「別れよう。もううんざりなんだ」
2年とちょっと付き合ってる間、浮気ばっかりされて、都合のいいように呼び出されては振り回されて。覚悟して別れを口にすれば、やっぱりぐずぐずと引き止められた。
別れることは難しくない。言うべき言葉と言わざるべき言葉さえ決めていれば。
そう教えてもらったとおりに実践する。テストの問題を解くのと同じだと思えばいい。心の中で自分に言い聞かせながら、淡々とバッグに荷物を詰めていく。
「お前はそれでいいのか? 俺はお前じゃないと駄目なんだって。やり直そうって言ってるじゃん」
グチグチと言われても、いちいち言い返さずにやり過ごすこと。今までは、別れを切り出しては何回も絆されることの繰り返しで、結局駄目だった。俺はもう気づかなくちゃいけないんだ。『今度こそ』なんてもうないんだって。
「必要なものは、持って行くから。何か残ってても、それはいらないから捨てといて」
1年と8ヶ月、半同棲みたいに過ごした部屋。別の誰かを連れ込んでるんだなと気づいても、気づかないふりをしてた。それでやっていけると思ってたし、いつかは帰ってくるんだろうなと期待してた。だけどいつまで経ってもそのいつかは来なかった。神経は少しずつ、けれど確実に磨耗していった。
「好きな奴でもできた?」
投げやりな言葉にカチンと来た。まるでこっちが悪いみたいな言い草だ。浮気ばっかりしてたくせにどの口がそんなことを言うんだと腹が立ったけど、それを言い返してしまえば不毛なやり取りが続くこともわかってた。
「別に」
言いたいことは山程あった。それでも、俺が口にできる言葉はあとたった一言しか残されていない。
「じゃあね、さよなら」
駅前の繁華街は賑わっていても、住宅街に入れば夜道は随分と寂しい。 足を進める度にボストンバッグの重みが腕にくる。いっその事全部置いてくればよかったなと思う。 1週間ぶりに帰る、今まではちょこちょこと荷物を取りに来るだけだった家。こんなに遅い時間だから、家族はもう寝てるだろう。
空を見上げれば、ぽっかりと丸い月が浮かんでいた。自分が歩くと同じように月がついてくることが、子どもの頃は不思議で仕方なかった。 地球と月の距離が38万キロもあるから、少しぐらい歩いても月の見える位置や大きさは変わらない。だからついてきてるように見えるんだ。そう教えてくれたのは、幼馴染みだった。
ふと前を向けば、遠くに誰かが立っているのが見えた。 歩みを進める度に大きくなる影に、ああこの距離は月と比べものにならないぐらい近いんだなと馬鹿みたいなことを思う。
「奈知」
手を伸ばせば届く位置から、幼馴染みはそっと俺の名を呼んだ。 差し伸ばされた手が、ボストンバッグを掻っ攫う。自由になった掌が冷たい空気に触れて、妙に淋しかった。
「ちゃんと別れてきた?」
「晃が言ったとおりにできた、と思う」
そう答えた拍子に鼻がツンと痛くなってそのまま俯く。
「うん、えらいね」
ふわりと大きな掌が頭を撫でた。そのぬくもりに胸がずくんと痛む。 あと5分もあれば、家に着く。そのわずかな距離を、俺たちは並んで歩き出した。 浮気をされる度に晃に相談して、でも好きだから別れたくないんだと駄々を捏ねて、一体どんな気持ちでそれを聞いていたんだろうと今となっては申し訳なく思う。
『奈知のことが好きなんだ』
そう聞かされてから、もう2週間になるだろうか。小さな頃から傍にいた幼馴染みから急にそんなことを言われて戸惑ったし、何よりも俺には一応別れられないぐらいに好きな彼氏がいた。あまりにもいろんな弊害があって、その気持ちは受け入れられそうになかった。
黙って歩いていると、付き合ってた頃の想い出がチラチラと脳裏をよぎっていく。 付き合ってるのに何度も浮気されたって、俺のことも本気じゃないんだろうなとわかっていたって、それでもやっぱり好きだったんだ。 考えるとまた泣きそうになって、それを抑えるためにそっと息を吐いた。
「俺、今すごく無防備なんだけど」
ぽつりとそうこぼせば、晃は小さく肩を揺らす。
「そうだね。今押したら、奈知は簡単に俺のものになっちゃうな」
月灯りに影がふたつ伸びる。20センチにも満たないわずかな距離。このふたつがひとつになることは、きっと難しくはないんだろう。
「だけど、簡単に手に入るものは簡単に失うからね」
だから今日はここでバイバイ。
家の前でボストンバッグを渡されて、一瞬だけ手が触れ合った。その手が名残惜しそうに俺の頭を撫でる。
「おやすみ」
優しい声だった。それだけで、今夜をきっと超えられると思った。
「……ありがとう。おやすみ」
踵を返した背中に声を掛ければ、振り返りもせず右手が上がる。この距離がゼロになるまで、あとどれだけの時間が必要なんだろう。
小さくなっていく影から視線を逸らす。2人の距離が遠くないことを確かめるために、もう一度空を見上げて目で月を追いかけた。
"Fragile" end
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