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あなたが好きです。
そう言えればよかったのに。
手を伸ばしてもあなたは先生。
私は生徒。
「……おい、聞いているのか」
「えぇ、聞いてますよ。伊黒先生」
机に置かれたきれいな指に顔を上げれば不機嫌そうな伊黒先生。
あぁ、かっこいいな。
今私は伊黒先生による補習を受けている。
別に頭の悪い方じゃないけどあえて伊黒先生の担当教科は落とすようにした。
そうすればこうして授業だけじゃない時間も一緒に居られる。
「…はぁ」
「ちょっと、何でため息つくんですか」
「お前、ずっと聞こうと思っていたが何故俺の教科だけやる気がないんだ」
「やる気はありますよ」
テストはやらないだけで、と心の中で前の人の椅子に腰を下ろした伊黒先生に付け足す。
伊黒先生の授業は分かりやすい、と思う。
必要な事を必要な分だけ教える。
それ以外基本的に蛇足をしない。
だから伊黒先生の授業で赤点を出す生徒は居ない。
「何か理由でもあるなら言え」
「しいて言えば伊黒先生の顔がいいくらいです」
「………」
「ドン引きしないでくださいよ」
袖の長い白衣で口元を隠した先生に頬をふくらませる。
そんな所も好きだしかっこいいけどさ。
「ねぇ、先生」
「…何だ」
「先生はお付き合いしてる人って居るの?」
「は?」
頬杖つきながら伊黒先生の白衣を引っ張ればとても迷惑そうな顔をされた。
これだけかっこよければ引く手数多ではあるのだろうけど、そこかしこに女を作るような人ではないからもしかしたら好きな人か付き合ってる女性がいるのかも知れない。
「生徒が先生にそんな事聞くな」
「何でよー。いいじゃん別に、減るもんじゃないし」
「そういう問題じゃないと言っている。それにこんな無駄話の為に俺の貴重な時間を割いてやっているんだ、さっさと終わらせろ」
「えー」
このままじゃ何も教えてくれないで終わってしまう。
どうしようかとシャーペンをくるりと回しながら私を睨んでいる瞳を見つめた。
好きです、なんて言ったらこの瞳はどんな反応をするんだろう。
驚きに目を見開く?
それとも眉を寄せて目を吊り上げる?
どれもこれも私の想像でしかない。
もしかしたら表情を変えることもしないかもしれない。
「ねぇ、伊黒先生」
「今度は何だ」
「早く帰りたい?」
「…分かっているのならさっさとやれ」
ついに俯いて額に手をやった伊黒先生に今度は私がため息をつく。
そんなに帰りたいオーラ出さなくてもいいじゃん。
「分かった、ちゃんとやるよ」
「最初からそうしろ」
「先生の好きな人教えてくれたらね」
「……お前は」
心底呆れたような目をしないで。
私だって必死なんだよ。
そんな気持ちとは裏腹に顔だけは悪い笑みを浮かべて伊黒先生の口元に耳を寄せる。
「…どうしても知りたいか」
「とっても」
「なら教えてやる」
はぁ、とマスク越しに聞こえたため息が耳に直接響いて何だかいけないことをしている気分。
きっとこうして伊黒先生に会うのも後少しだし、返答次第では卒業までに気持ちを切り替えなきゃ。
「…俺に恋人は居ない」
「は?」
「ほら答えてやったぞ。さっさとやれ」
「……もー!伊黒先生の意地悪!」
「煩い喚くな」
「質問の答えになってないじゃん!」
無駄にドキドキした私の時間を返せ。
じたばたと手足を動かせば得意げな顔をした伊黒先生が身を引いて自分の腕時計に目をやる。
「もうすぐ下校終了時刻だぞ。冨岡に出会して面倒事になるのはお前だ」
「ムキーッ!」
「あいつに追い回されるのを俺は楽しみながら見てやる事になりそうだな」
「もう!やりますよ!」
冨岡先生にお説教されるのは勘弁願いたい私は仕方なく目の前の補習課題をすらすらと解いていく。
そんな様子をじっと伊黒先生が見ているなんて思わずに、最後までそれを終えた私は半ば自棄糞になりながら渡した。
「はいっ、終わりましたよ!」
「やれば出来るじゃないか」
「やめてくださいなんか塾のCMみたいな事言うの」
「知らん。終わったならさっさと帰れ」
課題に目を通す伊黒先生に犬を追い払うような仕草をされた私はいい加減腹が立ったので華奢な肩を掴んでこっちへ振り向かせた。
精一杯の私の仕返し。
マスク越しにほっぺたへキスして、横に掛けてあった鞄を引っ掴み全力ダッシュで教室を出た。
扉を出た瞬間振り向いて見た伊黒先生のあの顔。
(ざまーみろ!)
女子高生だからってナメて掛かるのが悪いんだ。
この際彼女が居たって好きな人が居たって関係ない。
私は私の気持ちをとことん大切にしてやる。
「おい」
「何っ……デショウカ、冨岡センセイ」
「廊下は走るな」
その後しっかりきっちり冨岡先生に叱られた私を伊黒先生が笑いながら見ていた事に気が付くのはもう少し後の話。
おわり。
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