インタビューの時、木崎は慣れない敬語にややしどろもどろになりつつもちゃんと格好になるような事は話していた。それを遠巻きに眺めながら、もうあの時廊下でプリントをぶちまけていた時よりもうんと成長しているのだと知った。

 それから木崎は柔軟をしながら見つめる柏木の視線に気づいたのか、まだカメラが回っているというのにこちらに向かってピースサインをしてきた。周囲が不思議そうに振り返ったので恥ずかしくなり思わず視線を逸らしてしまう……。

「ところで木崎君。今後、君は型稽古一本で行くつもりなのかな」
「え……?」
「実践空手――、つまりは『フルコンタクト空手』には興味はない?」

 九十九さんの問いかけに、木崎はきょとんとしていたが、ややあってから少し取り繕うようにしながら言った。その姿はどこか、叔父に気を遣っているようにも見えた。

「……痛いのはあんまり得意ではないですし、それに殴られるのは嫌ですから……」
「成程。でも、みんなそうだよ。組手は怖いものだ、楽しんでやるものとは違う。殴るのが好きで始めた人間っていうのは大体が長くは続かないし、事実私も君と同じで痛いのは苦手だった。予防接種にさえ泣き喚くくらいに痛みには弱い方で、」
「九十九さん」

 その間に割り込むようにして、それまで腕を組みながら黙ってみていた木崎の叔父が口を開いた。

「ありがたい話ですし、大変に悪いのですが、そういった話は時々頂くのですが全てお断りさせて頂いてます。――この子には伝統派空手による『基本稽古』『型稽古』を中心に学ばせたい、それが私としての思いなので道場には通わせてないんです」
「しかしそれでは昇級・昇段が望めなくなりますよ。伝統派空手にも組手はあります、寸止めルールによる組手であれば怪我をする心配もないですし。……このままではこの子はずっと白帯で止まってしまいます、この腕前を持ってしても――」
「いいんです、この子もそれでいいと言ってます」

 頑なに拒否の意を示すと、叔父は九十九さんにも木崎にも、それ以上何か話させる余地も与えない雰囲気であった。……果たして本当にそうなのだろうか? 木崎は、それでいいと思っているんだろうか。本当に本当に――それでいいと? 彼はそれでいいと思っている……??

「……最終的には指導する立場のあなたが決めるべき事だと思うので――これ以上は、わたくしの口から強制は致しません。差し出がましく、申し訳ありません」

 九十九さんはやはり最後まで微笑を浮かべた穏やかな調子で言うだけで、それ以上何か言う事もなく終わってしまったが――遠目に見ていた柏木は何だかひどく腑に落ちなかった。自分の事じゃないので横から入るわけにもいかず、そんな木崎の事を只眺めるくらいしか出来ないのだった。


 その日も鬼のようなメニューを終えて、柏木がへとへとになりながら体育館に近い部室へと向かった。このトレーニングのきつさに新入生はもう既に十名近くが脱落してしまった。……もしかすると自分もそうすればよかったのかもしれない、早いうちに決断を下していれば玉拾いが一人消えたくらいで済まされて自分はもっと別の道に開花していた可能性もある……いや、こんな事を思うというのはつまり、まだどこかで辞めたいと考える弱い自分がいるのだろうか。

(風邪もほとんどひかなくなったし、長距離走でも息が上がらなくなったし……まずまずいい身体になれて自信もついたんだけどなぁ)

 今日は足腰を酷使しすぎたのもあってか、左脚が鈍く痛む。鈍痛を覚えるたびに、少し前に木崎から注意された事を思い出す。運動後はしっかりアイシングしないと駄目だ、それから筋肉を使った後に揉んだりするのも辞めろといつもは教えられる筈の立場の彼に逆に教えられた事。

 部室の中は何とも言えない汗のすえた臭いと、エアーサロンパスと若干の埃の香りが充満していた。誰かが使い古したんであろう雑然と積もれたスパイクの山を乗り越えながら、ロッカーに手を伸ばした。女子らに「汗臭い」と笑われた日の事を思い出しながら着替えていた。

「……あ、お先に失礼します」
「おう。お疲れー」

 こちらの背を向けて輪になって何か談笑している先輩らに挨拶をし、柏木は部室を後にしたのだった。扉を後ろ手に閉め、室内には三年生だけが残る形になった。

「……柏木、頑張ってるよな。真っ先に辞めるか消えるかすると思ったのに、案外根性あるじゃんアイツ」
「それが面白くなくて西川もムキになってんだよな。あんなに長くイビってる総長も初めて見たわ」
「いや。アレももうそろそろ潮時だろ。つーか片脚引きずってんじゃん、総長が見たら完っ全に、もう徹底的にやられちゃうぞ〜」

 口々に噂する彼らだったが、やはり所詮は他人事なのかあまり心配しているような口ぶりではなかった。楽しんでいるわけでもなさそうであったが、助けるような気配もなかった。何せ彼らの中には、推薦入試を狙っている者もいる。顧問に歯向かうような真似をして、その希望を潰すような事だけはあってはならなかった。

 今日というきつい一日も、何とか終える事が出来た。ここまで来たのだから、このまま何としても耐え抜いてやるつもりだった。過酷な鍛錬は、やはり幾分か自分のメンタル面を強化していたようだった。部活を中途半端に辞めてしまったという汚点だけは作りたくなかったし、単純にそんなものに負けたくない思いの方が強くなってきた。

「柏木くん」

 校門を抜けてすぐ、柏木はすぐに呼び止められて足を止めた。自分を「くん」付けで呼ぶのは一人くらいしかいないので、誰が自分を読んだのかはすぐに分かった。

「……木崎」
「今帰りかい? 良かったら一緒に帰ろうよ」

 木崎とは帰る方向が途中まで同じなのもあったし、その誘いを断るわけもなかった。散々学校で喋ってはいるけれど、話題は尽きる事もなく、クラスメイトの話やら教師の話やら昨日見たテレビの話やら。
 何気ない日常の会話を繰り返しながら、二人は地下鉄へと続く道のりを進んだ。

「そういえばさ。今日の取材だけど、お前すごい有名人みたかったよ」
「そう? 超緊張してたし、正直何話したかほとんど覚えてないけどね」

 だけど自分に話す時はやはり前と変わらない、少しぼーっとしたままで間の抜けた姿の木崎に戻る。そのアンバランスさも柏木にとってはこれまでに出会った事のない人物である事を強く印象付けて、自分の心を掴んで離さないのだった。

 ふと、お互い会話が途切れて何も言わない時間が訪れる。乗車しながら、客の流れに沿うようにして足を進めていく。地下鉄が走り出してからも、黙ったままだ。

――何でだろう……

 いつもは何とも思わない筈なのに、何故か今は沈黙でいるのがやけに気まずく感じられた。無言でいると、嫌でも木崎の存在を強いくらいに認識させられるからだ。それだけでなく少しでも長く何か話していないと――という、これまで感じた事もなかった焦燥感が柏木の中で生まれていた。
 何か。何か。何か……こんな気持ちになったのは初めての事で、とてつもなく戸惑った。

「あ、あのさ」

 その時、ちょうど二人分の席が空いた。手前の座席だったので、二人はそのまま腰かける事にした。座りながら、柏木の方が話を続けた。

「俺、あんま詳しくないけど今日の九十九さんってあのひと、めちゃくちゃ凄い人らしいな」
「うん。本物はやっぱりオーラが凄かったよ、何せ格闘王と呼ばれた人だからね」

 その話題を待ち望んでいたかのように、木崎の目が嬉しそうに輝いたのが分かった。

「素人の俺が見ても分かったよ、それ」

 その姿に和んだように柏木が呟くと、続けざま木崎は身振り手振りを交えつつ興奮気味に語り始めた。

「あの人は本物だよ。今は一線を引いてしまったけど、あの戦いは伝説に残るものだった。緊急特番中継が始まったのは突然だったし見れたのは途中からだったけれど! あれ、八百長とか片ヤオとか囁かれていたけどそんなわけがないよね。今でもあの興奮はハッキリ覚えてる」
「……うーん、実は俺あまり興味なくて見てなかったんだよなあ。あの時はK-1筆頭に格闘技がすごい流行ってたのは覚えてるけど」
「何でだよ、もったいないな。あんな凄い試合、きっともう一生見れないよ」

 話題になったその試合だが、殴り込んできたという格闘家のアンドレ・カーターはカナダでも有名な選手だったそうだ。空手だけじゃなくムエタイ、ブラジリアン柔術の黒帯を所持し、パンクラスではヘビー級の階級持ちにして、全欧キックボクシング選手権の優勝の経歴もある誰もが認める本物だ。

 それで、柏木がまだ小学校低学年くらいの頃になるだろうか。

 当時、フルコンタクト空手出身のK-1格闘家が大きく話題になり色んなテレビ番組に姿を見せていた。彼はスイス人であったが、日本の空手アニメに影響されて極真の道に進んだという経歴があり、日本語もそれなりに達者だった。勝ちも負けもKO決着の多い『倒すか、倒されるのか』の戦績、格闘家としては決して恵まれているとは言えない程々の体格でありながらも強豪達と戦うスタイル――何より日本びいきのユーモラス溢れる性格が世間に受けたのもあり、彼の存在がその時の莫大なK-1人気を作り上げたといっても過言ではなかった。

 選手の露出やその風潮も手伝ってか、『空手』自体がメディアからも大きく注目されていた。その流れに便乗するように、例のアンドレ・カーターは自分の名を知らしめようとして乗り込んできたのだという。
 その時に、その場に居合わせた事でアンドレの相手をしたのがあの九十九氏だった。道場で生徒達に稽古を教えていたのだ。

 九十九氏との試合に対し、アンドレは当初乗り気ではなかった。彼が相手にしたかったのは、例のスイス人選手だったからだ。しかし、九十九氏からの『自分に勝てば彼と戦わせる場を授けてやる』という条件を飲み、その“試合”は始まった。

「……ルールはインターバルなしの無制限。どういう形であっても先に倒れた方が負け、反則行為は基本的に『なし』とされる。何でもありの、要はスポーツとは違う本当の戦いだ。お互い何をされるか分からない、金的を蹴られるか、それとも骨をへし折られるか、目を突かれるか、歯を折られるか――両者共に、下手したら一生車椅子ともなるかもしれない緊張の戦いだった筈だ」
「けど、よくそんな事やろうと思ったよな。あの、九十九さんって。人は見かけによらないって言うけど……しかし、海外のどう見てもガタイのいい選手と正面から殴り合うなんてどう見てもフェアじゃないよ。結果それで耳を千切られたんだっけ? そこまでやられたのに八百長なわけはないよなぁ」
「それだけじゃない。九十九さんはアンドレの拘束から逃れる為に、自らの肩を外して、絶体絶命のピンチから見事な逆転劇に立ち回って見せたのさ」
「か、肩を?」
「そう。柏木くんの言った通りだよ、体格差も体力差も外国人選手とでは歴然なものがある、正面から殴り合っても『勝算はない』と九十九さんは初めから分かりきっていた上でその戦いに乗った。彼は勝つ為に、只、力技だけで切り抜けるだけではない『策』を張り巡らせたんだ」

 正直言って一般人からすればそんなもの正気の沙汰とは思い難いわけだが、何となく、男には引けない瞬間がある――っていうのはそういうものなのかな……と感じた。
 そりゃあ、自分にはそこまで命や身体をかけてまで戦える度胸は備わっていないと思うが、自分が、そう――部活動であの顧問のイビリに負けたくないように、九十九氏もその相手からの威圧に屈したくはなかった。だから、挑んだ。重さは全然違うし比べ物にならないだろうというか並べるのもおこがましい、が、根っこにあるものはおんなじのように感じた。

「――柏木くん」
「え?」
「俺さ……、叔父さんに相談してみようと思うんだ」
「……? 何、を?」

 ふと、木崎は何か決意を固めるようにしながら、膝の上で拳を強く握り締めていた。強く握るあまりかほんの僅かにその拳が震えた。

「俺、型は大好きだよ。楽しいし、絶対に極めたいと思う。……でも、今日、本物の九十九さんに会ってみて、何か――もっとこう、上を目指せないのかなって凄い感じて。殴り合いたいとかそんなんじゃないけど形になるものが欲しい。ちゃんと、残せるものが欲しいんだ」
「……木崎……」
「叔父さんを説得してみる、俺に型以外の稽古をつけさせてくれって。そして、どんどん試験を受けていつか黒帯を取って――九十九さんに追いつきたいって」
 
 そんな木崎の姿を見るのは仲良くして以来、初めてだった。本当に色んな表情を知っていく。不思議でもあり、何故か寂しくもあった。けど、頷いた。

「木崎、応援するよ……お前の事。俺は絶対に何があってもお前の味方でいるし、何かあったら力になれる事なら何でもやるさ、今まで通り勉強だって教えるから学力のせいで空手続けられない、とかにはさせないよ」
「ほんとかい? 柏木くん」
「ああ。勿論。……あッ、けど、組手とかの相手はちょっと嫌だな……痛いのはちょっと……」
「――え。正直、今の俺はそれが一番必要なんだけどなあ。叔父さんはきっと強いだろうし下手したら怪我をするからね。大丈夫だよ、きちんと加減するし痛くない受け方も教えるから」

 目を細めて笑う木崎にうっかり和んでしまいそうになるけれど、騙されるものか。いやいや、と苦笑交じりにそこはしっかりと丁重に断っておく。

「俺、ここで降りなきゃ。悪いけどその話はまた今度で」
「あ。さては逃げたね、柏木くん」 
「に・逃げてないって。……じゃ! また明日な」
「うん。明日ね」

 慌てるようにしてそそくさと座席から立ち上がると、柏木は人ごみを掻き分けるようにしながら降車していったのだった。その時、彼がほんの一瞬ばかり片脚をやや引きずるようにしていたのに木崎は気付いたが――その場では特に指摘しないでおいたのだった。


 帰宅後、その日は珍しく父と揃って夕食を共にした。巨人戦のナイター中継が放送されていて、ひいきの球団がいないと日頃そこまでプロ野球には熱中しない父が珍しくチャンネルを合わせていた。

「……友樹、野球好きか?」
「え?」

 夕飯を作るのは残業がない時は主に父の役割で、母と比べるとメニューも決して豊富ではなく、味付けも濃いものが多かった。炒め物が中心で、煮物やサラダ等は滅多に並ばないのもいかにも男の料理といった具合だ。

「部活、いつも遅くまで頑張ってるだろう。野球は小学校の時もやっていたけど、その時よりも楽しそうに見えたから」

 楽しいか、と聞かれたら少し違うような気はするけれども。柏木は持っていたおかずの乗った器を傍らに置いた。

「う〜ん……まあ、きついけどね」
「そりゃあ楽な部活なんてないさ。運動部でも文化部でも競い合うものがあったら一等賞目指してみんな頑張るからね」

 何というか――久しぶりに、父ときちんと向かい合って会話をした気がした。正面から見た父はこんな顔をしていた。父はこんな声をしていた。父はこんな喋り方をして、こんな笑い方をするんだった。……何もかも忘れていた、今更思い出すなんて。

「……父さんは部活、何してたんだっけ」
「陸上。槍投げではそれなりだったんだぞ、これでも」

(何だ。ちゃんと喋れてるじゃないか、俺。今まで何を怖がってたんだろう)

「練習、きつかった?」
「そりゃあもう。先輩達からは奴隷のように扱われていたし、鍛える為に山奥の学校にまで毎朝一時間かけて電車やバスどころか自転車も使わずに歩いて通ったさ。後輩達にレギュラーの座を譲るなんて、死んでも嫌だったから」

 つけっぱなしのテレビから流れる野球中継が、歓声を上げたのが聞こえてきた。実況の興奮した声が、続けざま響き渡った。結局その日はナイターが終わるまで、そうやってずっと話し込んでいたせいで、寝るのがいつもより遅くなってしまった。部活で疲れ切っていたけれど、構わなかった。








いい話ダナー
しかし黒井がいい話で終わらせるわけがないのは
みんなもう知ってるね??
このスイス人の格闘家はアレですよ、アンディフグを思い浮かべて欲しいです。
アンディ、まだ35歳で死んだのか〜〜〜格闘家としてはまだまだこれからじゃん……。
白血病かあ、無念だっただろうな。
アンディを知らない若い女子にざっくり説明すると踵落としが有名な選手だよ。
CMで片言の日本語で「ご〜めんなさいご〜めんなさいよ〜」って言ってた人だよ。
当時の小学生は踵落としと一緒にみんな真似してたよ。
危険だったからよく終わりの会で問題視されてたよ。

21、あの日

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