない。
ああ……、


「Verweile doch, du bist so schoen……!!」


時よ止まれ、お前はなおも美しい。
時代を超えて、私がここに在る、と…確かに結びついた瞬間だった。
ここでこの本に出会えて、運命の出会いと言わずして何と言おう。この場で此れほどまでに胸が震えるのを、誰が抑えられようか…!無理である。私はこの魂を悪魔に捧げてしまって良いほどだ、と思えた瞬間でもあった。

「……プ…………ははっ…はははははっ!!!」

必死にこらえていたものが決壊し、ダムのように漏れ出したかのように笑い出す林太郎。人が横で感極まっているというのに、私は失礼な人間だ、と少し眉を寄せた。何がおかしいのか、といささか森氏と裁判をやり合おうかとも考えてしまったほどである。
林太郎はしばらくその場で転げ回り、少しするとやっと少し収まったのかすまないと何度も繰り返しながら私の肩を叩いた。

「いやあ、悪いことををしたなぁ。
お前の行動について嘲っていたわけでは決してないと、はじめに断っておきたい。」

「……言い訳とやらを聞こう。」

「まあまあ、その怖い顔を仕舞いなさい。
僕は、今そこはかとなく嬉しかったのだよ。」

そう言って温もりを求めるかのようにぎゅ、と私を抱きしめる林太郎。あたりに香る見知った匂いと、煙草の臭い。

「実は僕も、その本をドイツでたまたま手に入れたとき同じ言葉を発してしまってなぁ。」

「……りんたろう、も?」

「あぁ。
考えても見たまえ。【ファウスト】の、現地出版の、第4版だ。
それはそれは震えが止まらなかったさ。悪魔と契約できると思った程だ。」

その言葉に、今度は私が目を見開く。つい先ほど、全く同じようなことを思ったからだ。
私は同士に巡り会えた幸せと、私の【起点】とも言えるファウストの原書との出会いに胸が熱くなる。この時代に来てよかった。心からそう思ったのだ。



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