黄猿にいびられる


断じて不覚を取るべからず。全周警戒を怠る事なかれ。とは、ルクスが訓練生時代に賜った訓示である。油断するな。奇襲に備えよ。いかなる攻撃にも対処せよ。しかしそれは、敵との交戦時に限った心得だったはずである。



すり――、と耳の形をなぞられたのは不意打ちの出来事だった。産毛を擽られる感覚にルクスはぞっと総毛立ち、「ひっ」小さく悲鳴をあげる。
塩ひとつまみを加えるときの動きに似ていた。かさついた指の腹による摩擦は虫の歩く感触を想起させ、ルクスは電波にふれたようにその場から飛び退く。飛び退いた先でローテーブルに足を引っ掛け、背中から盛大に転んだ。

「インクがついてたもんだからねェ〜〜」
「…………」

ぶちまけられた書類が二人の合間をはらはらと舞う。いい年した男が無様に転んだというのに、ルクスの直属の上司にあたる黄猿はそしらぬ顔だった。彼はこの執務室の主、無礼だと叱責されないだけ、まだマシなのかもしれないが。
とはいえそもそも耳にインクなど付くものだろうか。からかわないでください、と口を開きかけたルクスだが、偽りだと断言できる証拠もなく、すべて事実であったのだと自分に言い聞かせた。

「あ、りがとう、ございます」

黄猿は相槌のような鳴き声のような声を鼻から洩らし、ハンカチを取り出して指をぬぐう仕草をする。偽りだと言うならば手の込んだ演技である。疑い過ぎのようだ、とルクスは夕刻の疲れた脳に反省を促した。
彼が副官に抜擢されて一週間。優秀でなければ選ばれない役職に就き、喜び勇んでいたのは最初だけ。いまだ補佐役としての立ち回り方を――というより、いま傍にいる上司との付き合い方を上手く掴めていないことに、心には黒雲が垂れ込めていた。

「さっさとォ、起きたらァどうだい」
「すみません……、……?」

立ち上がろうとしたルクスの前に差し出された手は、一般的にいえば道徳的な振舞いだ。断る理由もない。それでもしばしその手を取ることを躊躇われたのは、黄猿が、目の前の男が、いつもより三割増しで口角を上げていると理解できてしまったから。
楽しんでいる――……?いや、だからといって先程の不意打ちに悪意があったという証拠にはならない。ならないのだが、どうにも差し伸べられた親切をすんなりと受け入れる気持ちにはなれず、ルクスは適当な理由を見繕って断ろうとした。「あの、」だがその心を読まれたかのように、黄猿の足が大きな一歩を踏み出してくる。
腰を深く曲げうでをよく伸ばされたことで、ルクスが立ち上がる軌道上に深く入り込まれてしまった。「どうしたんだい〜〜?」まっすぐに落とされる視線に神経が細る。拒否を拒んでいる、とルクスは感じた。勘違いかもしれないが、勘違いではないかもしれない。退いてください、とはさすがに言い出せなかった。

「……ありがとう、ございま、」
「よっとォ〜〜〜〜〜〜」
「う、わっ」

合図もなしにぐうんっと引き寄せられた体は、すぐに立ち上がれたは良いものの重心が大きく傾いてしまう。成人している男相手だからといってそこまで力を込める必要はあっただろうか。お蔭様で勢いに負け、ルクスの足は縺れてしまう。ゴンッ。「いッ」したたかに打ち付けた。脛を。ローテーブルに。悶絶する痛みだった。ダンゴ虫のように丸まり、しばらく動けなくなるくらいには。

「おー……悪いねェ〜〜、勢い余ったみたいでェ〜〜……」
「っ……書類を、踏んで、しまいました。申し訳ございません……」
「……ん〜?本当だねェ、まァ気にしなくとも大丈夫でしょうよ」

言われずとも気にはしていなかった。心からの謝罪の気持ちを向けるとするなら、この書類の届け先となる部署や人にだ。間違ってもピカピカ光る捉え所のない人間相手にではない。
あんたの所為だ、という言葉を飲み込める程にはルクスは大人だったが、糞野郎、という思いを顔に滲み出させてしまうくらいには未熟者だった。

「ずっと思っていたんだけどねェ、わっしは心配なんだよォ〜〜。ルクス君は隙だらけだからねェ〜……」
「……精進致します」

ここは海軍本部。味方に対してまで常に警戒せよとはなんとも可笑しな話である。だが明確に嫌われているとわかった以上、なんらかの対策を講じなければならない。
散らばる書類をかき集めながら、ルクスは光人間の弱みを握る算段を立てはじめていた。


≪  
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -