スツールの狭間に落胤


※不道徳・3P表現あり

 どちらかを選ぶということはすなわち、どちらかを選ばないということだ。一方を選んだときには同時に、他方との未来の可能性を捨てている。
 思えば私は昔から優柔不断な子供だった。二兎を追うものは一兎も得ず。花も折らず実も取らず。虻蜂取らず。欲張りな人間への戒めの言葉は古今東西にあれど、どれも私の心には届かなかった。幸いにも今まで致命的な痛い目にも遭わず、なんだかんだ帳尻合わせはうまくやってきたという自負もある。その油断と自惚れに浸かって、十七歳の私は不安定にゆらゆらと漂いふらふらと彷徨っていた。

「どっちにしようかな」
 ガラスケースには、子供のように胸弾ませた私の顔が映っている。綺麗な丸や三角のスポンジの上には緻密なチョコレート細工や艶々のフルーツ、ぴかぴかの金箔が乗り、店内のライトに照らされてきらきらと光っていた。芸術品のようなケーキがお行儀よく並べられ、手招きしてこちらを誘惑している。その味を想像するだけで口腔内にじわりと唾液が滲んで、私はゴクリと喉を鳴らした。
「いいや。どっちも買っちゃおう」
「……金欠でダイエット中だって言ってなかったっけ?」
「そのぶん任務増やせばいいよ」
 そうすれば給料も増えて、自然と痩せるだろう。Win-Winだ。短絡的な考えだと馬鹿にされるだろうか。でもひとつになんて選べない。たった一度きりの人生で、一生分の一食は意外と重要なのではないかと思う。
 華の十代から呪術師なんて常に死と隣り合わせの殺し合いを生業とするせいか、いつしか享楽的な考え方をするようになってしまった。私は悟や冥さんも同類だと勝手に親近感を抱いているけれど、傑や七海にはその気が見られないから単に生来の気質なのかもしれない。
「すみませ〜ん! 全種類ひとつずつください」
 財布を手にカウンター越しの店員さんに声をかけると、後ろで硝子が溜息を吐いた。
「食べきれなくも私は手伝わないからね」
「硝子は元から甘いもの嫌いじゃん。余ったら悟に押し付ければいいよ」
「五条のことだから『俺は残飯処理係じゃねえ』とか騒ぎそう」
「でも食べるんだよね悟」
 呪術高専の二大甘党といえば悟と私だ。悟の大きな身体には毎日恐ろしいスピードで食べものが次々と吸い込まれていく。術式での消耗が激しい分、燃料が必要なのだ。いくら食べても太らない悟の代謝が羨ましい。未成年にしてヘビースモーカーの硝子と比べれば私のスイーツなんて健全極まりない趣味だと思うけれど、どうしても体型が気になる年頃だ。夕飯は減らした方がいいかもしれない。 
白い紙箱に次々としまわれていくケーキと、ふわりと鼻腔を擽る砂糖の甘い香り。思わずスーハーと深呼吸をしておいしい空気で胸を満たす私に、硝子が呆れた目を向ける。
「優柔不断というか、楽観的というか。そんなんだから夏油にいいようにされるんじゃないの」
「人聞きの悪いこと言わないでよ。私はちゃんと傑が好きなんだから」
「どうだか」
 硝子はきっと、私が断れなくて傑と付き合っているのだと思っている。失礼なことだ。抗議しようと口を開くも、言い出しっぺの硝子は既に興味を失っているようだった。彼女のそのドライな部分が気安くもあり付き合いやすさの所以でもある。

 告白してきたのは傑の方だった。前触れがなかったといえば嘘になる。私も察しが悪い方ではないから、私を見つけて頬を緩める傑のかんばせや、会話の端々から覗かせる好意とほんの少しの下心には薄々勘づいていた。私にしたって満更でもない。高専に入学して最初の秋を迎えた頃、傑は「好きだ。私と付き合ってほしい」と月並みな愛の言葉をくれた。恋愛とは縁遠い学生生活を覚悟していただけに、二人しかいない異性の同級生のうち一人に告白されるのは幸運なことだった。正直顔は悟の方が好みだったけれど、性格は傑の方がずっとまともだ。冷たい初秋の風がひやりと肌を撫ぜ、黄金のイチョウの葉がはらはらと吹き捲かれる道端で向かい合って、私は傑の告白に半ば無意識でうなずいていた。
 その予想は的中し、夏油傑はまるで少女漫画に出てきそうな良い彼氏だった。経験豊富な大人の男かと錯覚させるほどにロマンチックで、しかし年相応に貪欲で不器用なところもある。わからない程、知りたくなる。私にはじめて女としての悦びを提供してくれる傑の、そんなわからない部分に惹かれ絡め取られて、私はまんまと虜になっていた。
 手を繋いでハグをしてキスをして。お手本のように順に段階を踏んでいった私達は、寮のベッドではじめて体を重ねた。噂に聞くように破瓜は痛かったし恥ずかしくもあったけれど、とっくに大人の形をした性器はちゃんと快感を拾って、男女の粘膜を擦り合わせる行為はすぐに板についた。楽しくて気持ち良くて、人並みの性経験を積んでいるというちょっとした優越感と背徳感。目先の欲に弱い私にとって、性交は最も手っ取り早くて麻薬めいたものだった。

 寮の談話室に足を踏み入れると、榛色と真っ黒の頭がこちらの気配に気づいて振り返った。
「あ、七海と灰原だ」
「お疲れ様です!」
「……お疲れ様です」
対照的な、元気溌剌とした返事と疲労困憊の返事。彼らが呪術師の世界に足を踏み入れたのはついこの間のことなのだから、仕方のないことだ。思わず笑ってしまいながら手に持った紙箱を軽く掲げた。
「半分こしない? ケーキ買いすぎちゃった」
「え!? いいんですか? 食べます!!!」
「奮発して買っちゃった。全種類あるよ」
「すごい! この前テレビでやってた有名店ですよね」
 ビニール袋に刻まれた店名は先日ローカル放送で取り上げられた洋菓子店のものだ。無邪気に喜ぶ灰原に私も得意げな気分になる。
「七海はどう?」
「自分は空腹ではないので」
「あ、そう?」
 仏頂面のまま即答し回れ右をして、廊下へとすたすたと立ち去る七海の背中を見送る。無論私だって無理に食べさせるつもりなんてないが、取り付く島もないとはこのことだ。特別好かれたいわけではないけれどそっけなくされるのも少し寂しい。
 気を取り直して、共同のキッチンでお湯を沸かし皿とフォークを用意する。ケーキのお供には紅茶を淹れた。机上にずらりと並べたカットケーキは合わせるとホールケーキ二台分くらいの量だろうか。幸せな光景だけど、これをひとりで食べきるのはさすがにキツイかもしれない。今さら冷や汗を掻く。灰原に感謝だ。
「私って七海に嫌われてるよね」
「まさか! そんなことないです! 七海は俺に気をつかって、……あ」
「気をつかう?」
「なんでもないです!」
「そう?」
 誤魔化すように眉を下げて笑った灰原に、私はそれ以上深くは追及しないで紅茶をすする。なんにせよ私が七海に嫌われていないのなら良いことだ。五条と同類で鬱陶しがられている感は否めないとしても。
 「いただきます」を合図にスポンジにフォークを突き立てる。ぐしゃり、と形を崩した舌触りの良いスポンジが口の中で濃厚な生クリームと絡まり、ほろりと蕩ける。頬が落ちそうだ。
「ん〜おいし〜!」
「はい!! すごくおいしいです!」
 舌鼓を打っているうちに、ダイエットをサボっている罪悪感なんてみるみる遠ざかっていく。灰原も大口でケーキの切れ端をバクバクと口に放り込んでいた。
「いくらでも食べられちゃうけど、だらしない身体じゃ傑に失望されちゃうかな」
「自分は沢山食べる人好きですよ! 苗字先輩は健康的でいい感じです!! 夏油さんもきっとそう思ってますよ!」
「本当? そんなストレートに褒められることないから照れちゃうな。私も好きだよ、灰原みたいな素直で明るくて優しい男の子」
 つい自虐してしまったものの、後輩に気を遣わせてしまっただろうか。私がそう笑うと、灰原は恥ずかしそうに目線を彷徨わせた。心なしか彼の頬が染まっていて、いじらしさに口元が緩む。私の言葉にも嘘はない。優しくて人当たりの良い灰原の人柄には好感を抱いているし、傑ほどではなくとも後輩に慕われて私だって悪い気はしないのだ。
場の空気を切り替えるように、灰原がぱっと声を上げた。さらさらの黒髪が動きに合わせて揺れる。
「夏油さんに残しておかなくていいんですか?」
「……傑は甘いものあまり好きじゃないから。食べないわけじゃないけど」
 傑の味覚については私も未知数だ。これは単なる勘だけれど、傑には味覚がないのではないかと私は時々思う。麻痺している、の方が正しいのかもしれない。呪霊操術で取り込むために呪霊玉を齧るとき、夏油傑はひどく苦しそうな顔をする。ほんの一瞬だけ、注視していなければわからないほどの、苦痛に歪んだ表情。本人だって隠し通せているつもりなのだろう。もしかしたら本人でさえ気が付いていないのかもしれない。それから注意深く観察してみると、傑は甘いものでも辛いものでも何を口にしていても、いつもつまらなさそうで時にはぐっと吐き気を堪えているようでもあった。日常の些細な違和感は積み重なり、いつしか私の中では単なる勘から確信へと近づいていた。
 傑以外、誰も知らない呪霊の味。きっと私は一生聞けないのだろうけど。
「別に嫌いではないんだよ。甘いものは」
 急に耳元で囁かれて、はじかれるように顔を上げた。思わず手に持ったフォークごとケーキの欠片を取り落としそうになって、慌てて口に詰め込む。
「傑! 帰ってたの」
「ただいま」
「夏油さん! お疲れ様です!!」
「ありがとう灰原」
 飼い主が帰ってきた犬のごとく、灰原の目がたちまち輝き始める。ちぎれんばかりに左右に振られる尻尾が見えるようだ。
 ぼうっと彼らを眺めていると、傑がソファの傍らに立った。じっと見つめられて、咎められてもいないのに言い訳したくなる。また懲りずに間食して、と思われているのだろうか。恐る恐る一切れ差し出す。
「……食べる?」
「一口もらおうかな」
本人がそう言うなら仕方がない。素直に開いた傑の口にあーん、とケーキを放り込む。行儀が悪いのは承知の上だ。大きな口がむしゃむしゃと咀嚼し飲み下すのを横目に私もフォークを進めていると、不意に傑が身を屈めた。
「口の横に生クリームがついているよ」
 私の口の端についたクリームを傑の親指が攫って、彼の舌がこれ見よがしにぺろりと舐め取る。白いものが付着した指を掃除する舌の動きがいつかの傑を咥えて舐め上げる私みたいで。情事を思わせる卑猥な舌づかいに、つい目が釘付けになってしまう。恥ずかしくなり「ばか」となじると、傑はにやにやと目を細めるのだから手に負えない。灰原が顔を赤くしたのが見えた。

 雨が降っている。朝から降り続けた雨は夜が更けるにつれ激しさを増し、空には稲妻が走って時々ピカリと外が明るく光る。私が任務を終えた時には頭から下着までずぶ濡れで、高専に戻って早々にシャワーを浴びる羽目になってしまった。
 湯上がりの体でひたひたと寮の廊下を歩いていると突然バチンと大きな音の後に、建物全体が一斉に闇に包まれた。
「あ。停電した」
 外的な攻撃ではなく、自然災害による停電。別に驚くことでも怯えることでもない。私達は日々、人間には不利な暗闇の中で呪いと戦っていた。真っ暗といっても窓から差し込むぼんやりとした月明かりにすぐ目が慣れてきたため、そう経たない内に復旧するだろうと歩を進める。共同の休憩スペースへと通りかかった時、無言で佇む黒い人影に思わず眉間に皺が寄る。ピリッとした一瞬の警戒の後に人物が纏う呪力が見知ったものであるのに気づいて、ほっと息を吐いた。
「灰原?」
「……苗字先輩!?」
「どうしたの。こんなところで」
「喉が渇いたので自販機へ買いに来たら停電に……それで、どうしようかと」
「お金飲み込まれちゃったちゃったわけね」
「自分が千円札をいれたばかりに……」
「あらら。それはお気の毒」
「電気が戻るまで待ってます」
 非常用電源を搭載していないのか、こと切れたようにうんともすんともいわないこと切れた自動販売機に苦笑いする。ベンチに座る灰原もお手上げだ、という風に乾いた笑みを浮かべていた。自販機が復活するまで暗闇にひとり残しておくのもかわいそうで、私は灰原の隣に黙って腰掛ける。
「苗字先輩は夜目が効くんですね」
「そう?」
「迷いなく歩いていたので」
「まぁ暗闇に恐怖はないかな。呪力感知は私の得意分野だし、五感も鋭い方だと思うよ。天与呪縛の人ほどではないだろうけど」
「先輩達は本当にすごいです。大人からも一目置かれて頼りにされていて。尊敬します」
「経験値だよ。灰原も傑みたいになれるって」
 灰原はどこか落ち着かない様子でそわそわと身じろぎしている。迷惑だっただろうか。
「あの、夏油さんは……?」
「傑? もう寝てるよ。明日は朝一から任務があるからもう寝るねってさっきメール来てた。会いたかったけど」
 傑とは、今日私が任務に向かう前に彼の部屋で一回体を重ねた。だから満たされてはいる。けれど一度知ってしまった天にも昇るような快楽の味を、もっともっとと欲張ってしまうのはやはり私の悪癖だろうか。最近は互いの休みが被った日には、寮にこもって日がな一日体を繋げて行為に耽っている。性欲旺盛な十代なのを差し引いても、不健全なのはわかっているけれど。
 まだ湿ったままの髪の毛先を弄りながら、窓に激しく打ち付けられては四散していく雨粒を眺める。儚い命。呪術師の命のようだと、不謹慎な例えが頭を過った。
「あの」
「ん?」
「苗字先輩は夏油さんの、どんなところが……その、好きなんですか」
 唐突な質問に、ぱちくりと目をしばたたかせる。
「どうして?」
「深い意味はないんです!! そういえば聞いたことなかったなって、なんだか気になって!」
「傑のいいところは灰原が一番わかってそうな気もするけどねぇ。そうだね、なんだろう。優しいけど、優しいだけじゃないところかな。性格悪いし」
 天井の染みになんとなしに目を凝らしながら、気の抜けた返事をする。なんだか悪口のようになってしまったけれど、強者の傲り弱者への優しさを併せ持つ傑の生き方が私は好きだった。
 灰原は先輩の惚気を聞いていて楽しいのだろうか。それよりも先ほどから何かを我慢するように強張った表情をする、灰原の不自然さが気にかかる。お腹でも痛いのだろうか。私が籠った雨の音をぼんやりと聞いていると、静かな水面に石を投げこむように、沈黙を破る灰原の声が落とされた。
「好きです」
「……え」
「あ!」
 耳を疑う。が、暗闇越しでも明らかなほど茹ったように顔を赤くして潤んだ目をする灰原をみれば、その意図は一目瞭然だった。私も聞き返してしまった以上は冗談で流せる空気でもなく、どう反応すべきか考えあぐねていた。
「えっと灰原、それは私に恋愛的な、つまり女と男のソレ……? 勘違いだったら悪いんだけど」
「はい。伝えるつもりはなかったんです。でも気持ちが抑えられなくてついッ……苗字先輩を困らせてますよね。すみません」 
 困る以前に、どちらかといえば困惑している。特別モテる人生を送ってきたわけでもない私が、同時に二人から好意を向けられるなんて。いまいち実感が湧かないけれど、もしやこれがいわゆる三角関係なのだろうか。呪術師なんて田舎の中学校よりも狭いコミュニティだからあり得なくはないか、とありがちな理由に思い至って少しげんなりした。
「ごめんね。私は傑の彼女だから、灰原の気持ちには答えられないよ」
 とりあえず考え得る限り最も無難な返答をする。灰原の気持ちに嘘はないのだろう。尊敬する男の隣にいる女まで魅力的に見えてしまう、一種の熱病のようなものだ。傑は私を選んだけれど、それが即ち私に選ばれる価値があるのかとは全く別の問題だ。
「そう、ですよね。……ははは、何考えてたんだろう俺」
 苦笑いを浮かべ頭を掻く灰原は傷ついた目をしていて、それが空元気なのは簡単に見て取れた。哀れみ、浮気心、好奇心、そのどれでもないけれど、蝋燭の火が風に撫でられるように私の中で何かが揺らぐのを感じる。なにか、私にできること。気づけば私はベンチから立ち上がって、座る灰原と向かい合っていた。私に釘付けになった、黒い真ん丸の瞳が子犬みたいだ。なんてかわいいのだろう。
「秘密だよ」
 自分でも、どうしてそんなことをしたのだろうかと思う。気の迷いと呼ぶには、それはとても傲慢なような気がした。少し屈めば私と灰原の距離は途端にゼロになって、鼻先がすれ違い、いとも簡単にふにっと唇が合わさった。男のやや乾燥した唇。傑のよりも少し厚くて柔らかいかもしれない。触れるだけのキスは一瞬で、身を起こせば予想外の出来事に混乱で目を回す灰原がいた。
「せ、せんぱい、あの」
 言い訳は不要だ。私だって私を突き動かすものの正体を、わかっていないのだから。手をひらひらと降って踵を返した。
「おやすみ。また明日」
 なにかを振り切るように、夜更けの廊下を駆ける。あれほど激しく降っていた雨はいつの間にか止んで、外は嘘のように静まり返っていた。

 ふう、と耳元で長い息が落とされて、私は傑が吐精したことを悟る。今まで腰骨をがっちりと掴まれて乱暴に上下に揺すられていたから、手形の痣になってしまうかもしれない。馬鹿みたいに頭の中を占拠していた興奮が波のようにさっと引いて、傑の部屋着を握り込んでいた手を解いた。
 またやってしまった。ここが寮の建物に外付けの非常階段で、対面座位で致してしまったのが鉄製の踊り場であることをやっと思い出す。ボンタンの前だけをくつろげた傑とスカートを履いた私では触れた場所は見えないけれど、繋がった部分はまだしっとりと湿って熱を持っている。
「……またここでしちゃった。バレたら大変なのに」
「名前も興奮してただろう? いつもより濡れてるし締まりもいい」
「だから嫌なんだって。知っちゃうと止めるのがつらくなるから」
 知らないよりも、知ってしまった禁断の味を手放す方が酷だ。ダイエット中に食べ過ぎてしまった時のような自己嫌悪がチクリと胸を刺す。誤魔化すように傑の首元に鼻先をすり寄せると、汗とメンズコロンと傑のにおいが鼻腔を満たした。
「灰原の女の好みは少し意外だったな」
「……え?」
 離れがたくて挿入されたままコアラのようにしがみついていると、私の髪を撫でる傑が世間話でもするトーンで呟いた。なぜ今ここで灰原の名前が出てくるのか。脳裏を過るのはあのキスをした夜のこと。動揺を悟られていまいかと、私は小さく息を吸った。
「気づいてるだろう?」
「なんのこと?」
「とぼけなくてもいいさ。灰原が苗字に惚れていることだよ」
「勘違いだよ。錯覚。大好きな先輩に憧れるあまり、 彼女まで欲しくなっちゃったんだよ」
「君じゃないんだから」
「それどういう意味?」
 傑は私をどんな人間だと思っているのか。見境のない女だとでも言いたいのかと私が顔を顰めると、赤子でもあやすようにポンポンと背を叩かれる。
「私はね、苗字。君の欲に忠実なところを好ましく思っているんだよ」
 本当だろうか。だとしたらかなりの物好きだ。呪術師では自己犠牲を払うような人間は簡単に死んでしまうから、食欲だろうと性欲だろうと生き汚いくらいがちょうどいい、とかそんな理論だろうか。
「灰原もそこで息を殺してないで出ておいで」
「え? 灰原?」
 傑が私の背後の空間に向かって声を掛けるから、思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。慌てて顔だけ振り返ると、申し訳なさそうに背を丸めた灰原が、階段の影から踊り場へとおずおずを姿を現した。居た堪れない、といった表情を浮かべ、頬が熟れた林檎のように赤らんでいる。一体いつから。私も性行為に夢中で注意散漫になっていたけれど、全く気がつかなかった。
「悪趣味じゃないかい? まあ、気持ちはわかるけどね」
「すみません!! 決して覗こうなんて思ったわけでは……! あの、たまたま通ろうとしたら夏油さん達がその、お取込み中だったようなので、通れなくてどうしようかと!」
「責めないよ。私達が悪いからね」
「ごめんね……」
 非常階段を使おうとしただけで先輩達の性行為に遭遇してしまうとは、灰原にはとんだ災難だっただろう。明らかな被害者だ。羞恥心よりは申し訳なさが勝って、焦る灰原を前に私と傑の間には気まずい空気が流れる。彼には悪いが、目撃者が灰原なのは幸いだったかもしれない。告げ口なんてしないだろうし、もしここに通りかかったのが夜蛾先生や日下部先生だったら拳骨では済まない事態になっていただろう。
「とりあえず苗字は離れようか」
「あ、うん」
 ずるり、と私の中から傑が出ていく感覚に、つい体が震えてしまう。傑は平然とした顔をして縛ったゴムをポケットティッシュに包み、ズボンのジッパーを上げている。私もいそいそとショーツに足を膝を通すと、スカートの下で外気に晒されてすうすうと風が撫でる陰部に一枚の隔たりができる。その間灰原は両手で顔を覆って俯いていた。
 事後の男女と、無関係な第三者。その異様な空間は微妙な空気が尾を引いたまま解散の流れとなるかと思えば、傑が立ち上がってパンパンとボンタンの尻についた砂埃を叩き落としながら、何事もないような口調で聞いた。
「灰原、経験は?」
「なんのですか?」
「こういうこと」
 こう、とはつまり私と傑が今しがたまでしていた行為を指しているのだろう。灰原は慌てて首を振った。
「な、ないです」
 どういう意味だろうか。混乱している灰原と首を傾げる私に、傑が笑みを深くする。そして思いもよらないことを口にした。
「貸してあげようか」
「え」
「苗字の体」
「え」
「好きだろう? 苗字のこと」
 灰原が息を呑みはっとした顔で私を見るから、勢いよく首を振る。私は他の男に告白されたことをわざわざ自分の男に話すような女じゃない。ましてや彼氏と後輩の仲に亀裂を入れかねないことなんてするはずもない。弁解が口をついて出る。
「待って! 私は何も話してないよ! ……あ」
「クククッ。苗字、墓穴掘ってるじゃないか。何があったかは大体想像できるけどね」
 彼女が後輩に懸想されて傑が気分を害するんじゃないかなんて心配は、どうやら私の杞憂だったらしい。だって突拍子もない提案に冷や汗をかく私と灰原とは対照的に、傑は心底愉快そうに肩を揺らしている。
「……夏油さんの言う通り、自分は名前先輩を好いています。告白して、ちゃんとフラれました。冗談ですよね?」
 冗談にしてはあまりにも質が悪い。傑らしからぬ悪ふざけに、私も半ば祈るような気持ちで傑の横顔を見つめていた。灰原の喉仏が震えるのが、やけに鮮明に見える。
「冗談? 私は本気だよ」
「そ、そんな! だめですよ! だってそんな、爛れてますし、何より苗字先輩の気持ちが……」
 灰原の声が裏返る。と同時に、灰原に口付けたあの晩の感触がありありと思い出されて、私は体中の血が沸騰するかのような錯覚に襲われた。やめて。おかしくなってしまう。血液がしゅわしゅわと弾けて、指先がじんじんと熱を持つ。禁忌に触れる恐怖と、未知の領域に踏み込まんとする倒錯的な興奮。なんて甘美な感覚なのだろう。
「だめかい? 私は悪くない話だと思うけど」
 だめ。私に聞かないで。私の欲深さを試すような真似に、倫理だ貞操だと諫める天使と嘯く悪魔が頭の中でひっきりなしに騒ぎ立てる。傑の細い目に捉えられると私は身も心も丸裸にされてしまうようで、少しだけ苦手だったのに。無意識のうちに生唾を飲み下していた。
「君のことだから興味あるだろ? 私以外との男と寝るの」
「……」
 答えは出ていた。この敏い男には、きっと見透かされている。いくら懇切丁寧に金メッキで塗り固めたところで、どうせ私の本質は変わらないのだ。観念して、首肯する。
「違うかい? 名前」
「うん」
「交渉成立だね。善は急げだ。部屋へ行こうよ」
 ことわざの使い方が間違っている。その言葉はきっとこんな爛れて歪んだ関係に使うものではない。そう指摘したくてもできなくて、私は踏み越えてしまった一線を思った。
 
「せん、ぱい」
 三人で致しても、肝心の行為が変わるわけではない。濡らして舐めて、慣らして挿れる。下世話な話だが、それらが同時進行になるだけだ。けれども三人分の体重を乗せたベッドはかつてないほど軋み、見慣れた傑の部屋には今までにないほど湿った熱気が充満していた。男ふたり分の肌色が目に眩しい。灰原の筆おろしが目的だからか、傑は今回あくまでサポート役に徹する気のようで文字通り手を出し口を出して、灰原に尤もらしいアドバイスをしていた。
「傑に寝取られの趣味があったなんて知らなかった」
「見損なったかい?」
「ううん。らしいなって思った」
 私が傑に抱いていた親近感は、どうやら気のせいではなかったらしい。私はずっと傑の汚い部分が見たかった。優しさの裏にこっそりと忍ばせるスパイスのような醜悪さが、愛しくて堪らない。歪んでいるだろうか。
「あ、……ここ、大丈夫ですか? 痛くないですか」
「ぁ……う、ん。きもちいいよ、灰原」
「よかったです。自分、自信なくて」
 呼吸を乱して額に大粒の汗を浮かべた灰原が、少しほっとしたように息を吐く。不慣れで不器用な愛撫はもどかしくもあるけれど、丁寧で心地よかった。最初は遠慮し渋っていた灰原も、私が一糸纏わぬ姿になれば欲には勝てないようだった。素直に硬く屹立した箇所がなによりの証拠だ。私の体もちゃんと準備を整えて、迎え入れる用意は十分だった。
「名前はココが好きだよ」
「や! だめ、あ!」
 横から弱いところを摘まれて、つい高い声が出る。二者の舌と手にいいように乱される私を見て、傑は楽しそうだ。本来なら私が童貞をリードするお姉さん役なのに面目丸潰れだと、脱力した体を投げ出した。
「もう挿れていいよ。傑、ゴム取ってあげて」
「いいんですか……?」
「付け方わかるかい? サイズは大丈夫そうだね」
「すみません。教えてください……」
「いいよ。裏表に気を付けて」
 男同士の和やかな会話が交わされる。平和だが異様だ。傑が被せてあげる様子を横目で眺めていると、灰原が気恥ずかしそうに目を伏せた。これじゃ私が痴女のようだ。否定はできないけれど。
 そうして私の頭の両脇に手をついた灰原は、緊張した面持ちをしている。ぬかるんだ私の中に灰原がぐっと割って押し入ってきた。腹部を満たす圧迫感と入り口の擦れる鈍い快感に、小難しい思考が遠のく。熱い息を漏らす私の上で、灰原はなぜか泣きそうにくしゃりと顔を歪めていた。
「……ごめんなさい」
「なんで謝るの」
 本当は彼が謝る理由なんてわかっていた。けれど科を負うのは私だけでいい。人は欲望の奴隷だ。どうか今だけは何も考えず、溢れ出る欲に身を任せて。
 ごめんなさい、ともう一度息だけで囁いた灰原の頬を撫でて、口を唇で塞ぐ。二度目のキスはしっとりと吸いついて、しょっぱい汗の味がした。離れると、灰原が動き始める。私の口からはだらしない嬌声が漏れるだけだ。
「好きです。……好きなんです」 
 灰原の純情を手玉に取っている自覚はある。狡くて淫らな私の弱さを、どうか許してほしい。神様なんて信じていないのに、この時ばかりは私はほんの少しだけ己の行いを悔いそうになった。
 灰原の頬に手を添える。彼の目には情けない顔をして、でも溶けた顔をする私が映っていた。ごめんね、とは言えなくて私はただ彼の名前を呼んだ。
「はいばら」
 
 その後も細々と続いた歪な関係は、始まりと同じく突然に、そして呆気なく終わりを迎えた。それも最悪の形で。
「もうあの人ひとりで良くないですか?」
 怒り嘆く七海の声が、濡れて震えている。冷たい解剖台の上に横たわるのは、半分になって帰ってきた灰原の身体だった。私を前に赤らんでいた頬は、今は蝋人形のように青白く温度を失っている。情事で私を映した目は、固く閉じられもう二度と開くことはない。傑が優しい手つきで灰原の顔に布を被せる。私はその光景を前に、ただ呆然と立ち尽くしていた。手が震えて、うまく息ができない。
 嗚呼、私はなんてことをしてしまったのだろう。頭のてっぺんが冷たくなって、さっと全身の血が引いていく心地がする。灰原の恋心を、私が弄んで穢してしまったのだ。新しいおやつに手を伸ばし味見するような、そんな軽慮で。他に好きな女でもできれば自然消滅する関係だと、私は高を括っていた。でも、もうそれは叶わない。灰原は少年のまま、私しか知らないままに逝ってしまった。
 取り返しのつかない過ちに、私ははじめて後悔をした。胸に開いた穴に氷水を流し込まれたように心が凍てつき、己の愚行を呪う。頭を垂れ許しを請おうにも当人はもう居ない。
 耐えられなくなって、側に立つ男に声を掛ける。
「傑。……傑?」
 何かがおかしい。よく知っている人のはずなのに、どこか別人のようだ。怖くなって傑の横顔を見つめる。
「ああ。何でもないよ」
 灰原の遺体を見つめる傑も、悲痛な顔をしていた。己を慕う後輩を亡くしたのだから当たり前だ。その背中にどこか違和感を覚えながらも、罪悪感に打ちひしがれた私は、見て見ぬ振りをしたのだった。
 
 その一月後。
 特級呪術師の夏油傑は、百人以上の民間人を殺害して逃走した。新宿で姿を現した傑は、硝子に「忘れてくれ」と私への言伝を頼んだらしい。    
なんて無責任なのだろう。私が言えた義理ではないかもしれないけれど。恋人として側に居たにも関わらず、私は愚かにもすべてを見過ごしていた。予兆はあった。この十字架を、私は一生背負って生きていかないといけないのだろう。
「……大丈夫?」
 いつもなら他人を気遣わない硝子が、痛々しいものを見る目で私を見ている。硝子は私と傑と灰原の関係を知らないけれど、なにかしらは察していたのだろう。何も言わない友人に感謝しながら、私は答えた。
「ありがとう。私は大丈夫」
 これは報いだ。なんだかんだ帳尻合わせはうまくやってきたという高慢と、想像力の欠如。優柔不断のツケは、思いもよらないタイミングで私に結末を知らしめてきた。
どちらかを選ばないということは、どちらも大切にしているようでどちらも蔑ろにしていた。どちらも理解しているつもりで、私は何ひとつわかっていなかったのだ。
 もう私の手には、何も残っていない。

2020.11.15 呪術△アンソロジー「惑溺のワルツ」に寄稿
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