雨が激しさを増す中、汽車が速度を落とし始めた。まだ城にはつかないはずだ。
窓の外をのぞくが、雨によって視界は最悪だった。一番後ろの車両にいることも関係しているのかもしれないが、汽車が止まった理由は窓からは判明しそうにない。
ハリーがコンパートメントから顔をだし、様子をうかがっている。他の生徒も同じように不思議に思っているのだろう。不穏なざわめきが廊下から聞こえてきた。
汽車がガクんと泊まった。そして、なんの前触れもなく明かりが一斉に消える。
「いったい何がおこったんだ?」
ロンがつぶやいた。その直後ハーマイオニーがうめき声をあげる。どうやらロンがハーマイオニーの足を蹴るか踏むかしたらしい。
「みんなあまり動くな。怪我するぞ」
「故障しちゃったのかな?」
「さあ…」
窓ガラスをふき、窓から外をのぞいてみる。かろうじて見える向こう側では何かが動き汽車の中へと消えていくように見えた。
「何かが乗り込んでくるみたいだ」
コンパートメントのドアが突然開き、空気が動いた。続いてネビルの声がしたかと思うと、クルックシャンクスの鳴き声もした。どうやらネビルがクルックシャンクスの上に座ろうとして怒られたらしい。
「私、運転手のところに行って何事なのか聞いてくるわ」
「ハーマイオニー」
手が宙を描く。引き止めようとして伸ばした手は、ハーマイオニーには届かなかったらしい。ドアを開ける音がしたかと思うと、どしんという音と痛そうな叫び声が二人分聞こえた。
「だあれ?」
「そっちこそ誰?」
「ジニーなの?」
「ハーマイオニー?」
思わず舌打ちする。そして俺はとりあえず向かいに座っているはずのリーマスへと腕を伸ばした。
「リーマス。起きろ。緊急事態だ」
彼の体がびくりと跳ね上がった。そして、飛び起きたかと思うとカチリという音のあとに、灯りが揺らめきコンパートメントを照らした。全員の視線がリーマスへと集中する。
普段は柔らかく垂れ下がっているリーマスの目が鋭くあたりを見回した。
「動かないで」
厳しい声がつぶやく。
気温が下がってくる。窓ガラスが白く凍り、呼気が色づく。隙間風が心の中に差し込んでくるかのような感覚に、ローブの中から杖を引っ張り出し廊下へと向けていた。その杖先にはリーマスが灯りを持ったまま廊下に出ようとしているところだった。
ドアがゆっくりと開く。ゆらめく炎に照らしだされ、入口に立っていたのはマントを来た、天井までも届きそうな黒い影だった。
すっぽりと頭巾で覆われているため顔は見えないが、唯一見えている手は灰白色に冷たく光り、穢らわしいかさぶたに覆われ、水中で腐敗した死骸のような手をしていた。
それはがらがらと音を立てながら長く息を吸い込んだ。
まるで目には見えない何かを吸い込もうとしているようだ。そして、おそらく吸い込んでいるのだろう。
ぞっとするような冷気が襲う。
咄嗟に俺は杖を振っていた。それはほとんど無意識だったといってもいい。
杖先から現れた銀幕はやがてライオンの形をとり俺たちの前に立ちふさがった。
黒い影はゆらりと退き、ライオンの形をとるころには廊下のすみへと逃げていく。
室内に温かみが戻るのはすぐだったが、心の中に入りこんだ灰色の風はなかなか体を温めてはくれなかった。
「祐希…」
リーマスがひどく驚いた顔で俺とライオンを見比べる。
しかし、説明している暇はなかった。ハーマイオニーが短い悲鳴を上げたのだ。みればハリーが倒れていた。全員がかけよりハリーを椅子の上にねかせる。彼は気絶しているようだった。
ハーマイオニーが何度もハリーの名前を呼ぶ中、俺はコンパートメントから出てディメンターの姿を探す。しかし奴らはすでにいなくなったらしい。汽車内に明かりが戻り、やがてゆっくりと汽車は動き出した。
コンパートメントに戻るとハリーがちょうど気を取り戻したところだった。
「でも、僕、叫び声を聞いたんだ」
「さあ、食べるといい。気分が良くなるから」
リーマスが巨大な板チョコを割りハリーに差し出す。
「あれはなんだったんですか?」
「ディメンター。吸魂鬼だ。アズカバンのディメンターの一人だ」
他のみんなにもチョコを配りながらリーマスが言った。そして、最後には俺にもチョコを差し出した。
「食べなさい。元気になる。私は運転手と話してこなければ。失礼」
リーマスは最後に俺に目くばせをしてコンパートメントを出て行った。
「ハリー、本当に大丈夫?」
ハーマイオニーが心配そうにハリーをじっと見る。
「僕、わけがわからない。何があったの?」
「おそらく、アイツらはシリウス・ブラックを探しに来たんだろう」
全員が一斉に俺を振り返った。空いていた座席にどさりと腰を下ろす。
あの連中と遭遇するのはあまり気分がいいものではない。それは、彼らの影響により呼び起される記憶があるからだろうか。
頭の中に鈍い痛みが走る。片頭痛のように、頭の奥で走る痛みに、顔をしかめた。
「君、なんだか硬直して、座席から落ちてひくひくしはじめたんだ。その時、祐希が何か呪文を唱えたら、ほら、あの時のライオンが祐希の杖から出てきたんだよあの銀のライオン!そしたら、あいつは背を向けてスーッといなくなったんだ」
続けてロンが、あの呪文は何なのか聞いてくる。
しかし、俺にはそれに答えるだけの余裕がなかった。
掌に震えが走っている。いまだに杖をしまうことも離すこともできない。
ジニーが隅の方で膝を抱え小声ですすりあげた。ハーマイオニーが傍に行って慰めるようにジニーを抱いた。
そんなことにも構っていられないほど今は余裕がなかった。
「祐希、大丈夫?君、とっても顔色が悪いよ」
「……ああ。俺もハリーと同じで影響を受けやすいんだろうな…。どうにも、あの類は苦手だ」
「へえ、君にも苦手なものがあったんだね」
ロンが無理やり口角をあげた。まるでそうすることでこの場の気温もあげようとしているかのようだった。それに合わせるように、俺も強がって口角をあげてみるが、ひきつった頬ではうまくいかなかった。
リーマスが戻ってきた。入って来るなり、彼はちょっと立ち止まりみんなを見回してふっと笑った。
「おやおや、チョコレートに毒なんか入れてないよ」
ようやくハリーがチョコを一口かじる。俺はすっかり手の中にチョコがあるのだと忘れていた。
リーマスが俺の隣に座ると、未だに震えが走っている手に持っているチョコを取り上げ、俺の口に放りこんだ。
「祐希」
顔を覗き込んでくるリーマスの顔には心配の色が浮かんでいる。
口の中にチョコレートの甘さが広がり、ようやく手足に感覚が戻ってきた。
「あと十分でホグワーツにつく。ハリー、大丈夫かい?」
「はい」
「祐希、少し寄り掛かると良い。君はあまり強がり過ぎない事だ」
そういいながら、俺の手の中から杖を抜き取った。代わりに、彼の手が俺の手を握る。少しカサついた手が俺の手を包み込む。温かいそれに包まれ、掌がどれだけ冷えていたのかを知った。
彼の言うとおりにリーマスの肩によりかかる。周りの目を気にする余裕も今はなかった。少しだけ目を閉じる。
耳の奥でこだまするのは、遠い昔の記憶だった。それが浮かび上がろうとしては必死に押しとどめるのを繰り返す。
ようやくホグワーツにたどり着いた時には少しばかり回復していた。
「祐希も悲鳴を聞いたの?」
「いや…、俺は……罪だ」
「罪?」
「ポッター、気絶したんだって?」
気取った、いかにもうれしそうな声が会話を遮った。それが言葉に少しだけほっとする。マルフォイはハリーの前に立ちはだかると。薄青い目を意地悪に光らせた。
「マルフォイも縮み上がっていたんじゃないか?それとも後ろのでかぶつを盾にして隠れていたのかな?」
「なんだと?」
「どうしたんだい?」
穏やかな声が遮った。リーマスが馬車から降りてきたのだ。
マルフォイはリーマスをじろじろ見る。あまりいい見た目とは言えないリーマスにマルフォイはあからさまに顔をしかめた。
それからリーマスとは別れ、校舎へ向かう。
今年はセストラルが率いる馬車らしい。醜い馬の姿が俺には見える。
しかし俺はそのことを口に出すことは無かった。