道を歩いていると女が引っ掛かっていた。いや、正しくは今にも落ちんとしていた。
「きゃっ」
碁盤の目状に整然と引かれた咸陽の道を歩いていれば、視界の外からか細い女の悲鳴が聞こえた。が、無視をした。
ーー頭上?
見過ごせない違和感に気がつき、はたと足が止まる。ここは秦の貴族の中でもさらに一握りの、権力の中枢に近しい高官の屋敷が密集する区画だ。道の両側の敷地は高い塀にぐるりと囲われ中を覆い隠しており、見渡す限り登れるような木もない。
空耳にしては明瞭なそれに訝しげに顔を上げれば、女が天日干しされる衣の如く、くの字に引っ掛かっていた。上半身はこちら側、下半身はあちら側に、塀の天端に載せられた三角の塀瓦に胴が圧迫され、どうにか落ちまいと淵を懸命に掴む両の手が辛うじて均衡を保っている。見るからに息苦しそうな体勢だ。さすがの楚子も呆気に取られていると、女の顔がのろのろと力なく此方を向いた。
……目が合ってしまった。
内心舌打ちすれども遅く、絶体絶命の危機に瀕しているらしい人間を前に見て見ぬ振りもできない。楚子の姿を捉え、女の目が大きく見開かれる。思いのほか幼い顔に、その時はじめて己とさして歳の変わらぬ娘だと知った。
「もし、そこの若様。申し訳ないのですが手をお貸しくださいませんか」
「……俺はお前を押し戻せばいいのか。それとも引けばよいのか」
まるで木から降りられずに震える仔猫のようだ。呆れが警戒心を上回り、思わず毒気を抜かれる。逃げ損ねた物盗りであればすぐにでもこの屋敷の守衛を呼ぶところであるが、これほど鈍臭い盗賊が居て堪るものか。何よりも女が身に纏う着物が一目見て上等なものであることが明らかであったため、とりあえずはこの屋敷の関係者であろうと結論づけた。状況は不可解極まりないが。
そもそもお前は誰で一体そこで何をしているのだ、と喉元まで出かかった至極真っ当な疑問を呑み込んで尋ねる。女の今にも頭から真っ逆さまに転げ落ちかねない様子に、悠長に話し込んでいる時間は無いように思えたからだ。
女もさすがに肝を冷やしているのか、こめかみには汗が滲んでいた。丸い額に神がしっとりと張りついている。整ったかわいらしい少女の造形をしている割に、やけに青白い頬につく肉は薄い。どことなく幸薄げな線の細い顔に、やけに意志の強そうな猫目が不釣り合いで、妙に印象的だった。
目を奪われかけて、唐突に我に返る。呆けている場合ではない。
「ええ、其方側に参りたいのです。引っ張ってくださいな」
女は懸命に下へ向かって腕を伸ばしているが、残念ながらこちらも肩の上に腕を上げない限り届きはしないだろう。そして言われるがまま引っ張ったところで、下手すれば地面と接吻する事態を免れないことは容易に想像がついた。
となれば、導き出される策は一つ。状況を読み即座に最適解を叩き出すのは、昔から得意分野だった。
「飛び込め」
短く伝える。痩せぎすの少女一人、楚子の身体で受け止められないことはないだろう。蒙武にはナヨ坊ちゃんだのなんだの言われているが、鍛錬のおかげでそれなりに丈夫である自負はあった。
「え……いえ、しかし」
「愚図愚図している場合か! この高さでは受け身が取れなければただじゃ済まないぞ」
一喝すれば、女は「ひっ」と身を縮ませた。そこで目線を下にやり改めて高さを認識したのか、息を呑む。よく見れば唯一の頼みの綱であるところの手は、カタカタと小さく震えていた。放っておいたとしても不慮の事故が起こるのは時間の問題だろう。
なるべく刺激しないよう細心の注意を払いながら、真っ直ぐ見つめ、言葉を続ける。
「ちゃんと受け止めてやる。俺を信じろ」
泣くだろうか。火急の事態とはいえ、箱入り娘には酷なことかもしれない。
しかしそんな楚子の予想に反し、女はこくりと頷いた。覚悟を決めたのか、きゅっと口を真一文字に引き結び、目の中に宿る光は強い。
「……いきます」
「来い」
踏み切り、飛んだ。風に煽られ、深衣の袖が翻る。
「ぐッ」
遅れてやってきた衝撃に一瞬息が詰まるも、腕の中へと降ってきた少女を取り落とさないよう、咄嗟に掻き抱く。膝を曲げ勢いを殺しながら後ろへ数歩よろめき、そこで踏み止まった。女のつけている香なのか、牡丹のような甘く淡い香りがした。
「……ッ、痛ぁ」
「無事か」
「おかげさまで」
密かに安堵も息を吐く。楚子の胸にぐったりと頭を預けた女は、俯いたままくぐもった返事をした。精神的には消耗しているようだが、とりあえず怪我はないようで何よりだ。だが密着したところから早鐘を打つ鼓動が直に伝わってきたため、楚子はいまだ抱えたままであった女の体を気づかれぬよう、ほんの少しだけ遠ざけた。
女を地面に下ろすと、再度ふらついた体を支える。布越しに掴んだ肩はやはり薄く、骨ばっている。どこか悪いのだろうか。ならば尚のこと、こんな無茶はすべきでない。
「お前はこの屋敷の娘か」
「はい、いかにも。苗字名前と申します。助けていただきありがとうございました」
ようやく平静を取り戻したのか、今度こそ女が顔を上げ、真っ直ぐ楚子を見た。やはり一目見た時と印象は変わらず、黒目がちのひたむきな目をしている。
おおかたどこぞの貴族であろうと察しはついていたが、とんだお転婆だ。苗字氏という一族は、よそ者である楚子にも聞き覚えがあった。それほどの名門の出であるのに、当の本人がこれだ。
「自分で登ったのか?」
「はい。庭師の梯子をお借りしまして」
借りたのではなくお前が勝手に使ったのだろう。そうは思うものの、一々指摘していては一向に話が進まないため黙って先を促す。
「ならばこんな真似などせず、出掛けるなら馬や籠を呼べばよいものを」
「実はお会いしたい方がいるのです。いつも待ってばかりなので、たまには私の方から会いに行ってみようかと」
急に女はぽっと頬を赤らめ、恥じるように袖で口元を隠した。
……ただの逢引か。
ようやく合点がつき、嘆息しそうになる。良家の子女が危険を冒してまで会おうとする相手がどれほどの男かは知らないが、身分違いの恋などその辺に掃いて捨てるほど転がっている。一種の熱病のようなものだ。そしてそのほとんどは叶うことがない。あくまで女は家の政治の道具で、自己決定の権限などまず認められないからだ。
見知らぬ他人の色恋に手を煩わされたことには複雑な気持ちになるが、理由などこの際どうでもいい。わずかな憐憫の情を覚えつつも、気を取り直すように腕を組み替えた。
「まあいい。後は勝手にしろ。せいぜいバレて騒ぎになる前に戻るのだな」
「どうもありがとうございました」
丁寧に拱手し頭を垂れた苗字名前のつむじを見下ろす。そのまま黙って背を向け、歩を進めた。
やっと解放された。道端で出くわした狂人ーー正体はやんごとない娘だったがーーのことはしばらく頭から離れそうにないものの、秦人とは皆こうも揃いに揃っておかしな人間ばかりなのであろうか。頭に思い浮かぶもう一人とは勿論、誰彼構わず勝負を吹っ掛ける上に中華最強を名乗っているあの男である。
最後に、一度だけ。気にかかり、そっと首だけで振り返って様子を窺う。
「嬢ちゃん、いいもの身につけてんなァ。俺らじゃ一生かかっても手が届かねェ品物だぜ」
「そうでしょうか? ありがとうございます」
「どこの貴族の娘だい? 道に迷ってんなら、俺達ここら辺には詳しいんだ。案内するぜ。こっち来いよ」
「まあ! 本当ですか? なんて親切なお方かしら」
案の定呑気な会話が聞こえてくる。見れば苗字名前は早々、目を下卑た色にぎらつかせた行商の男共に囲まれていた。なにせ彼女が纏う衣の、柔らかな絹布も鮮やかな染料も施された緻密な刺繍も、庶民は到底お目にかかることはない品だ。王都とはいえ貧と富が混在する街中を無防備に出歩けば、それこそ葱を背負った鴨である。
「〜〜〜ッ!」
唇を噛み、数秒目蓋を閉じる。深いため息と共に、一度返したはずの踵を再び返した。全く性に合わない。しかしやむにやまれぬ事情とはいえ、楚子が外へと連れ出してしまった以上、みすみすと人攫いにでも遭ってしまえばさすがに夢見が悪い。
無言で強引に人の輪へと割り込み、苗字名前の手首を掴んだ。やはり骨が薄い皮膚で覆われただけの、力を入れれば折れてしまいそうな細腕だった。
「お前……無闇矢鱈にうろうろとするな! 貴様は警戒心というものがないのか!?」
「でもこの方が道をよくご存じだと……」
「そんなの出まかせに決まっているだろう! いいから俺についてこい」
楚子がきっと睨みを利かせれば、不埒な輩は蜘蛛の子を散らすように去っていく。苗字名前に負けず劣らず良い身なりをしている楚子を敵に回すのは分が悪いと思ってのことだろう。妥当な判断だ。
「いいか、苗字名前。下賤の者とは口を利くな。目も合わせるな。心も許すな。お前のような見るからに弱く金のある女など、追いぎに遭うのが関の山だ」
未だ素性を明かさない己のことは棚に上げ、説教をする。無性に腹立たしかった。顔は進行方向に向けたまま、歩は止めない。半ば楚子に引き摺られる形になりながらも、苗字名前は抵抗もせず素直についてくる。
そもそもこいつは俺の話している意味を理解しているのだろうか。品のある言葉遣いには頭が足りぬわけではなかろうが、あまりにも無垢だ。敵国で一人、人質として日々気を張って生きている身からすれば、どうにも調子が狂う。
「ところで、お前はどこへ行きたいのだ」
「あの」
「何だ」
「きれいな御髪ですね。長くて艶やかで、よく墨を含ませた筆のようだわ」
「は?」
その意図を掴みかね、まじまじと苗字名前の顔を凝視してしまう。にこにこと相好を崩すだけの顔からは感情が読み取れない。だがすぐに悟った。深い意味などないのだ。楚子の髪が目に入り、感じたことをそのまま言葉にしただけなのだろう。一瞬でも異性としてのあれこれを勘繰った己が心底馬鹿らしくなり、鼻を鳴らすと無言で歩を速めた。そんな楚子にも苗字名前は小走りでついてくる。
馬車と人がひっきりなしに行き交う大通りまで出ると、苗字名前が立ち止まった。咸陽を貫く一本道のずっと先には、秦王が住まう豪奢な王宮の姿が見えている。
「この道には見覚えがあります。ここまで来れば一人でお屋敷に行けるわ」
「本当だろうな? さっきのように誰彼構わずついていくなよ」
「はい! 平気です。本当にありがとうございました。どうお礼をすればよいのか……」
「礼など要らぬ。ただの気まぐれだ」
もう一人で大丈夫だと宣う苗字名前の言い分に半信半疑になりつつも、こちらから食い下がるのもおかしな話だ。曖昧に頷き、結果的にずっと掴んでいた腕を離す。
「あっ! お名前! 私ったらまだ貴方様のお名前を伺ってなかったわ」
名前。だが名乗ることのできる名は、己の出生を表すものしか持っていない。ここで身分を明かすのは得策ではないだろう。人質としての身分保障はされているが第一に敵国の人間であることには変わりなく、戦で親兄弟を亡くしたりして目の前の女が楚に個人的な怨恨を抱いていないとも限らない。秦の貴族を唆して誘拐したなどと、後から要らぬ嫌疑をかけられても面倒だ。
ここまで思考を巡らせ、口をついて出たのは特におもしろみのない言葉だった。
「……名乗るほどの者でもない」
今度こそお別れだ。些か奇妙ではあったがこれまでの縁である。
そうだ。これでーー
「おい楚子! 遅かったじゃねェか! 待ちくたびれたぞ……ってなんでここに苗字名前が居るんだ!?」
「は?」
ずかずかと歩み寄ってきたかと思えば、不躾に名を呼ぶ。礼もへったくれもなく楚子へ気安く声を掛けてくる人間は、咸陽中を探し回っても蒙武だけだ。
突然場に乱入してきた第三者の大声に、二人して肩が跳ねる。
「……そし?」
しまった。余計なことを。蒙武を怒鳴りつけたい衝動に駆られながら目線を移せば、この上なくはっきり聞き取れてしまったであろう苗字名前は瞠目し口をぽかんと開けていた。弁解の必要などないにも関わらず、なんとか場を収めようとする心理が働く。
いや蒙武は今、この女の名前を呼ばなかったか?
「……たしかに俺は楚の人間だが、お前をだまそうとしていたわけでは……」
「では貴方様があの『楚子様』ですか!?」
待て。なぜそんな目で俺を見る。