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薄い膜を破るような感覚を抜けて、アズールが足を着けたのは港町の外れのようだった
彼女が元の世界に帰る際に渡したペンダントに込められた魔力を元に転移の座標を設定した
「人が少なくて、小さな田舎の港町に住んでたんです」
「小さな灯台があるんですけど、そこに登って景色を見るのが好きでした」
「良く画家の人が集まる場所だったんですよ」
「お土産用の真珠貝を加工した虹色のアクセサリーがいつも欲しくて、ずっと眺めてました」
かつて彼女が話してくれた故郷の話を思い出し、アズールは微笑むように目を細める。
空に伸びる白い灯台、スケッチブックやイーゼルを抱えて歩く人、観光客向けに売られた割高な貝殻のアクセサリー…あの子が話していた通りの景色だ。
この街のどこかにはいるはずだ。きっと。
アズールははやる気持ちと喧しい心臓を抑え、深呼吸する
もうすぐ会える。
まずは落ち着いて、魔力を探る。
「この世界に魔法がないというのは、本当のようですね」
ツイステットワンダーランドでは魔力やエレメントのない土地を探す方が困難だ。しかしここでは、当たり前に空気のように満ちていたそれらを殆ど感じられない
魔法が全く使えない訳では無いだろうが、魔力の補充に手間取りそうだ。
胸元のペンダントに触れ、歩き出す
魔法に頼れないのは不便だが、彼女に渡したペンダントの魔力を辿りやすいので良しとしておこう
潮の香りをたっぷりと吸い込んで胸を張る
愛しい恋人は、どんな顔で再会を喜んでくれるだろうか…
アズールの口元は自然と笑みを作る。あぁ、早く会いたい
「おにいちゃん、もしかしてあずーるさん?タコの人魚さんでしょ?」
そう突然服の裾を掴んできたのは、稚魚のように小さな女の子だった
驚いて女の子を見下ろしたアズールは思わず目を瞬かせる
「お嬢さん。どうして、そう思ったのですか?」
その女の子は、どことなく監督生の面影を感じさせる。もしかして、監督生の子供か?結婚したのか?僕以外のオスと?
「お婆ちゃんがね、よくお話してくれるの。銀色の髪のタコさんの話!」
お婆ちゃん…
アズールは思わず膝をついて倒れたくなった。結婚したのか。子供を産んだのか。それもショックだが、恐れていたことが起きた。
この世界とツイステットワンダーランドの間には時間の歪みがあったのだ。
ツイステットワンダーランドのたった5年の歳月が、こちらでは何十年にもなっていたのなら…彼女は帰ったあと、両親や友達とと無事に再会出来たのだろうか…
「迎えに来たんでしょ?」
女の子はアズールの様子など気にした風もなく、真っ直ぐに青い目を見つめる
「お婆ちゃんね、いつも貝殻の形のネックレスつけてるの!それは魔法のネックレスでね、人魚の王子様が迎えに来るんだって!」
女の子はアズールの手を引いて歩き出す
「ちょっと、あまり引っ張らないで下さい。転んでしまいますよ?!」
アズールは小さな女の子に合わせて腰を曲げつつ、引き摺られるように歩きつつ困惑した声を上げる
「お婆ちゃんね、いつも灯台の下のベンチに座ってるの!」
女の子は銀髪の王子様を見つけて興奮していた。
ママもお友達も、お婆ちゃんのことを嘘吐きだって思ってる。お婆ちゃんの話が全部作り話だって思ってる
だけど違う!やっぱり本当の話だった!だって、銀の髪の王子様が本当に来た!お空の青い目で、背が高くて、格好いい王子様!
「あずーるさん、早く来て!」
女の子は笑う。いつか自分が愛していたあの少女に似た笑顔で
アズールはこれから会えるであろう年老いた彼女に、別の家庭を持ってしまった彼女に、どんな顔をすればいいかわからなかった
老婆は1人、潮風にあたっていた。毎日灯台の足元にあるベンチに腰掛けて海を見つめる
心安らぐ日課だ。かつて愛したあの人の香りに包まれて、あの人の瞳に似た空を眺める。
灯台は船が迷わない為にある。霧や闇が深くとも、光を放って…
「お婆ちゃーん!」
幼い女の子の声が自分を呼ぶ。老婆はゆっくりと振り返り、動きを止めた
「監督生さん」
「アズール、先輩」
夢かと思った。別れた時とさほど変わらない姿の男が、つかつかと歩み寄ってくる
監督生は立ち上がろうとしたが、年老いた身体は中々急には動けない
「あぁ、無理をしないで」
アズールは監督生のすぐ隣に立ち、腰に手を添える
監督生は少し寂しそうに
「ごめんなさい、私、お婆ちゃんになってしまったの」
と笑った
ベンチに2人で並んで腰かける。その姿は恋人には見えないだろう。
アズールを送り届けた女の子は、灯台を登って遊んでいる。ここにいるのは2人きり。
老婆は胸元のペンダントに触れる。隣にいる男の胸元にもあるペンダントとは違い、幾分かくすんでいるそれが、過ぎた年月の違いを改めて主張する
監督生はゆっくりと口を開く
「ごめんなさい、アズール先輩。私、あなたを待ちきれずに結婚したの」
「そうですか。」
「子供も孫もいて、とても幸せよ」
「そう、ですか。」
「わざわざ迎えに来てくれたのに、ごめんなさいね」
「いえ…」
老婆は嗄れた声で、ゆっくりと話す。
アズールは監督生の手を握り、空を見つめる彼女の横顔を見つめて、いつかのようにへにゃりと笑った
「あなたは、相変わらず嘘が下手ですね」
アズールは監督生の手を引き寄せ、左手の薬指を撫でる
「監督生さん。1度、幽霊の花嫁が押しかけてきたのを覚えていますか?」
「えぇ、覚えてます。たしかみんな思いっきりビンタされて…痛そうでしたね」
監督生は少女のようにクスクスと笑う。あぁ、変わらないな。とアズールは微笑む
「あの時、あなたが言ったんですよ。「私もここに指輪を貰うのが夢なんです」って。「宝石は小さくて、シンプルなデザインが良いな」とも仰ってました」
人魚には馴染みのない文化で不思議に思ったことをよく覚えている。人魚の掌には水掻きがあるから指輪を嵌めることは出来ない
いつか自分がその指に似合う指輪を渡してやろうと心に決めたことも、昨日の事のようにしっかりと覚えていた。
「よく覚えてますね、そんなちょっとした話しなんて」
「他でもない、あなたのお話ですから。ロマンチックなあなたが、結婚して、ここに指輪を着けていないはずないでしょう?」
アズールは空色の目を細める。
「あなたはね、嘘をつく時、くちびるに触れるんです。」
「……。」
「先程のあの子は、妹さんのお孫さんだそうですね。あなたのお孫さんかと思って、少し驚いてしまいました。目元がとてもよく似ている。」
「…ダメですよ、アズール先輩。私、お婆ちゃんになってしまったの」
「でも、僕を待っていてくれたのでしょう?」
「あなたはまだ若い。私よりも可愛くて頭良くて…」
「あなたは変わりませんね。そんなくだらない事より、言いたいことがあるはずです。」
アズールは自信満々に胸を張って、メガネの奥で瞼を細めて、監督生を見つめる
老婆は微笑む。いつだってそうだ。この人は私の本音を引き摺り出す。本当に強欲で困った人。
「…アズール先輩」
「はい」
「私、お婆ちゃんになっても、あなたを待ってたの」
「はい」
「私を、連れてって」
監督生はポロポロと泣きながら笑う
「喜んで。」
アズールはポケットから小瓶を取り出し、監督生に手渡す
「これを飲んで。」
監督生は小瓶を見つめ、次にアズールの顔を見つめる
アズールは無言で頷いた。監督生は躊躇いつつも、ゆっくりと飲み干す。相変わらず、魔法薬はびっくりするほどゲロ不味い。
「さぁ、行きましょう。僕のプリンセス」
アズールは恭しく老婆の手を引いて微笑んだ
女の子はその日、魔法を見た。
小さくて腰を曲げた老婆の体が光り輝き、蕾が花開くようにみるみる美しく若返っていく
優しい目元はそのままに、お婆ちゃんはお姫様に変わっていく
いつの間にか真っ白なドレスに身を包んだそのお姫様は、銀色の髪の王子様に手を引かれて幸せそうに笑って
「さよなら、私の世界」
と泡になって消えていった
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