散華抄

 昭襄王四十七年。B.C.二六〇年――
 列強が肩を並べ群雄割拠する中華の一国、ここ秦の王都たる咸陽は、今日もその強国の名に恥じぬ威光を放っていた。中華統一の夢をかけ、勇ましい大将軍が今日も各地に討って出ている。
 そう噂には伝え聞くものの、城壁に囲われた要塞の一角、屋敷の端に位置する離れの一室から見上げる空はひどく狭い。生まれ落ちてから長らく、ここが私のすべてだった。

 今日の蒙武は訪ねてきた時から様子がおかしかった。腹の底から湧きあがる感情を押しとどめるように時折宙を見つめては、心ここにあらずの有様だ。よく見れば、鼻血を雑に拭っただけであろう乾いた血が筋になって頬やら顎やらにこびりついている。
だから少し迷った末に「その怪我はどうしたの」と尋ねたのだ。
「……殴られた」
 微妙な沈黙の後、己の非力を恥じるように目を伏せた蒙武の腫れた頬に、羞恥からか一層の朱が差したように見えた。まだ少年らしさが抜けきらない丸みを残した頬を腫らして、悔しそうに唇を噛んでいる。
「あらまあ。天下最強の蒙武様に一発入れられる輩がこの辺り潜んでいたなんて。骨のある殿方ですね。どこのどなたかしら」
「さてはお前、おもしろがってるだろ」
「まさか。そんな畏れ多い……ふふっ」
「おい。笑いが我慢できてねェぞ」
 堪えきれなくなり、小さく噴き出してしまう。口元を覆っても、肩の揺れまでは誤魔化せない。そんな私を見ても不服そうに口をへの字に曲げるだけの蒙武が、これしきでは気分を害さないこともわかっていた。誤解されがちだが、根はとても温厚な男なのだ。
 腕っぷしの強さと血の気の多さゆえ、もうここらでは喧嘩を売る者も買う者もいない。見かねた父親の蒙将軍が直々に喧嘩を禁止したほどだ。そこで最近は試合と称して喧嘩相手を募っていたらしいが、そんな蒙武に好敵手が現れたと聞けば好奇心が擽られてしまうのも仕方がないと思う。ひどく平坦で無味乾燥の日々に、野良猫のように時折ふらりと訪れる彼だけが、私に予想外をもたらしてくれる。
「それにしても痛そうだわ。侍女に濡れた布を持ってこさせましょうか」
「必要ない。こんなもの、唾をつけておけば治る」
 そんなことしたら汚いわ、と私が言ったところでどうせ聞き入れやしないのだ。その根性は尊敬に値するが、痩せ我慢は必ずしも美徳とは言えないだろう。もしもここが長丁場の戦場ならば、ほんの僅かな矢傷や切り傷さえも命取りになりかねないのだから。やはり後でよく効く薬草を届けさせよう。
 私がそう自己完結したところで、むっすりと仏頂面を浮かべていた蒙武が胸の前で組んでいた腕を解き、口を開いた。
「敵だと名乗った」
「敵?」
「楚から人質交換で来ているらしい。公子なんだとよ」
 楚は秦の南東に隣接する大国だ。名を春申君といったか、相当な切れ者の宰相がいるとも聞く。間違いなく秦の脅威の筆頭だが、そんな人質交換が行われていたとは初耳だった。
「そんな方がいらっしゃるのね。私も一度お会いしてみたいわ」
「敵国の人間なんかに会ってどうするんだ。お前も卑怯な手で殴られるぞ」
「まあ! そんなに粗暴な御仁なの?」
「いや。お前とそんなに歳の変わらねェ、女みてェな顔したナヨついた坊ちゃんだった。戦場じゃ不意打ちも常套手段だって言い分もわからなくはねェけどよ」
「それはそれは。どうせ油断してたのでしょう? でもあなた、なぜだか嬉しそうだわ」
 ぶつくさ不平不満を漏らしながらも、口調の端にはどこか高揚と照れ隠しが滲んでいる。まるで初恋に戸惑う少年のような。話を聞くに、突然殴りつけられた上に不躾に悪態を吐かれたというのに、蒙武はまんざらでもない顔をしているのだからわからないものだ。
「……気持ち悪ィくらい姉貴とおんなじこと言うんだな」
「へぇ。秋さんが?」
「ああ。散々笑われたよ。もし戦場だったら賭けなんてウソにしてタコ殴りにするってな。卑劣すぎるだろアイツ」
「でもそうね、あなたは真っ直ぐすぎるところがあるから。楚の御方の行動も秋さんの言うことも一理あるわ。いい薬になったんじゃなくて?」
「チッ。……でも奴の言い分が正しいのは認める。癪だけどな」
 どんな立場であろうと、己の非を素直に認められるのが蒙武の長所だ。逆を言えば、身分を物ともせず見過ごせないことには食って掛かってしまうのが短所でもあるが。彼の姉は美しくも男勝りの豪胆な人物で、私もよく知るところでもある。
「そうだ。お前に持ってきたものがあるんだ」
 そう言って懐をゴソゴソと漁った、ぶっきらぼうに何かをずいと突き出す。
「ん。やる」
「ありがとう」
「うまいぞ。お前にも食わせてやろうと厨房から拝借してきた」
 毒見も終えていないものがひとつ無くなっているとなれば、今頃騒ぎになっているのではないか。そうは思うものの、期待を込めた視線を向けられてしまうと、蒙武の好意を無碍にもできない。麻のぼろ切れの包みを剥げば、つやつやとした楕円の饅頭があった。芋を蒸して潰して形成し、甘味をつけた菓子だ。このような嗜好品を気軽に手に入れられるのも、名家の子息のなせる業である。
 歯を立て、もそもそと咀嚼する。素朴な甘みだ。パサついた乾いた食感に、口腔内の唾液を根こそぎ奪われ思わず咳き込みそうになった。本当は水が欲しいところだが、蒙武は気づいちゃいないだろう。しかし必要以上の気を遣わない竹を割ったような性格が好ましくもある。喉にぐっと力を入れて懸命に嚥下した。
 寝台から上半身だけ起こしただけの私の頭のてっぺんから足の先までを今一度見て、蒙武は眉を寄せた。死にかけの仔猫を見るような目だ。あまりにもわかりやすい物言いたげな顔に、くすりと笑いがこぼれる。
「体の調子は」
「悪くないわ。この頃はあまり熱も出ていないもの」
「俺からすればまだまだヒョロガリだけどな。お前はもう少し肉をつけた方がいい」
「ご心配どうもありがとう」
 蒙武が天から類稀なる体躯を与えられたとすれば、私は対照的に、生まれたときから人一倍体が弱かった。少し動くだけで胸は痛み、夜風に晒されれば体はひどく熱を持ち、体の内側から食い破られるような激痛を頻繁に訴える。端的に言えば病がちだった。
 しかし、運は最後の最後で私に味方した。
 私が寒村の農家の娘や、ましてや名のない奴隷だったならば、おそらく一つとして冬を越せなかっただろう。飢えて死ぬか、見切りをつけて捨てられたかはわからないけれど、いずれにしてもとっくにこの世にはいなかったはずだ。貴族御用達の医者、召使いの手厚い看病、高価で貴重な漢方、高名なまじない師。秦の高官の家に生まれなけでば享受できなかったであろうそれらに、辛くも十を超えるまで生かされてきた。大人の言葉を借りれば、それは奇跡だと言われたりもする。
 私と蒙武の関係を名づけるならば、ただの幼馴染だ。
ある日蒙武は遊んでいた球を誤って投げ込んでしまったとかで、苗字家邸宅をぐるりと取り囲む高い塀をよじ登ると勝手に庭へ侵入し、家主の娘である私と鉢合わせた。一目では盗賊に見紛う行いだ。今思えば私の人生の中では一、二を争うような衝撃的な出会いであった。どれほど驚いたかといえば、目眩を起こしその場で卒倒してしまったほどだ。そしてどういう訳かその後も暇を見つけては立ち寄るようになった蒙武は、普通なら不届き者とされるところを、蒙将軍の嫡男ゆえ大目に見られていた。父上にとっては息子ならまだしも、いつ命の灯が消えるかもわからない手を煩わせるだけの娘など、一々目くじらを立てるまでの関心事でもないのかもしれないが。
 世話役の女性などは「蒙家の坊ちゃんは苗字名前様にご執心ですね」と妙に含意のある物言いをするが、彼に他意はないことを、他でもない私はよくわかっていた。蒙武は優しいから。友人も母もなく、屋敷の片隅でひとり明日の命もわからないまま毎日を無為に過ごす私を、放っておけないだけだ。だから今日も力ずくで塀を乗り越え、私に会いにやってきてくれる。喧嘩に勝っただとか、姉から受けた横暴な仕打ちだとか、そんなたわいもない話を携えて。
「……蒙武は優しいのね」
「バ、バカなこと言ってんじゃねェ! 俺はただ、お前がいつ死んじまうかもわかんねェようなしけたツラしてるからだな!」
「そんなに照れなくともわかってるわ。安心して」
「照れてねェよ!」
――妬けるなあ。
 顔も知らない男に、ちくりと嫉妬心が疼く。誤魔化すように着物の襟元を握った。私ではどう逆立ちしたって、蒙武にそんな顔はさせられない。
「案外いい友達になれそうね」
「トモダチだァ?」
「ええ。その楚子殿と。蒙武と仲良くなれそうだわ」
「誰がなるか! あんな奴と」
 蒙武は肩を怒らせ、顔を真っ赤にしてムキになっている。しかし単なる予感だが、和解さえすればいい二人組になるのではないかと思った。なにせ楚の公子は不意打ちとはいえ蒙武を殴りつけた上に、戦場とは何たるかを論破したという。文武に秀でた、才覚ある人物に違いなかった。
 敵地から一人送られてきたという少年は、どのような気持ちで秦の地を踏んだのだろうか。寂しくはないのだろうか。余計なお世話は百も承知で、ついまだ見ぬかの人に思いを馳せてしまう。
「……私も会ってみたいなあ」
 ぽつりとつぶやいた言葉は、どこからか吹き込んだ新緑の香をはらんだ風に乗せられ、誰に拾われることもなく消えていった。
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