「今日は僕とあなたの話をしましょう」
「でも、お身体を休められたほうが、」
「あなたと居たいんです。駄目ですか?」
その証拠に、最初こそ心配な表情で病室に居座っていた母親も、今では快く安室透と娘を密室に2人きりにしている。家族で駄目だったので、きっと記憶を思い出す糸口になることを縋る思いで期待しているのだろう。
「それであなたのドレス姿があまりにも可愛すぎて、つい公共の面前で愛を叫んでしまったんですよ」
「ふふっ、そんなことが」
つい先日の出来事を話す男に名前は鈴の音ような声色で笑みを溢す。安室透も自分も、久しぶりにその耳障りの良い音を聴いてひどく安心した。
それにしても、真っ昼間から愛を囁き続けるのはどうにかしてほしい。いつから俺は空気になったのか。
「きっと、幸せだったのでしょうね。名前…さん、は、」
「僕のこの気持ちはこれからだってちっとも変わりませんよ」
「…ごめんなさい」
悲しみに塗れた少女の表情が年相応に紅く染まることもなく眉を下げ続けるのは、霧がかった脳内に未だこの男の存在を見出せていないから。
それでも他の人間に比べて心を開いているのは、少々危険な部分に惹かれている訳ではないということを心底願う。記憶が戻らなかった場合どんな手を使って阻止すべきか、こういうとき犯罪ばかりを追ってきた高校生の頭では見当もつかない。
「すべてを思い出せば、安室さんの顔色も良くなりますか?」
「っ、」
その本人よりも顔色の悪い少女が自分の目の下を指差して酷く切なく微笑むから、笑みを絶やさない男も珍しく息に詰まっていた。
彼女は周りの人間が自分に優しくする理由が、記憶を取り戻させるためだと思っている。そんな気はさらさらないし、安室透の言うように記憶が戻らなくたって気持ちは何一つ変わらないのに。
「名前姉ちゃん、そろそろ探偵団のみんなが来るから外に出てみようよ」
「たんていだん…?」
小さな助け舟が多少強引だったことも許されるだろう。この貸しはいつか組織関連の情報提供で返してもらうとして、漸く小学生の容姿を視界に捉えた天使がきょとんと小首を傾げるのは禁止したい。可愛すぎて病室に軟禁してしまいたくなるのは目の前の浅黒い男だってきっと同じだ。
「歩美たちのこと憶えてないの…?」
「そんな…あんなにいっぱい遊んでくれたじゃんか……」
「、本当にごめんなさい…」
子供たちと遭わせるにはまだ早かったか。
彼らのストレートな心情は今の名前を苦しめるだろう。今日はきっと夜通し自分を責め続ける。
「大丈夫ですよ、僕たちが名前さんの記憶を取り戻してみせますから!」
「おう、そうだな!それでまた俺たちと遊んでくれよ!」
それでも少しは外に出る気分になってくれたので大きな成果だ。はしゃぐ子どもたちを前に垣間見えた笑顔も温かい。
退院したら家族だけでは守りきれないし、博士や灰原、それに沖矢昴の手も借りたい。いまだに捕まらない連続殺人犯の目撃者でなくても、彼女は何度か命を狙われたことがある。
「さぁ、名前はそろそろ病室へ戻ろうか。毛利先生も心配してい…、ッ!」
「……あむろさん…?」
安室透が病棟から察知した禍々しい空気は、普段の彼が放つそれよりもジトリとした殺気を孕んでいる。
名前がそれに気付く素振りは見当たらないが、彼の体が無意識に彼女を自分の影に移動させているのはさすがの瞬発力。自分は手も足も出なくて悔しさが少々勝る。
「どうしたんじゃ?」
「…やっぱり危険なのよ、殺気が凄いわ」
灰原の言う通り、やはり常に緊張状態が強いられているのだ。彼女の命はこうして今でも狙われていて、これまで以上に守り抜くのが難しい。考えたくもないが、失くすなんてことになったら自分は生きていける気がしない。
「名前姉ちゃん部屋に戻ろう。博士、車椅子押してくれ。安室さんは寄るところがあるだろうから」
「あぁ…。でも、病室まで送らせてもらうよ」
警察官の表情を隠しきれなかった大人が車椅子から不安そうに見上げる少女の小さな頭を撫でる。
見たこともないほど優しい表情を携えているのに、自分と同じくらい重々しく唇を噛み締めているのが見えた。
『それではくれぐれも無理はなさらず、ゆっくり自分のペースで過ごしてください』
『風戸先生、どうもありがとう。またすぐに検診に伺いますわ』
『お世話になりました』
名前は退院の許可が降りて、自宅でゆっくり記憶を取り戻すことを選んだ。彼女の身は常時一課の刑事が護衛すると少年から聞いていたが、それでも少しとして不安は消えない。
病院では通信機器を使うことが難しいので、この盗聴器を仕込むのはかなり大変だった。
『降谷さん、この件に関しては彼らも黙秘を貫いているようです。向こうでは妙な隠語が飛び交っていますし』
「小田切警視は部下からの信頼も厚い。なかなか手強い敵になりそうだよ」
ポアロの開店準備は既に済んでいる。今日は土曜日なので早朝からモーニングを取りに来るサラリーマンの姿も見当たらない。
「すまない、繁忙期にこんなことを頼んでしまって」
『いえ…降谷さんこそあまりお体を休められていないでしょう。昨晩も登庁されたと伺いました』
「たまには本職の苦労を知るのも悪くないだろう」
確かにあのパーティの夜からろくに睡眠も取れていないが、それでも彼女の心労に比べれば大したことはないと本気でそう思っている。会うたびに顔色が悪くなっていくのはお互い様だ。
『…名前さんの記憶が戻ったら、溜まっている有給を消化してくださいね』
「あぁ。そうさせてもらうよ」
正直もう、記憶は戻らなくてもいいと思い始めている。あの化粧室での出来事を思い返さなくていいし、今まで見せてしまった血に塗れた世界もあの少女は知らないままでいい。
『そうだ、アルバムも見よう!新一の写真も沢山あるわ、写真を見たら何か思い出すかもしれないし』
『しんいち、さん?』
『お前の幼馴染で、高校生探偵やってるいけ好かねえ野郎だよ』
『たんてい……』
名前のおうむ返しは柔らかい。確かに周りに何人もそういう人間がいるから、その単語は記憶を取り戻すトリガーになるかもしれない。自分もそのひとりになれたらとても嬉しい。
『でも、全部ゆっくりでいいんだからね名前姉ちゃん』
『ありがとうコナンくん。優しいのね。だけどわたしも早く思い出したいの』
やっぱり記憶をなくしても人の心情を読むのを優先するところは変わらなくて、みんながきっと期待してしまう。あの柔らかく愛しい笑顔が、また自分を迎え入れてくれることを。
大粒の雨が窓を叩いて、まだ雨の日の営業準備ができていないことに気が付いた。
傘立てを持って店の外に出ると、二台の黒い車がそこに停車して、二重に聴こえる声の主が傘を持って顔を見せる。
『名前…?顔、真っ青じゃない!どこか具合でも…』
『違うわ、なにか怖がっているみたい』
少女の顔色は確かに蒼白い。それに遠目からでもわかるほど歯をカタカタ言わせて震えている。
『水溜りが嫌なんだろう、佐藤刑事が撃たれたときも水が溜まっていたようだしな』
『ちょっとあなた』
『悪いが高木、車をもう少し前に出してくれ』
「だ、いじょうぶ…」
迂闊に口を滑らせた父親を睨みつける母親と、それを咎める姉。3人が目を離している間、必死に目を瞑って足を地につける姿はどうにもこうにも頼りない。
「っ、ちょっとやだ、名前!」
枝のような脚が濡れるアスファルトへ崩れる前に、躊躇なくその水溜りに足を突っ込んで薄い体を引き寄せた。小さな肢体は己を認識する前にくたりと後ろに傾く。また体重が落ちている。
「安室さん…!?」
「…気を失っているようです。このまま部屋まで運びます」
「運びますって、お前、傘くらい…」
「すみません。この方が早いので」
膝の裏と薄い腹に腕を回せば、久しぶりに感じる少女の甘い身体の滑らかさに泣きたくなる。可哀想に、こんなに小さな身体に測り知れない恐怖と不安を背負って今日を生きている。
階段を駆け上がりベッドまで運んで、愛しい体温から距離を取る。胸が上下していることに酷く安心したが、今この娘と一緒にいれば弱音を吐いてしまうような気がして怖かった。
「名前…」
青みを帯びた唇が脳裏から離れないのは、そこから熱が消えることだけは、絶対にあってはならないと己を鼓舞するため。
「必ず君を助けるよ。…だから、」
だから、もしも記憶が戻らなくても、また俺の恋人になることを選んでほしい。信じられないほど危険な男だという自覚はあるけれど、一生をかけて守ると誓うから。
滑らかな肌の感触を消し去るために、爪が食い込むほど拳を握りしめる必要があった。
すぐに駆け上がってきた少年にまで少しは休めと咎められたが、やはりあの少女に労われるときの幸福感は感じられないなと自嘲した。
それからの数日は霞ヶ関で過ごした。ポアロのシフトがなかったのも、組織の目がNYでの取引に向いていたのもただのラッキー。
今の名前は家族の中で記憶を取り戻す糸口を見つけるべき。
「降谷さん、少しでも良いので休んでください。ちょうど仮眠室が空きましたから」
「もう少し調べておきたいことがあるんだ」
目を閉じると浮かぶ、少女の柔らかな笑顔と、病院での虚な瞳。夢現に呼んでしまうのが自分でも辛く悲しくて、なかなか眠ることができやしない。
「傘…ですか?」
「名前は退院の日、これに酷く怯えていた」
父親から借りてきたそれはどこにでもあるビニール傘。少女はこれを目にして前髪が額に張り付くくらい脂汗を滲ませ身体を震わせていた。
「風見、件のホテルの見取り図を、」
「降谷さん…!隣からの連絡で、毛利名前さんが病院に運ばれたと…」
「なッ、」
気付かないふりをしても、彼女の目が安室透の奥に降谷零を見ていないと判るだけで身が焦がれるような思いになる。それを言い訳に逃げた自分に、きっと天罰が下った。
「詳細は分かりませんが、外出中に何か起きたようで、」
「一課が護衛していたはずじゃないのか…!」
家族の絆には打ち勝てない。そう思って側を離れた自分を一番痛めつけてやりたい。一番近くに居て、彼女を守ると以前に決めたばかりだったはずなのに、今は物理的にも精神的にも距離がありすぎる。
病院に駆けつけると姉と鈴木園子が涙を流して待合室で身を寄せ合っていた。それだけのことに心臓は嫌な音を立てて己の鼓動を早める。声を掛けるのも気が引けて、急いで警察官に守られたその病室の扉をノックもせずに開けて名前を呼んだ。
「安室さん…」
「……名前は…」
「頭を少し打ったんだ。さっき鎮痛剤が効いて眠ったところ」
そう言う江戸川コナンも名前と同じ部分に包帯を巻いていて痛々しい。
「犯人は蘭と名前を間違えて線路に突き落とそうとしたんだ。それを名前が庇って線路に落ちた」
確かに窓際に置かれたキャスケットは以前姉とお揃いで買ったとポアロで楽しそうに話していた。待合室の彼女の脇にあるのもさっき確認した。
姉の涙の理由に納得して、名前の頬に指を滑らせる。暖かいが血色はまだ良くない。
「…コナン君も痛かっただろう。彼女を守ってくれて本当にありがとう」
「このくらい僕は平気」
コナンの眉間には小学生らしからぬほど皺が寄っている。刑事2人が帯同していたから油断していたのだろう。それは自分も同じだし、家族もきっとそうだった。
それにしても同行していたという男は赤井秀一でなかったとしても無能すぎる。自分なら傷一つ付けさせやしない。
「どこへいくの」
「一刻も早く犯人を捕まえる。それが今彼女のためにできる唯一のことだ」
「…僕も一緒に行く」
病室を出る前にもう一度ベッドの上の天使に視線を滑らせる。目が覚めたらきっと江戸川コナンの怪我を気に病むし、姉の涙に心を痛めるのだろう。お前は何も悪くないのに。
「事件が解決するまで、こうしてずっとここで眠っていてくれたらいいのにね」
やはり側を離れるべきではなかった。銀幕のスターに魂を売ってでも彼女を危険から遠ざけるべきだったのだ。
少年がごくりと息を飲む音だけがやけにうるさく耳に届く。怒りと憎悪に突き動かされて、名前の瞼が小さく動いたことには気がつかない。
白いFDが特有のエンジン音を立ててやってきたのは米花サンプラザホテル。
彼の白い手袋を付けた右手には穴の空いたビニール傘が握られている。
「名前が傘を見て怖がっていたのがずっと気になっていてね」
「指紋は拭き取られているだろうけど、硝煙反応は期待しても良さそうだね。それで犯人が浮上するわけではないけど…」
「あぁ、ここへ来たのは犯人じゃなかったみたいだ」
「え?」
ロビーの観葉植物まで一直線に駆け出した安室はポケットから白いハンカチを取り出した。何を仕込んでいたのかは、慣れた手つきで横抱きにされた愛しい女を前にしてすぐに予想がつく。
「名前…!?」
「高木刑事には一度喝を入れる必要があるみたいだ」
「……僕が油断してた…」
「行動パターンの読みにくい子だからね。その上人の懐に入り込むのが上手い、彼女におねがいされたら誰も断れないだろうから」
この男もその中の1人であるから、携えている笑顔が自嘲気味だ。
腕の中で眠る女を愛おしそうな眼差しで見つめるのでこちらまでむず痒くなって、入口付近に潜んでいる高木刑事のもとへ眉を吊り上げて走った。彼の言っていた通り、名前に頼まれて此処まで一緒に来たという。
「どうしておっちゃんたちの目を盗んでまでこんなところに、」
「記憶が戻れば佐藤刑事を狙う人間が居なくなると思っているんだよ。どこまでも人のために生きる優しい子だ」
俺は犯人を殺すことしか考えていないのにねと、決して名前の前では見せることのない冷酷な表情で安室は言う。
高木刑事に名前を預けタクシーに乗せられるまでも、その顔にいつもの気安い笑顔が戻ることはなかった。
「それじゃあコナン君、あとは頼んだよ」
「うん…」
これから、右脇に抱えたままのあの傘を職場へ持ち込むのだろう。名前を手放すときの何かを堪える表情が脳裏から離れない。
「早く戻ってこいよ、名前。安室さんも待ってるぞ」
でないと彼は闇に呑まれてこちら側の世界に戻って来られなくなってしまう。
2021.03.16
安室さんと瞳の中の暗殺者02
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