好き.
及川が海外へ行く。 そう、元カノさんに教えてもらってから数日。テスト期間に入り、どの部活も休みになり始めた。
及川にテスト勉強に誘われて、二人。 大体が設備の良い図書館か、自習室に言ってしまうから、空き教室には、二人だけだった。
「及川って、勉強できる方だっけ?」
「んー…できなくは無いけどできる訳でも無い。そこそこだよ。でも、英語苦手でさー…名字ちゃんは得意なイメージあるね。」
「英語?…他の教科に比べれば良いのかなってくらいだよ。」
別に飛び抜けて得意な訳じゃ無いと否定すると、及川は意外そうな顔をした。
「そうなんだ。名字ちゃん、発音綺麗だから得意だと思ってた。」
「発音……そう?」
「うん。俺、英語の時名字ちゃんが当てられるとちょっと嬉しい。名字ちゃんの声好きなのかも。」
この男は軽く好きと言ってしまう。 その好きでさえ、こっちはドキッと心臓が跳ねるのをきっと知らないんだろう。
「お、及川も、発音上手そうじゃん。」
確か、前に授業でアクセントがしっかりと合っていると褒められていた。発音記号を意識でしていないとできないことだと。
「まー、練習してるからね。」
「れんしゅう…」
海外へ行く、から?
「俺、多分だけど、将来は海外行くし。」
「そう、なんだ」
本人の口から聞くと、なんだか真実味が増すと言うか、それが事実だと突きつけられる。
震える手では、シャーペンは持てない。机の上に置き、平然を装って尋ねた。
「どこに行くの?」
「アルゼンチン。…この人から学びたいって人が、そこにいる。」
アルゼンチン、アルゼンチンって…。 日本地図でさえ曖昧な頭には、世界地図なんてもっと曖昧なもので。
「アルゼンチン…って、どこだっけ、」
きっと、遠い。それはわかった。
「ブラジルの違く。地球の裏側だね。」
地球の裏側。中学の時に習った気がする、対極点。遠い、なんてものじゃない。果てない気さえしてしまう距離。
「そんな遠くにいっちゃうの?」
「うん。」
「…それなら、なんで私を好きっていったの?だって、離れちゃうのに、」
「離れるからだよ。離れる前に、名字に少しでも俺の方見てほしかった。」
ワガママでごめん、と言いながらも、私を射抜くように見つめる瞳は、まっすぐで。 今は、手を伸ばせば届く距離に及川はいる。けれど、来年には果てしなく遠い距離にいる…そう思うと、目の前が真っ暗になった気さえしてくる。
つうっと、雫が頬に伝って、落ちて。 私、今まで、こんな涙流したことなかった。
「…わたし、及川が好きみたい。」
拭っても、拭っても落ちていく。 その涙が流れるたびに、自分の気持ちを少しずつ自覚した。胸に広がっていく痛みと温かさ。 …その全部が及川を好きだと言っている。
「及川が、地球の裏側に行って、離ればなれになっても…そこから、私達が二度と会うことがなくても…きっと、誰かを想って、こんな風に泣くことは、無いと思う。」
今までの人生で流したことのない涙は、これから先もそう流れることは無い。そう思った。
「俺も、好きな子泣かせておいて嬉しいとか思っちゃうのは、これから先無いと思う。」
及川が、一歩私に近づいて。
涙が残る目尻にそっとキスをした。 顔が離れて、目が合って。 あぁ、今は目を閉じるときなんだと悟る。 はじめての感触と、微かなしょっぱさ。 控えめなリップ音。 離れていく及川の瞳は、熱っぽくて。 私と目が合うと、それを誤魔化すように及川は目を細めて笑った。
「名字、目開けるの早いって…」
タイミングなんて、はじめてだから知らない。 及川が早いというなら、早いんだろうなと思うくらいには。
「…ねぇ及川、アンネフランクって知ってる?」
「アンネの日記の?」
「そう。日記の中で、アンネはファーストキスをした日を『わたしの一生の、とても重要な日』って記してるの。」
「うん。」
「…なんか、その気持ちがわかったかもなって。」
照れ臭さを隠すように、私も笑ってみせる。 及川は、天を仰いで、あ”ー…と唸ると、もうっ!と私の髪をぐしゃぐしゃっと掻き混ぜた。
「え、っちょ…!なにっ!!」
「…名字ちゃんのばか!」
「急に何!?」
「もっかいする。」
目を閉じる間もなく、二回目のキス。三回、四回。 重ね方が馴染むくらいに、優しいキスを繰り返した。
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