“大丈夫か?”
差し出された大きな手。眉を八の字に下げ、こちらを見下ろす顔は今でもはっきりと思い出せる。掴んだ手は私の手をすっぽりと覆い隠せるほどで、私を引き上げたその腕はとても力強かった。
私はヒーローだと思った。
「・・・・・懐かしい夢、見た」
隣をみると、いつのまに潜り込んだのかクリとシロがいた。クリはその日の気分で寝床を決めているらしい。長谷が来た時だけは決まって稲葉の部屋で3人仲良く川の字になって寝るのだ。
稲葉と一緒に登校しながら、ふわっと大きなあくびをする。
「寝不足か?」
「ううん。いい夢みたから、目覚めは良かったんだけど、まだ眠気は取れない」
「ふうん」
「それにしても、本当に滝できるのかな?」
「ああ・・・。風呂場に温泉作っちまえる大家だ。できるんだろうなあ」
「大家のハイスペックさが怖いよ。稲葉」
「俺もだ・・・」
うなだれる稲葉の頭の中には、きっと、アパートのどこかにできた滝に打たれながら修行する姿が思い描かれているのだろう。画家や詩人は温泉の横に作ってもらおうとか言っていたけれど、そんなこと現実的には不可能だが、あのアパートに限っては現実うんぬんこそ現実味のない話だ。
「そういえば、今日新しい担任になるんだよね」
「トシゾーちゃん、糖尿病だってな。それをいち早く掴んでくる田代が怖いぜ」
「貴子の情報網については探るだけ無駄だよ」
「田中も知らねえのか?」
「知ってるわけないじゃん。貴子の顔の広さったらないよ。もしかしたら私が寿荘にいることも掴んでいるのかもしれない」
「言ってないんだっけ?」
「聞かれてないからね」
「ずりぃ言葉!」
「処世術って言ってよ」
そんな言い合いをしながら私たちは登校した。
始業式。蒸し暑さの残る体育館に集められた一同の前に紹介された先生を見て、私は愕然とした。
「早坂先生の代わりの先生がすぐに見つかったのは、本当に幸運でした。千晶直巳先生です。簿記とパソコンが専門で、2ーCを担任します」
紹介されて頭を下げた男。上げた顔には見覚えがあるどころの話ではなかった。
それから私はどうやって教室に戻ったのかもわからないほど呆然としていた。頭が真っ白だったと言っていい。貴子たちがいろいろと言ってたけれどそんなことも頭に入らなかった。
私の頭の中はとてつもなく複雑に様々な感情が渦巻いていた。それは歓喜でもあったし、不満でもあったし、怒りでもあったし、安堵でもあった。
いつのまにか席についていた私は、教室に入って来た千晶直巳を見て、どういう表情を作ればいいのかすらわからなかった。
「校長に紹介してもらったが、千晶直巳だ。よろしくな」
「先生しつもーん!先生は独身ですかあ?」
「32歳、花の独身だ。実家は金持ちだぞ。ただし、俺とどうのなりたくても、それはお前らが卒業した後にしてくれ。卒業したらOKだ」
気だるげに話す彼は、ノリよく質問に答えて行く。その声を聞きながらも、私は頭を伏せた。
彼だ。彼がそこにいる。そう思うだけで心臓は爆発しそうだった。
なんていう皮肉な運命だろう。いっそこの運命を呪うべきなのだろうか。それとも両腕を広げて迎え入れるべき?いや迎えいれるしかないのだ。私に拒否権などないのだから。彼は私たちの担任の先生になったのだ。
彼が、目標を叶えていたことを私は喜ばなければならない。
1時間目も4時間目にあった簿記の授業も何事もなく過ぎた。
私も普通に生徒として授業を受けられるぐらいには回復していた。
しかし、まさか最後のホームルームで仕掛けてくるとはまったく思っていなかったのだ。
「じゃあ、それぐらいだな。あ、田中。ちょっと話があるから、このあと生徒指導室に来てくれ。じゃあ、解散」
周りから悲鳴が上がった。教師からの呼び出しを受けて、本人より周りが騒ぐとはと呆れる。
「ちょっと〜七海!なんであんたが千晶ちゃんに呼ばれるわけ〜?」
「もしかしてもしかして!七海を気に入っちゃったとか!?」
「んなわけないでしょ。たぶんバイトのことじゃない?掛け持ちしてるし」
「あー、そういうこと〜?」
「そうそう。だいたい、タイプは巨乳とか言ってたじゃん。当てはまらないんですけど。嫌味か」
むすっと拗ねながら言ってみせると、みんなそうだったーごめーんと調子よく謝ってくる。どうせ貧乳でチビですよ。
「じゃあちょっくら行って来まーす」
「七海襲うなよー」
「襲われたら明日自慢するわー」
適当に返すと、後ろで大爆笑していた。箸を転がしても笑う年頃だとよく詩人が言っていたけれど、まさにそれだ。ああいうセリフを真に受けて否定するよりも、冗談にして返した方が適当にごまかせるものなのだ。
私が生徒指導室に入ると、彼は窓際でタバコを吸っていた。その立ち姿すらも様になる。
「およびですか?」
「ああ」
ちょいちょいと手招きされて近寄ると、彼は私の頭の上に手を置いた。
「大きくなったな。七海」
「っ!!」
あの頃と何も変わらない大きな手だった。温かな手だ。私を簡単にすくい上げてくれる、ヒーローの手。
「・・・覚えてたんだね。私のこと」
「当たり前だろ」
「バカだなあ。そのまま知らんぷりしてたら、ちゃんと生徒やろうとしてたのに」
「俺が忘れてると思ったのか?」
「だって、なお君にとっては、近所にいた子供程度でしょう。また会えるとも思ってなかったけど、覚えてるとも思ってなかったよ」
「随分信用ないな。忘れるはずがないだろ。本当に、大きくなった」
なお君の手がゆっくりと頭を撫でる。その感触が随分久しぶりで、なんだか肩から力が抜けて行くようだった。
ひょんなことから出会ったなお君は、私の家の事情を知ると私の面倒を見てくれるようになった。できる限り一緒にいてくれるようになった。いられなくても電話をくれたりするようになった。私が知らなかった世界をたくさん見せてくれた。そして、いろんな人に会わせてくれた。
あの時、彼がそうやって外の世界に連れて行ってくれなければ私は小さな家の中で縮こまって、少しずつ衰弱して言っていたのだろう。
「にしても、本当になお君が教師をやってるとは・・・。なんかすごい感慨深かった」
「なんだそれ・・・」
「って、あれか。なお君って呼ばない方がいいね。千晶先生?」
「やめろ。お前にそう呼ばれるのはなんかむず痒い。他がいるときは困るが、二人っきりのときぐらいいいだろ」
本当に嫌そうに眉根を寄せるから思わず笑ってしまった。
「にしても、なお君も32歳かあ。ちょっとびっくり」
「おじさんだってか?小学生だったお前が高校生になるんだ。それだけの月日が流れたってことだよ」
「相変わらずかっこいいよ」
「そりゃどうも」
肩をすくめるなお君は、昔よりは渋さがましたけれどそれもまた一段とかっこいい。
「それより、早坂先生に聞いたんだが、おばさん失踪したって」
「ああ、うん」
「ああ、ってな・・・」
あっけらかんと頷く私に、なお君は眉をしかめる。その様子に私は苦笑いを浮かべる。彼がいるときにもよくあったことだ。そもそも、彼との出会いはあの人の失踪により空腹に飢えた私が外に飛び出したことがきっかけなのだ。
「知ってるでしょ。あの人のこと。あれは治らないよ。なお君と会わなくなってからも何度かあったし、今回はちょっと特殊だったけど」
「そういえば今、稲葉ってやつと同じアパートだってな?」
「うん。あの人さ、借金の形に家とか家具まで売ったらしくって。住む場所なくなっちゃったから、急遽稲葉のところに転がりこんだの。最初は稲葉の部屋に泊めてもらうつもりだったんだけどねー」
「はあ!?借金の形にって・・・」
「保証人になってくれる人もいないし、この歳でホームレスになるかと思って焦ったよ。でも、アパートの人の恩情で保証人がいなくても入らせてくれたから、今は下宿生活。みんないい人?だから楽しいよ」
いい人というところで思わず疑問形を浮かべてしまった。人であるかどうかはともかく、良くしてもらっていることには違いない。ただ、うまく説明できないところがなんともいえない。
なんてことないと聞こえるように言ったつもりだが、なお君の眉間のシワが深くなるばかりだった。
「おばさんは今どこにいるのかわかってるのか?」
「ううん。音信不通。行方不明。今回はさすがにびびった」
「びびった、って・・・。もっと他にあるだろうが」
「無いよ」
即答するとなお君は目を見開いた。その様子に苦笑する。
「もう慣れた」
「七海・・・」
「あの人には、もう諦めてるから。いいんだよ」
へらっと笑って見せた瞬間、腕を取られ、引き寄せられた。
固く、背中に回された腕。小さい頃にも何度も抱きしめてもらったが、それともまた違っていた。
洋服越しに伝わる体温。首筋をくすぐる吐息。鼻をかすめる香水の匂い。
昔とは確かに違う。でも、確かにあの頃、どうしようもなく安心できた腕の中だった。そういえば初めて会ったときもこうして抱きしめてくれたっけ。というよりも、ふらついた私を抱きとめてくれたのだが。あのときはたしか2日何も食べていなくて体がフラフラだったのだ。家の中に食料はない。買いにいくためのお金もない状態で考えた末に、家中であの人を待っていても空腹が癒えることはないと判断して、家を飛び出した。
今思い出してもぞっとする。そもそも、これだけ物で溢れている日本で飢餓感を覚えるってどんな状態だ。
とにかく、私は家を飛び出し、食べられるものを探して彷徨っていたが、力尽き転んだところをなお君に助けられた。転んだことを心配する彼に、お腹が空いたと訴え、ご飯を奢ってもらったのだ。あの日は地獄と天国をいっぺんに味わった日だった。
「・・・なお君、こんなところ人に見られたら、せっかくうちに来たばかりなのに他に飛ばされちゃうよ」
「バカ」
「えー?」
くすくすと笑う。なお君の大きな手が頭を撫でる。その感触に、目を瞑る。
彼とは、私が四年生に上がる頃に会えなくなった。
一人の女性の死。それが、なお君の道を変えるきっかけになった。
その人は、いつも快活に笑う人だった。女性なのに豪快で、言葉遣いだって悪かったけれど私のことをとてもよく気にかけてくれていた。忙しい合間を縫って会いに来てくれて、ちょっとしたことで褒めてくれた。とても、大好きだったお姉さん。
最後に会ったのは、彼女の就職が決まった時だった。
“あたし就職決まったんだ!これで教師になれる。七海!初任給が出たら、なんかうまいもん食いに行こうな!あたしの奢り!”
それが最後だった。
それから、彼女はもちろん、なお君とも会えなくなった。
当時、私も結構荒れたのを覚えている。大好きだった人たちに会えなくなり、また一人に戻ってしまったこと。悲しみをどこにぶつけていいかもわからず、消化の仕方も知らず、ただただ途方にくれていた。そのうち悲しみは風化し、家に一人でいることにも慣れて行った。
その頃には家事もなんでも一人でこなせるようになっていたし、あの人との付き合い方もうまくなっていたと思う。自分一人でも立てるようになったと自覚した時、きっとどれだけ待っていても、なお君とはもう会えないのだろうなと思った。彼は、私の境遇に同情し面倒を見てくれたのだ。一人でなんでもできるようになった今、彼が私の前に現れることはないのだろうと諦めた。
でも、何の因果か、彼は私の学校にやってきた。彼の、彼女の夢であった教師として。
「・・・私は、大丈夫だよ。なお君」
「七海」
「今はアパートの人たちが何かと話し聞いてくれたりしてるし」
「そう言われるのも、なんか寂しいな・・・」
苦笑するなお君に私も苦笑する。
「今日からは私たちの“先生”だからね。私が独占するわけにはいかないし」
私がそういうと、なお君は机の中を漁り始め、小さなメモ用紙を取り出すとそこに何かを書き付けた。
「前の携帯電話は壊して、連絡を取れてなかったからな。これ、何かあったら連絡してこい。何もなくてもいいから」
走り書きされた数字。それとメールアドレス。
「そんなことしていいの?依怙贔屓じゃん」
「教師の前に、お前とは知り合ってるんだからいいだろ。あ、だからって他に教えるなよ?」
「そんなことしないって」
「な?連絡してくれ」
なお君が冗談で言っているわけではないことはわかった。また、前のように接してもいいんだ。そう思うと嬉しくて仕方がなかった。
「くだらないことでもいい?」
「ああ」
「わかった。ありがとう!」
「話しはそれだけだ。行ってもいいぞ」
ぽんと背中を軽く押される。あまり長居するわけにもいかないのだろう。
「あ、稲葉と同じアパートに住んでるっていうのは誰にも言ってないから一応秘密で!あと、稲葉は私の経緯(いきさつ)も知ってるから」
生徒指導室を出て、手の中にある小さなメモを見る。それを見るだけでにやけが止まらなくなる。
「そうだ。まさ兄に連絡しなきゃ」
私はスキップしそうなぐらい浮き足立ったまま帰り道を進んだ。
「もしもし。七海です。今大丈夫?」
『ああ。珍しいな。どうした?七海』
「まさ兄に報告!なお君に会ったよー。しかも、なんとうちの高校に教師として来たんだよ!」
学校を出て早速電話をかけた先は、まさ兄こと神代政宗だ。なお君と連絡が取れなくなってからも、ちょくちょく連絡を取っている間柄である。なお君が大変だった時に私にそのことを伝えに来てくれたのだ。落ち着いたら連絡を取らせるからと言っていたけれど、私は意固地になっていらないと突っぱねた。
ちょうどその頃、母親が帰ってきて、しかも突如引越したのだ。そういうことも重なってなお君とは疎遠に。まさ兄は気にかけて電話をくれたり、会わせようとしてくれていたけれど、大変な時に私に時間を割かせるのは嫌で、なお君には私のことは内緒にしてもらっていた。
『そうか。やっと、会ったか』
「ごめんね。いろいろ・・・板挟み的な状態にさせてたよね」
『いや。それより、久しぶりのチアキはどうだった』
「相変わらずだったけど、あ、ちゃんと教師やっててなんか感慨深かった」
『ちゃんと教師やってるって・・・』
「だって、なお君っていつもまさ兄とかスティングレーとかにいろいろとやってもらってるイメージがあったんだもん」
『よく見てるなあ』
「まあね。・・・あ、あのね。まさ兄」
『なんだ?』
「い、いつでもいいんだけどさ、電話じゃなくて、会えたりしないかなあって・・・」
『・・・・やっと言ったな』
「え?」
『会いたいって七海から言うまでは会いにいかないことにしてたんだ。俺だけ会ったら、チアキに拗ねられる」
「え!そうだったんだ・・・。ありがとう」
『予定開けたら連絡する。うまいものでも食いに行こう』
「うん!楽しみにしてるー!」
家に帰り着くまで他愛ない話をして、電話を切った。なお君と会えなくなってから、私は私の意思でほかの人たちに会うこともやめた。そこまで迷惑をかけるわけにはいかないと思っていたのだけれど、思ったよりも気にかけてくれていたらしい。それを知れて、とても嬉しかった。
上機嫌で帰った私に、一色さんや稲葉は首を傾げていた。