Stay Gold


※祓ったれ本舗パロディ

 都会の喧騒に沈む、揺れるシャンデリアの光に酒と煙草と香水のにおいに満たされた四角い箱。人の手によってつくられたきらびやかなハリボテで毎夜、夜の住人である私たちは与えられた役を演じる。相場なんて度外視した万札で、男性は乾いた日常を潤す束の間の享楽を買うのだ。
 夜も更けるにつれ時間の感覚も麻痺してくる頃、私が働く会員制ラウンジに今晩はちょっとした有名人が訪れていた。
「あそこの卓にヘルプで着いてくれる? 先輩の方は常連だけど、祓ったれ本舗はここの店はじめてだから。失礼のないようにね」
 バックヤードで経営者直々に念を押され、鏡越しに口紅を引き直していた私までかしこまって頷く。その名は芸能界に疎い私ですら聞き覚えがあった。
 五条悟と夏油傑。モデル顔負けのビジュアルと飛び抜けた笑いのセンスで、お笑い界に彗星の如く現れたホープだ。結成後早々にM−1だかR−1だかで上位に食い込み、この頃はTVの中にその姿を見かけない日はない。五条の月9ドラマへのゲスト出演、ワイドニュースでコメンテーターを務める夏油にコンビでのCMタレント業と、飛ぶ鳥落とす勢いの彼らの活躍は今や多岐に渡っていた。その有名人と今夜ここで卓を囲んでいるのだから、もし彼らの熱狂的なファンであれば夢のような心地になるのだろう。
 著名人と顔を合わせるのもこの仕事をしていればそう珍しいことではないけれど、まだ職歴が浅い私には若くして全てを手に入れたような男達がどのような女性を求めているのか皆目検討もつかず、黙々とアイスペールからグラスに氷を投入していた。事務所の先輩だという男芸人達との会話は他のキャストに任せ、辺りを珍しげにきょろきょろと見回している祓ったれ本舗の二人に目をやる。意外と遊び慣れていないのか、それとも女には困っていないからこんな夜の店には来るまでもないのか。しかし黙っていても絵になる彼らを世の女性たちが放っておくはずもなく、考えるまでもなく後者だろうとひっそり結論づけた。
「何かお飲みになりますか」
「オレンジジュース」
 そっけない返答が耳に届く。色素の抜けた前髪に照明が透けきらきらと輝いて、なんてきれいな男の人なのだろうと思った。
 場の空気なんて少しも意に介さない答えに少々面食らい、思わず目が点になる。これは高度なフリだったりするのだろうか。ツッコミ待ち? 手持ち無沙汰にマドラーをぐるぐると回しながら戸惑いを隠せない私に、左隣に座る夏油さんが人好きのする笑みを浮かべた。切れ長の三白眼が糸のように細められ、途端に雰囲気が和らぐ。業界人特有の完璧な営業スマイルだ。
「ああ、気にしないで。悟は下戸なんだ」
「そうなんですね」
「五条お前少しは会わせんかい! 後輩のくせにノリ悪いヤツやな!」
「ここでゲロ吐いてもいいなら飲むけど」
 先輩芸人のブーイングにも臆することなく、五条さんは鼻で笑い飛ばすとすらりと伸びる嫌味なほど長い脚を組み替えた。規格外の股下に性別が異なる私の方まで羨ましくなる。なんと言うべきか、地上波でのイメージ以上に不遜な人だ。芸能界にしろ水商売にしろこのような人気商売は人間関係が肝だろうに、良いのだろうかと他人事ながら心配になる。けれどもこの振る舞いも彼らの稀有な才能が為せる技なのだろうと、ひとり納得して「わかりました」と結露したグラスに浮きでる水滴をおしぼりで拭った。

 飲み会はそのまま滞りなく盛り上がり、数刻も経てば宴もたけなわといった調子だった。プロの芸人の集まりだけあってポンポンとテンポ良く会話のキャッチボールが弾む。ならば私たちの出る幕はないと、適切なタイミングで相槌を打ち口を挟み、時に小気味良く笑う聞き役へと徹していた。
 景気良く何本も下されるシャンパンに、ついにはテキーラボトルまでが登場して、余興には趣味の悪い山手線ゲームが繰り広げられる。もちろん罰ゲームはイッキ飲みという不文律つきだ。参加者である私も例に漏れず、次々とシャンパングラスを空けてはすぐに新たな杯が注がれるの繰り返しだった。拒否権はない。
「はい、かんぱーい!」
 案の定アルコールで鈍った頭ではすぐにドジを踏んでしまい、さらに酒量が増えるという悪循環に陥っていた。しかし周囲から期待の眼差しを向けられコールまでされてしまえば、水を差すような真似はできない。飲むふりをしてこっそりとおしぼりを湿らせているのにも限界があった。
 まずい。座っているのにぐるぐると天井が回って、三半規管がバカになったかのように平衡感覚が狂いつつある。耳に入るすべての音が籠ったように聞こえづらく、目の前で交わされる会話もいまいち頭に入ってこない。明らかに酔っている。今日は先に別の卓でもハイペースで飲んでいたから、既に己の許容値を超えつつあった。そう経たず呂律が回らなくなるであろう前に席を離れなければならない。裏で水をがぶ飲みしてトイレで吐けるだけ吐いてしまえば復活できるだろうか。無防備に晒された脇と背中にじっとり嫌な汗をかきながら、回らない思考を無理やりに回す。
 手元に目を落とせば、波打つ黄金色の水面には浮かない顔をした私が映っていた。いけない、こんな顔をしていては。一瞬だけ躊躇い、すぐに覚悟を決めた。咄嗟につくり笑顔を張りつけて人差し指と親指に挟んだグラスにグイと角度をつけたとき。
「貸して」
「え」
 不意に横から伸びてきた手がショットグラスを掴み颯爽と掻っ攫った。ぎょっとして固まる私を他所に、顎を上げコクリと上下する喉仏。関節キス、なんて私が気づくよりも早く代わりに勢いよくテキーラをあおった夏油さんは、そのまま飲み干すと親指でぐいと唇を拭った。その流れるような動作がいやに艶かしく様になっている。そんな彼の一挙一動から私が目を逸らせずにいるとカツン、とテーブルとガラス製の底とがぶつかる無機質な音にはっと我に返った。
「おいおい夏油、いくらその子がタイプやからってええ顔すんなや! 下心バレバレやぞ!」
「バレましたか? 勘弁してください。これくらいはカッコつけさせてくださいよ」
 私がなにか口を開く前に、他の野太い声にかき消された。夏油さんの粋な行いに場が湧く。しかし彼は私になんて見向きもせず、さっさと芸人の輪に戻ってしまっていた。口では私のことが好みなんて抜かすけれど、先ほどからそんな浮かれた素振りは一切見受けられない。おそらく酩酊状態の私を見かねての行動なのだろう。一方で取り残された私は突然の助け舟にどうしたものかと目を白黒させていた。
「ふーん。さすが女たらし」
「うるさいよ。悟」
 やけに含みのある言い方をした五条さんがサングラス越しにどこか呆れた目を向けている。この場で唯一アルコールを一滴も摂取していない彼だけが正気すぎる冷めた目をしていた。他の先輩芸人からも「こいつ手ェ早いからな! 気をつけてな!」なんて嘘か真か定かでないことを野次られようが、当の本人はどこ吹く風のようだった。
「失礼。お手洗いへ」
 囃し立てられながら皮張りのソファーから腰を上げた夏油さんに、横目で目配せをされる。その意図を察した私は慌てて席を立ち、彼の後を追った。

 さして間を置かずに『WC』のプレートが掛かった扉は開き、姿を現した彼に廊下で待っていた私は温かいおしぼりを手渡した。「ありがとう」と一言お礼を告げて手を拭く彼の顔色は平素と変らない。彼も先輩に勧められるまま杯を空けていたように記憶しているけれど、私などよりよほど酒に強い体質なのだろう。
「大丈夫かい」
「ありがとうございます。その、助け舟出してくれて」
「下品な飲み方して悪かったね。先輩連中を止められない私にも責任がある」
「いえ、その分お金落としてもらっているので……」
 無理やり飲まされたわけではない。無闇矢鱈に触ったり怒ったりしないぶん、この世界ではまだきれいな遊び方だと言えるだろう。けれども潔癖な性格らしい夏油さんは「ああいう馬鹿騒ぎは好きじゃない」と苦虫を噛み潰したような顔で眉を顰めた。
「体キツイだろう? この仕事」
「今日みたいにイッキとかさせられる時は、少し。慣れるかと思ったけどやっぱりお酒は強くないので」
「ああ、まだ歴が浅いのか。水商売」
 ざっくばらんな物言いに、もしかしたらこちらが夏油さんの素なのかもしれないと思う。実のところ私はTVの中で見る彼の、外向けの笑顔がほんの少しだけ苦手だった。そつのない優しさも隙のない所作も、まるで計算されたように完璧すぎて怖いのだ。有り体に言ってしまえば腹が読めなくて胡散くさい。そんな失礼な印象もたちまち吹き飛ぶほどに、今は彼の持つ飾り気ない優しさが酒浸りの体に沁みた。
 壁に背を預けた彼が、左手首の腕時計に目をやる。俯いた頭に、一房だけ垂らした前髪が振り子のようにゆらゆらと揺れた。
「もう少し時間潰してから戻るか。ここで吸ってもいいかい?」
「どうぞ」
 ゴソゴソとポケットを漁りながら「あ、ライターあっちに忘れてきた」と呟いた夏油さんも、やはりそれなりに酔っているのかもしれない。ポーチからライターを取り出し翳すと、煙草を咥えた彼が首を竦めてくれた。カチリと鳴らして、その先端に火を灯す。
 有害な煙を肺に行き渡らせるように、彼は一度深く吸い込んでからゆっくりと吐き出した。窄めた形のいい唇から筋状に立ち昇った煙がゆらゆらと揺れ、空気と混ざり合って溶けていく。窪んだ眼窩から薄いまぶたに落ちる仄暗い影がちらちらと濃淡を描き、大ぶりのピアスに長髪なんて尖った容姿も相まって本当によく似合っている。ただの喫煙でここまで噎せ返るような色気を醸し出す人間も珍しいのではないか。つい目を奪われていると欲しがっていると勘違いされたのか、夏油さんがぱちりと瞬きした。
「一本要る?」
「あ、違うんです。ごめんなさい。女の子は仕事中に吸うの禁止されてて」
「その口ぶりだと普段は吸うんだろう? あとで怒られたら私のせいにしておいてくれ」
「……じゃあお言葉に甘えて」
 彼が差し出した箱から、一本拝借する。銘柄を見て「結構重いの吸うんですね」と感想を述べれば「キツいやつじゃないと吸った気がしなくて」と色気もクソもない答えが返ってくる。打ち解けた、とまではいかずとも彼もまたステージを降りればさして私と歳の変わらない一人の男性であるのだと、この短時間に理解しつつあった。
 あ、火つけなきゃ。フィルターを軽く噛んでから思い出し、再びライターを手に取ろうとする。しかし私の親指が安全装置を外すよりも早く、夏油さんが軽く屈んで顔を寄せた。何をしようとしているかなんて明白で、こちらも彼の親切に甘える。
「ん、」
 シガーキス。
 すう、と息を吸う静かな音が耳に届き、チリチリと大きくなった熱が私の咥える棒の先にも伝わる。ピリリと舌に伝わる新鮮な味。それよりも今の私は突如として縮まった距離に、鼻に届いた白檀の香りに若者にしてはずいぶんと渋い趣味をしているんだなとか、伏せられたまつげの意外なほどの長さだとか、つい掴んでしまった腕の逞しさと服越しに伝わる体温だとか、五感を通してダイレクトに訴えかけてくる彼を構成するあれこれに気が気ではなかった。情報のキャパシティオーバーだ。そういえばしばらく恋人がいないせいでキスもセックスも久しくしていないことを思い出し、しばらくぶりかの異性との接触になんだか照れてしまう。
「……どうも」
「どういたしまして」
 その動揺を悟られぬよう、私もたっぷりと時間を掛けてメンソールの刺激を堪能する。見るからに華があるあの五条悟をも凌ぐという、夏油傑の絶大な女性人気の秘密がわかった気がする。他意のない仕草が一々どうしようもなく女心をくすぐるのだ。女慣れしている風なわりに浮いた噂は耳にしないけれど、私生活ではうまく隠れて遊んでいるのだろうか。一度刺激された好奇心が私の中でむくむくと頭をもたげるのを感じた。
「あまり普段こういうお店にはいらっしゃらないんですか?」
「断れない付き合い以外はね。悟は下戸だし、私もどちらかといえば家で一人でネタを考えていたいタイプかな」
「なるほど」
 普段のネタは夏油さんが考えているのか。とはいえCMや雑誌で彼らの露出を目にすることはあっても、本業であるところの漫才を私はほとんど知らないのだ。曖昧に頷いた私に彼は苦笑した。
「お笑いなんてあんまり見ない?」
「すみません……」
「いいさ。私たちがまだまだってことだ」
 正直に白状するも彼は気分を害した様子もなく、トントンと人差し指で軽く叩いて携帯灰皿に灰を落としながら微笑んだ。何かを夢中で追い求める人間特有の、生き生きとした屈託のない笑み。それは日々を無為に燻っている私からすればとても眩しく見えた。
「夏油さんは」
 アルコールの力も手伝って、私の頭のネジも緩んでいたのかもしれない。気づけば半ば無意識に口をついて出ていた。
「なんのために生きてますか」
「……は」
 右手に煙草、左手でスマートフォンを器用に弄っていた彼が、ポカンと口を開けて動きを止める。夏油さんのこんな間抜けヅラを拝めるのはレアかもしれない、なんて見当違いな考えが頭を過るが同時に私は己が言葉を間違えたことに気がついた。
「あ、違くて! すみません酔ってるみたいで私! 本当はお仕事の理由とか夢が聞きたくて!」
「だろうね」
 この店に酔っていない者はいない。しかしながらものすごくアホな女だとは思われただろう。ただでさえ火照った顔に羞恥で血が昇り、火でも吹きそうだった。
「てっきりこのタイミングで深刻な人生相談でもされたのかと」
「死のうとか考えてません」
「新手のボケかい? おもしろいね」
「本職の方にそう言っていただけて光栄です」
 天井に埋め込まれたダウンライトに照らし出される豪奢な内装は男女の欲を高揚させるはずなのに、いま私と彼の間にあるのはただ頭の悪い会話だ。夏油さんだって素人の失言を掘り返してわざわざイジることもないのに、とにわかに恨めしくなる。
「で、この仕事してる理由だったか。この場で改めて聞かれると難しいな……」
 そこで一旦言葉を切った夏油さんがスマホをポケットへ乱雑に突っ込み、ぴっちりと几帳面に纏められた前髪を撫でつけた。ちゃんと言葉を選んでくれている。こんな素人質問にも真摯に答えようとする、そんな彼の人間性が好きだと思った。
「笑いは人を笑顔にするからね。老若男女を楽しませられる仕事なんて滅多にない。他人に娯楽を提供するという点ではまあ、君たちの仕事とも似てるのかもしれないな。……それに、私は悟とならやれると思ったんだ。面と向かって口にするのは照れ臭いけどね」
 こんな風に笑う人だったのか。お笑いを志したわけを心底楽しそうに語る彼の横顔は、夢に生きる子どもそのものだった。彼にこんな思いを抱かせる五条さんとも、きっと最高のコンビなのだろう。この二人に多くの人が心惹かれるのも当然だ。
「……夏油さん達が活躍するところ、私も見ていたいです」
「今度この辺でライブがあるとき呼ぶよ。見に来るといい。本物の笑いを教えてあげるさ、私達は最強だからね」
 ずいぶんな自信家だ。口角を吊り上げて好戦的な笑みを浮かべた夏油さんに、私もつられて笑みがこぼれる。私が彼のステージに足を運ぶ日も遠くないだろうと、なぜかそんな確信めいたものがあった。
「連絡先交換しようか。またこっちで営業がある時は私も会いに行くよ。もちろん君の客としてね」
「ありがとうございます。あ、じゃあQRコード読み取るので……」
 新たにLINEのアイコンの並びに加わった『夏油傑』の名前を見て不思議な気持ちになる。TVの中の人間だと思っていた彼が今はこうして友だち欄の一番上に鎮座しているのだから人生とはわからないものだ。なんだかヒーローを見る少女のような気持ちになった私は、目の前の彼から送られてきたお辞儀するブサイクな猿のスタンプをそっと人差し指で撫でた。見たこともない珍妙なキャラクターだ。
「夏油傑って芸名ですか」
「いや、本名だよ。君は……ってお店の子には聞かない方がいいか。悪かった」
「いえ」
 源氏名で呼ばれ、源氏名で働いている。けれども私は夏油さんに本日二度目の自己紹介をした。彼に呼んでもらうための、今度は私の本当の名前だ。



『夜もツッコミ絶好調の夏油傑! 年下美女との熱愛をキャッチ!』

「お相手は六本木高級クラブ勤務の黒髪美女Aさん。昨年の12月、先輩芸人に連れられ店で知り合った二人は密かに愛を育み、現在は都内某所の高級マンションで同棲をー…」
「もういいよ。わかったから」
 下世話な勘ぐりの数々を音読する私を遮った傑が、持っていた雑誌を取り上げるとベッドの下に放り投げた。ぐしゃりと鈍い音を立てフローリングにハの字に着地したそれは、あのままでは不恰好な折れ目がついてしまうだろう。しかし私が今回の災いの元凶でもある週刊誌の心配をしてやる義理もないため、視界からフレームアウトしたそれをなかったことにした。上裸の傑が隣で寝返りを打ち、汗で湿ったシーツに皺が寄る。傑の骨張った手が、剥き出しになった私の肩に「冷えるよ」と掛け布団を引っ張り上げる。TVの四角い枠の中で笑っていた彼も、布団の中でこうして身を寄せ合えばただの男なのに。現実はそうともいかない。事後の気怠い空気とは別に、今は外から舞い込んだ厄介事が首をもたげて寝室の空気を重くしていた。まあ身から出た錆と言われれば反論はできないのだが。
 お互い十分に警戒しているはずだったものの、私たちの関係がとうとう週刊誌にすっぱ抜かれてしまったのが三日前のこと。その後ネットニュースは瞬く間に拡散され、引き金となった週刊誌は飛ぶように売れ、お昼のワイドショーではしたり顔した司会者の好き勝手な推測がお茶の間を賑わせている。結構な事だ。わざわざSNSを覗く気も起きないけれど、祓ったれ本舗の公式アカウントには今ごろコメントが殺到しているであろうことは火を見るより明らかだった。事務所に呼び出され飲まず食わずで後処理に奔走していた傑と、やっとベッドに潜り込めたのが昨夜のことだった。
「……ごめん。私のせいで傑の名前に傷をつけるようなこと」
 申し訳なさで胃がキリキリと捩れるような痛みを訴える。やり場のない感情を逃すよう枕に顔を埋めれば、そんな乱心の私の様子を肘をついて眺めていた傑はハの字に眉を下げた。
「#nsme2#が気にすることじゃないさ。このような形で公になったのは気に食わないが、書いてあること自体は別に事実だろう?」
「それは、そうかもしれないけど」
 そうは言ってくれるものの、私生活は後回しにお笑い第一でやってきた傑とってこのタイミングでの熱愛報道は痛手なのではないか。少なくともプラスイメージにならないことだけはたしかだ。せめて私なんかじゃないもっと彼にお似合いの相手ーー例えば今をときめく女優だとかアイドルとかーーならば美男美女やらビッグカップルやらと持て囃されもしただろうが、記者の書きぶりを見るにお世辞にも歓迎されているようには見えなかった。清廉潔白と対極、とまではいかずとも私のような夜の仕事をする人間に世間が抱く偏見は肌で理解していたものの、文章の端々からは性欲に目が眩んだ傑がプロの女にたぶらかされたとでも言いたげな雰囲気にげんなりする。ひどいものだ。別に私だけなら後ろ指を刺されようが構わない。しかし傑にまで今後そんな後ろ暗いイメージがついて回ったら。私が私であることをこれほど恨めしく思ったことはなかった。
「五条さんにも迷惑を……」
「悟は気にしてないよ。そんなタマじゃない。悟こそ女癖の悪さは他人のことを言えたものじゃないからね。むしろ標的にされたのが私でよかったくらいだ」
 マスメディアの詮索を嫌う五条さんならばきっと彼の怒りの矛先が向かうのは傑ではなく、私生活を無遠慮に暴いたマスコミの方だろう。五条さんの素行を私が知る由もないため、傑が口にしたことが事実なのか私を慰めるための口実なのかは判断がつかない。傑は優しいから。一度懐に入れた私を切り捨てないための道を、どうにか探しているのだろう。
 でも、私が傑の芸能人生を台無しにしてしまうのではないか。やはり有名人と人並みの恋愛をしようなんて無謀なのだと、ずっと頭の片隅にちらついていたことだ。取り返しのつかない事の重大さに、鼻の奥がつんとしてつい唇を噛む。だめだ、泣きそう。涙の膜に覆われ揺らぐ視界に、不恰好に歪む顔に気を配っている余裕はない。けれども伝えなければ。お互いにとって最善の道を。
「……この先もこうやって傑の邪魔になっちゃうなら私、別れるよ。傑にはずっと表舞台で輝いてて欲しいから。こんなことで足を引っ張りたくない」
「その必要はない」
 傑が不意にもぞりと上半身を起こした。ベッドのスプリングが軋む音が耳につく。肌色に凹凸の影を落とす彫刻のように鍛え抜かれた完璧な裸体が、窓から差し込む月の光の元に惜しげもなく晒される。人前に立つときは後毛もなく結われている髪が今は無造作に跳ねて広がっていた。私しか知らない、夏油傑という男のすがた。何度目にしても、飽きることなくその美しさにはっと息を呑んでしまう。
 あの日あの夜あの場所で出会わなければ。私は今日も、TV画面越しにマイクの前に立つ彼をなんの感慨もなく眺めていたはずだ。ヒーローを見る少女のような憧憬は呆気なく恋に変わり、違う世界で生きていたはずの男をいつの間にかこんなにも失いがたく思ってしまう私がいる。
「結婚しよう」
 へ、と息とも返事とも取れない、間抜けな声が私の唇から溢れる。今なんて? 弾かれるように顔を上げるも、傑は口を引き結びいたって真面目な顔をしていた。こちら返答を待つように、じっと見据えられる。遅れてやっと意味を理解した私はやはり現実味のない提案に、あからさまに狼狽えてしまっていた。しかしいくら先に公にされてしまったからとはいえ、生涯の伴侶を決めるなんていささか潔すぎるのではないか。
「……いいの? 私で」
「私はアイドルじゃない。お笑いで食ってるんだ」
 そうきっぱり言い切った傑は腕を伸ばし、ベッドボードの引き出しに手を掛けた。そこはコンドームの箱やら卵型のローターやら、普段あまり人には見せられないものが収納してある場所だ。しかし今回に限ってはビロード地の小箱が出てきたため面食らう。一体いつから。傑はどんなつもりで。そんな私を他所に、目的のブツを手に取った傑はベッドの上に膝をつき正面に向き直った。
「報道が出た時点で考えていたんだ。事務所には先に話を通してある。いずれこうするつもりだった。少し順番は逆になってしまったが、名前の答えを聞かせてくれないか」
「……うそ」
「そんなしょうもない嘘つかないさ」
 鳩が豆鉄砲を喰らったような表情を浮かべているであろう私に、笑いを噛み殺した傑は恭しく左手を取る。淡く光る一粒の石がそっと薬指へ嵌められると、たしかな質量を伴って現実感が襲い掛かる。派手すぎない上品なデザインはいかにも傑らしいチョイスに思えた。冷静に考えれば一糸纏わぬ素っ裸に指輪だけつているのもだいぶ滑稽な絵面な気がするけれど、今はそんなことどうでもよかった。隣にいる許可が貰えるのならそれでいい。
 筋張った逞しい首に腕を回しピアスに縁取られた耳元に「……する」と囁けば、彼は「よかった」と安堵の息を漏らした。
「はじめてあったあの夜から、ずっと君を手に入れる方法を考えてた。これでやっと私だけのものだ」
 なんともありふれたハッピーエンドかもしれない。けれども絵に描いたような最高の結末だ。
 あとで店に辞める連絡をしなければ。客の連絡先も消して、今度こそ傑だけの私になるのだ。
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