「……木崎」

 夢だとは分かっていた。けど、内臓がひきつるようにずきずきと痛む。救いを求めるように部屋に幻影のように佇む木崎へと歩み寄った。息をひそめて近づき、はっとなった。木崎の制服に、赤いペンキで塗ったくったような跡が見えたからだ。言葉と同時にあらゆる思考を奪われる。木崎の足元には、さっきまでは見当たらなかった筈の血だまりがあった。そしてその傍には……。

「柏木くん」

 その声は普段、彼が自分を呼ぶ時のような親し気なものでしかなかったのだけど、しかし今の自分にとっては恐ろしい以外何でもなかった。聞きたい事は山のようにあったのだが、何一つとしてまともな言葉になりそうにない。

 夥しい程の濃厚な血液の臭いに混ざり、排泄物の臭いもした。木崎の足元に転がる『誰か』は切り裂かれて溢れ出たのであろう内臓を抱え込むようにして、背を向けた状態で倒れていた。夢だ。悪夢だ。なのに漂ってくる生々しい程の死の香りに激しく胃袋が揺さぶられた。この凄惨な状況で木崎は――うっすらとだけど、笑っていた。

「木崎」

 止めなくては、止めないと――思いだけが先走るものの、どうする事もならない。木崎は刃物を持ったままで『当たり前』のように微笑んでいた。全てが歪んだ夢でしかなかったのだけど、柏木は何事か意味のなさない事を叫びながら見慣れた自室で目を覚ました。飛び起き、時計を見れば深夜の零時を少しばかり過ぎたくらいだった。

 酷く息苦しく、どういうわけなのか『嘘』という文字を今の自分は求めている。じゃあ、一体何が嘘であってほしいのか、答えは分かりそうもなかったが。気が付くと柏木はベッドを降り、部屋の扉を開いた。父のいびきが響く廊下を音を立てないようにして歩き、リビングへと向かうと電話をほとんど操られるみたいにして手にしていた。

 プッシュした先は、木崎の携帯番号だった。
 迷惑だとか都合だとか時間帯だとか、知った事ではなかった。ほぼ無意識のうちの行動で、こんなにも衝動に流されてしまったのは初めてだったかもしれない。自分は携帯なんて持っていなかったし、というか周りのみんながほとんどそうだったけど、木崎はあの元々のボンヤリとした性格のせいなのか持つ事を強制されていたらしかった。
 自分が親でも同じ判断を下すかもしれないな、なんて思いつつ、しかし木崎ならどこかに忘れるとか落としてしまうとか、挙句の果てに壊してしまうだとか。そんな風になりかねないとちょっと思ってしまった。

 電話が鳴っている。
 木崎は出ない。
 電話が鳴っている。
 木崎は出ない。
 電話が鳴っている。
 木崎は――……、

 柏木はふっと自分の行動が馬鹿らしく思えて、受話器を戻そうとした。もういいじゃないか、とどこか悲観的に呟く自分がいた。同時にいかに自分が傍迷惑な事をしていたのかも気付かされた。冷静になってきたところで、受話器の向こうで声がした。

「もしもし?」

 まるでタイミングを見計らったかのような出方だと、失礼ながら感じてしまった。求めていながら何ていう態度だ。柏木は慌てて戻しかけた受話器を耳元に当てた。

「も、もしもし」
「柏木くん? どうしたんだい、こんな時間に」

 木崎は至って普通だった。さっきのような気配は微塵もなかったけれど、まだ少し気持ちは落ち着かなかった。

「木崎」
「うん。何?」
「……本当にどうしたんだろう、俺」

 半ば自嘲気味な思いで呟くと、木崎が少しだけ笑ったのが分かった。本当に、少しだけ。

「声が聞きたくなった?」
「かもな」
「何それ。それじゃあ恋人みたいだね、俺達」
「……」

 木崎の様子は少しも変わったところはない。しかし、分からなかった。こいつの本音だけは分からない。少しも読めない。

「――なあ、今から少し会えない? その、通夜の後でバタバタしてる時に申し訳ないんだけど……」
「この時間に?」
「駄目、かな」
「うーん、なら親に黙って抜け出すしかないね。学校では駄目なの?」
「今じゃなきゃ死ぬ」

 割と本気の言葉だったけど、木崎はそれを聞いて可笑しそうにしていた。無理やり納得させ、彼を連れ出した。待ち合わせ場所には、中間地点の神社を指定した。正式には神社の前の階段を。割と人目から逸れた箇所にあるから、通報もされないだろうしクラスの誰かにうっかり見られたりもしないだろうと思った。

「お待たせ。どうしたの? 急に呼び出したりして。何か言い忘れた事でもあったのかな」
「ああ……」

 階段に座り込んだまま、あれから慌てて着替えたジャージ姿で柏木は木崎を迎えた。かく言う木崎も木崎でいかにも『これから寝るだけです』って感じの部屋着も部屋着な服装ではあったので、似たようなものではあったが。木崎は隣までやってくると、同じく一段目に腰を降ろした。

「――それが俺にもよく分からなくて」
「え、電話までかけておいて?」
「……うん。ごめん、何か――お前に会いたくなって……会ってとにかく何か話がしたかった」

 益々恋人じみた発言をかましておいて、しかしまぁ木崎の事だ。それを別に深い意味とも捉えず、せせら笑ったり蔑んだり引いた気配もなかった。

「よく分からないね。理由もなくそういう事になるものかい?」
「……」

 理由なんか分かってる、あんな夢を見たせいだ。本人に言える筈もなかったが。けど、今の自分が彼に伝えるべき言葉はきっと無数にあって、しかし彼の前で何かを発言するには異常なまでの勇気が必要だった。

「柏木くん? どうしたの?」
「あ、う、うん……」

 柏木が戸惑いを覚えていると、木崎は眉を少し持ち上げて薄い笑いを浮かべた。その目は何か全てを見透かしているようなものではあったが。柏木は何となく深呼吸をして、頭を掻いた。

――何て言えばいいんだろう? 何か思う事はいっぱいあるのに、言うべき事がまとまらない……

「その、明日っていうかもう今日だけど、学校は休み……だよな?」
「そうだね」
「明後日は?」
「う〜ん、俺の気持ち次第なところはあるかな」

 こんな、貴重な睡眠時間の浪費としか思えないような会話にも木崎は真面目に付き合ってくれた。なのに、大事な言葉は何一つ出てきそうにもなかった。一秒、また一秒と過ぎてゆく時間の中で、「そうじゃないだろ」と叱咤する自分の声が聞こえたが、結局、コレといった事は何一つ言えなかった。

「じゃあね、柏木くん。また学校で」
「あ、ああ……」

 立ち去り際に、その背中を見つめながら柏木はもう一度彼を呼び止めた。いい加減叱られるんじゃないかと思いつつも、そうしなくてはいけないような気持ちに駆られた。

「木崎!」
「?」

 振り返った彼と視線がかち合い、柏木は躊躇いつつも続けた。

「その……、ちゃんと学校、来いよ」
「そりゃあ行くよ? 何でまた」
「……あ、いや……」

 やはり自分は逃げてしまった。伝えるべき事はもっとあった筈なのに、こんなの一番じゃないのに。結局のところ、そこで終わってしまい、翌日も、また翌日も木崎は学校に来なかった。あんなにも慕っていた人間が、そんな風な死に方をしたのだからそりゃあ当然だろうとみんな口々に話していた。

 特に噂好きの女子らは、話を盛りながらしきりにその話を繰り返していた。

「けど怖いよね〜、通り魔。犯人まだ捕まってないんでしょう?」
「そうそう。警察の話によれば、犯人はまだ近くに潜んでる可能性があるそうね。現場の状況からそう遠くには行っていないとの見方があったとかでー」
「うっそ! まじコワイじゃんそれ……。何か木崎君の叔父さん、通り魔じゃなくて故意に殺害されたんじゃって話もあるよね」

 複雑な思いで彼女らの声を片耳に入れながら、柏木は机の上でノートを開いたままボンヤリとしていた。休み続きで授業が遅れるであろう木崎に教える為、まとめておいた数学のノート。それを渡せるのはいつの日になるんだろう、そんな事をぼんやり考えていると隣の席の友人に話しかけられた。

「なぁ、お前確か木崎の通夜に出たよなァ」
「うん……そうだね」
「そん時、様子はどうだった? 平気そうだった?」
「――、どうだったかなあ。あんまよく覚えてないよ、人も多かったし……」

 はぐらかしながら答えると、友人は察する気配もなく更に突っ込んでくる。

「いつも女子らが噂してるからさ。通り魔事件、単なる無差別な犯行じゃなくって殺人事件じゃねえのかって」
「……」
「だとしたら、木崎は一生学校来れなくね? ショックでかいよなあ〜、それってさ。事故と殺人じゃあえらい違――」
「おはよう、柏木くん、富田くん」

 声を潜める様子もなくでかい声で話していた友人の顔からさーっと血の気が引いた。柏木が視線を上げると、そこには――四日ぶりに見る、木崎の姿があった。

「……、木崎……」
「おはよう」

 改めてそう告げて、木崎は透明な表情でうっすらと笑った。――変わらない佇まい。変わらない表情。以前と何も変わらない――、いや。果たして本当にそうだろうか?

 たった四日程しか空白はない筈なのに、何故だか柏木は木崎の姿に違和感を覚えた。慌てて「どうしよう」と震える友人はうっちゃって、柏木は椅子から思わず立ち上がると木崎にほとんど駆け寄っていた。

「だ、大丈夫なのか? もう……」
「平気だよ。たくさん休んじゃったから、ノート見せてくれる?」
「あ、ああ。勿論!」

 ノートを渡すと、木崎はお礼を言いそれを受け取った。クラスの視線も意に介さずに席に座る、そこは木崎らしいというか、前までの彼とまるで同じだった。

「? どうかしたの、柏木くん。僕の顔に何かついてる?」
「い、いや……」

 その日から彼は極々普通に登校してくるようになった。けど、柏木が何となく察知したように、彼はほんの少しだけ『変わって』しまった。雰囲気的なものもそうだったし、表情的なものも、言葉遣いも、考え方も。何もかもが。本当に少しずつ。注意深く見なければ気付かない程の、砂糖粒程の小さな小さな変化でしかないのだろうけど。

「柏木くん、君はどうして野球をしようと思ったんだい?」
「え?」

 それはある日の事、突然のように彼からの質問があった。今の木崎には、もうあの頃のような馬鹿っぽさは一つもなかった。

「どうして、か……小学生時代にちょっとだけやってたから、一番やりやすいかなって思って」
「成程。あとは?」
「あと?――いや、特にないかな」
「ふーん。なら、始めて見てどうだった? 目標は達成できた?」
「目標、か――どうだろう。まあ一応レギュラーとして出して貰えて勝つ事もあったから……不満はない、かな」

 なんとも曖昧な答えだった。こんな返答に果たして彼は満足するのか、少し気がかりだったけれど木崎は真剣そうな表情であった。口元に手を置き、膝を組んだままの姿勢で木崎は何やら考え込んでいる風に見えた。少し前までの、『合計三十点のKY男子』の頃だった時とは比べ物にならない程の、若干怖く思える程の落ち着きぶりだった。

「成程、そうだな……じゃあ、柏木くん」
「ん?」
「君にとっての勝利って何だい?」
「……え……」

 彼の方からここまで質問を投げてくる事も、珍しかった。ここのところ、木崎はこういう似つかわしくもない小難しい事を、よく話すようになった。

「君の定義する勝利っていうのが、どういうものかを俺に教えて欲しいんだけど」
「む、難しい事を聞くなあ。……うーん……点数で勝つって事だから……なんつうんだろ。負けない事かな? とにかく強くなれば、負けないし」
「ふーん。それは結構興味深い話だよ」
「そ、そう……? ならいいんだけど」
「お陰で、俺なりの答えに辿り着けそうだよ。強いという事について叔父さんは最期まで俺には教えてくれなかったから」

 ああ、と柏木は思った。組手を教えてくれないままに死んでしまった事だろうか、と考えてあの歪んだ夢を思い出した。

「……その……木崎はどうするつもりだ? お前が目標を決めた矢先にあんな事があったからさ――」
「色々と考えてはいるよ。でも、残念ながらはっきりと決まってはいないんだ。俺の目指すべきところは」

 静かに淡々と話す彼の姿は、何度も言うようだが以前までの木崎とは比べ物にならないくらいに知的で落ち着き払った印象だった。こちらがついていけなくなることもしばしばで、不気味なくらいに大人びた木崎の様子は柏木をすこぶる不安にさせたのだけれども。

「アゴちゃん、片腕骨折したんだって。それで、今日の体育は代わりに西川」 
「え、それマジ? うわー、西川ってあいつ経験者じゃん。めっちゃ怖くね、俺そっこー落とされるわ」
「イヤイヤ、経験者に投げられた方が初心者にやられるより痛くないんだべ」

 アゴちゃんというのは体育教師についた身もへったくれもないあだ名だ。あだ名がさす通り顎のしゃくれた、四十代にいくかいかないかくらいの中年教師である。しかし、まあ、それを聞きながら柏木は内心ため息を吐きたくなった。

 一瞬サボろうかとも考えたが、そんな事をすれば奴は一瞬でまたあの蛇のような鋭さで、こちらの不都合をすぐさま察知するだろう。――そうなったらマズイ、あいつは多分それこそ部活に俺の居場所を完全になくしてしまうに違いない。

(大丈夫だよな? 足も別に……ここしばらくは酷い痛みもないし……)

 部活では上手い事、上半身だけを重点的に使うようなトレーニングばかりをやって極力労わってきたつもりだ。だから多少は無理しても……と、半ば不安になりつつも柏木は自分の脚にそっと手をやった。

「柏木くん? どうかしたのかな」
「あ、ああ……、うん……」

 大丈夫だ、と言い聞かせるようにしながら柏木は意を決したのだった。何だか、これから命を賭けた戦いにでも向かう兵士のような気分に近かった。
 



柔道やった記憶ないんだよなあ。
必須科目だったのにどうしてだろう?
ていうかおい木崎君、何かヤバイ兆候見えてねえか。
私が中学の記憶がないとかどうでもいいんだよ今は。
それより木崎くんだよ木崎君!!
結論から言うと彼はヤンデレ。
叔父さん好きすぎたんだろうな……。
サイコパス診断のテストで確実に
「もう一度葬式があればその人に会えるから」
とか答える奴でしょ……やばないか。

23、カンビュセスの籤

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