「あ!千晶ちゃーん!」
そんな第一声から入った貴子の呼び声に、なお君は苦笑して振り向きながらも立ち止まってくれた。そして、冗談交じりに腕を絡ませながら喋る貴子に、なお君はさらに苦笑しながら、私にどうにかしてくれと訴えかけてくる。が、私もその状況が面白かったので特に何もいうことなく会話を続けていた時だった。
「田代さん」
それは、英語担当の青木だった。清楚で生真面目さがよく伝わってくる彼女は、女子の取り巻きを引き連れているのを良く見るようになっていた。
「千晶先生のことは、ちゃんと千晶先生と呼びましょうね」
笑顔で注意する青木に貴子が押されながらも頷く。
「それから、千晶先生。意味もなく、女子生徒の身体に触るのはやめてください」
私たちはきょとんとした。え、何の話?と。今の今まで、なお君が私たちに触ってきた場面はなかったのだ。しかし、いち早くなんのことだかわかった貴子はなお君の腕を離して慌てて弁解した。
「ち、違うよ。青木センセ!千晶ちゃ、千晶先生がやったんじゃなくて、あたし!あたしが腕を組んだの。腕を組んだのはあたしのほう!千晶先生は悪くないよ!」
「あなたは悪くないのよ、田代さん。腕を組むのを拒まなかった千晶先生の方が悪いんです」
「はあ?」
「男性教師と女生徒が腕を組んでいて、悪く言われるのは女生徒のほうです。たとえ田代さんのほうから腕を組んだにせよ、田代さんのことを大切に思うのなら、キッパリ断るのが教師です。そうですよね、千晶先生?」
あれ、そういう話だっけ?というか、そういう時に悪く言われるのは、女生徒よりも男性教師じゃないだろうか。男性教師のほうが、女子高生の体に触って喜んでるんだ気持ち悪いとか言われそうなものだけど、そうじゃないの?
「ご高説痛み入ります」
なお君は頭をかいた。しかし、その表情は聞く気はなさそうだ。
「いいのよ、田代さん。あなたは何も知らないのだから。それを教えるのが、私たち教師です。それからね、男子のクラスメイトは、君付けじゃなくて、さん付けで呼びましょうね。呼び捨てや、ちゃん付けなんてもっての他ですよ。それが社会の常識です。社会に出た時に困るから、今から習慣づけておきましょうね」
私は口をぽかんと開けてその様子を見ていた。
さん付けって。せめて君付け、いや、同級生にそんな丁寧な接し方されたら、嫌われてるのかと思って凹むわ。
「それから、田中さん」
思わず、こっちに来た!と一歩後ずさりしてしまった。
「田中さんのお家お事情は聞きました。とても悲しい思いをされたのね」
「え・・・?」
思わずなお君の方を見た。なんでそんな話しが知れ渡っているんだろう。担任でもない教師に。それとも、教師一同、そういう問題ありそうな生徒は知っておかなければならないものなのだろうか。うん、そうなのかもしれない。
「田中さんはとてもよく頑張っています。田中さんはとても可哀想だけれど、それにめげずに頑張っていきましょうね。女性にしか相談できないこともあるだろうし、私はあなたの担任ではないけれど、英語の教科担任だし、何かあった時は遠慮なく相談してね。いつでもお話を聞きます」
はく、と息を一つ飲み込んだ。
言いたいことはいろいろと頭に浮かんでくるのだが、どれもこれも、反発するような言葉しか出てこない。
「・・・・・・ありがとうございます」
「苦労をしているのは田中さんだけじゃないわ。不幸に負けず頑張っている人は大勢います。あなたは決して孤独じゃないのよ。お母様も、すぐに見つかるわ。だから、一緒に頑張っていきましょうね」
あーあ。よくもまあ、人の個人情報をペラペラと。
視界の端で、貴子たちが驚いている様子がよくわかった。まあ、今までそういうお家事情を何一つ話してこなかったし。わざわざ言うことでもないと思っていたし、貴子たちもなんとなく察して聞かないでいてくれたのを知っているからだ。
言いたいことだけを言った青木は満足げに立ち去って行った。
「・・・・・千晶先生。ちょっと、聞きたいことがあるんですけど」
「・・・生徒指導室に行くか?」
「お願いします」
思わず声が低くなるのは仕方がないと思う。冷静になろうとすればするほどイライラが募って行く。
「ごめん。あとでちゃんと話すよ」
「わかった。先に教室に戻ってるからね!」
頷いてくれた貴子、由衣、桜子に手を振ってなおくんとともに生徒指導室へ向かう。
二度目の生徒指導室に入ってから、私はようやく大きく深呼吸をした。
「あー、イライラする」
「まあ・・・、よく我慢したな」
「青木先生と話したのって初めてだけど、まじで何なの??いや、イライラはするけど、その前に、私の事情って先生みんな把握してることなの?」
「あー、まあ、教科なり担当するなら、な。家庭の事情があるやつとかは、注意して見るようにということである程度情報が共有されるんだ」
「へえ、そう・・・。にしてもさあ、あー、もう。貴子たちにいらない気使わせちゃうじゃん?なんでああも人んちの事情をペラペラと」
「なんだ、田代たちには話してなかったのか」
「うん。別に言ってもいいんだけど、聞かれなかったし・・・。っていうのはずるいかなあ・・・」
まあ、なかなか家庭に事情がありそうだと感づいていて、どうなのって聞いてくる人はいないよね。いたら勇者だ。それか、どうじようもなく空気が読めないまたは天然なのだろう。
なお君はちょっと笑って、私の頭を撫でた。
「ずるくないさ。聞かれたら答えるんだろう?」
「まあねえ。貴子たちのことは信用してるし。他だったらどうかわからないけど。っていうか、ちゃんと相談する人も、事情を話す人も、自分の目で見極められるっつうの」
「うん。そうだな」
頷いた時のなお君の顔がとても優しくて、なんだかイライラも吹っ飛んでしまった。
「あの調子で、家庭に事情がある子全員に接してるんなら、キレる子ぐらい出て来そうだよね。稲葉とか」
「稲葉はそんなに喧嘩っぱやいのか?」
「喧嘩してるところは見たことないけど、意外と短期だよ。だからって、我慢するところも知ってるし、今自分がどうこうしたときに誰に迷惑かかるかもわかってるでしょ。稲葉はバカじゃないし。だから、キレても手をあげたりはしないけどね。次もあんな感じの爆弾を落とされたら、私がキレない自信ないなあ」
「ああいう人種に何をいっても通じないからキレるだけ損だぞ?」
「はははっ、そういうこと、言ってもいいの?」
なお君は窓をあけ、タバコを取り出した。
「まあ、そうだね。かけたい労力でもないし。うまく流せるように頑張るよ」
「お前も結構言うようになったなあ」
「千晶先生の教育の賜物です」
わざと慇懃にそう言ってみせると、とても嫌な顔をされた。それに笑って、最後は生徒らしく、失礼しましたー。と生徒指導室を出た。
さて問題は貴子たちかなあと思って教室へ向かうと、どうやら再び青木が襲来していたらしく、キレ気味の稲葉たちがいた。