「……ここはどこ?」

鈴が描いてくれた地図を握りしめて、呆然と立ち尽くしている。
きょろきょろと辺りを見回すが、人っ子一人いない。遊郭街にこんなに寂れた場所があるのか、と寒々しい雰囲気に身体がぶるりと震えた。

「鈴の地図外に出ちゃったみたい…」

手の中にある地図には、ここらしき道は描かれてはいない。さてはて、本格的に危なくなってきた、と頭を抱えた。

「(堕姫にすぐに帰ってくるなとは言われたけど、これは帰れるか怪しいぞ…)」

まず墨さえも買えていない。本来の目的はそっちではないにしろ、手に入らなければそれはそれで怒る彼女が容易に想像できる。
大きな溜め息を吐いた。

「……困ったなぁ。」

このまま立ち往生していても仕方がないと、寂れた家屋に顔を覗かせた。
中は思っていた以上に暗く、喚起もしていないのか湿っぽくかび臭い空気が漂っていた。

「すみません。どなたかいらっしゃいませんか?」
「……アンタは?」

奥のより暗い部屋から、一人の女性が姿を現した。
青白い顔、荒れた肌。ぎょろりとした目に、枯れたような髪。この家屋の元々の雰囲気も相まって、異様な佇まいだった。

「道に、迷って……大通りはどっちに行けばいいのでしょうか。」

言葉も発せられず、枯れ枝のような指で方角だけ指された。
一秒でも早くここから立ち去りたい私には、彼女の無愛想な態度も気にならなかった。

「ありがとう。」

そそくさと顔を引っ込めようとした時、薄暗い奥の部屋からバタバタと向かってくる、数人分の足音が聞こえてきた。
バン、と開けられた襖から、三人の女が溢れんばかりに顔を出した。どの女も髪は荒れ、申し訳程度の化粧しかしておらず、髪にも流行おくれの簪が無造作につけてある有様だった。

「誰!?」
「客かい!?」
「やめてよアンタら! 私の番でしょ!?」

騒音ともとれる金切声の彼女たちに、ぎょろ目の女が我慢ならない様に言った。

「煩いよ!! アンタらに客なんか来るもんか!! 奥にすっこんでな!!」

酷い物言いだったが、客前の堕姫や姉様たちと比べものにならない相貌に、妙に納得した。

「何見てんだい? こいつらをアンタが買うってんのかい!?」
「いっ、いいえ!」

ぎょろ目の女に睨みつけられ、すぐに顔を出して戸を閉めた。
難癖を付けられる前に、と聞いた方角へと足を向ける。

「何だったの、今の……」

先程の女たちの必死の形相が頭から離れない。
渇望、決死、憎悪を溢れ出していて、思い出すだけで吐き気がしてきた。
とりあえず私は大通りに出なければならない。頭を振って彼女たちを思考から追い出し、何も考えないように足を動かすことに専念した。



足早に進んでいると、人の声が聞こえ始めた。
どうやら大通りまで戻ってきた様で、昼見世が始まる時間帯なのだと察しがついた。
手に握りしめた地図を開くと、どうやら目的の文具屋まで近いようだった。

「お遣いだってやればできるじゃない。」

先程まで迷っていたことは棚に上げ、功績を褒めて自身を奮い立たせた。
そうしていなければ、先程の女達の色に引きずられそうだった。

地図の通りに進んでいくと、目的の文具屋に到着した。

「ごめんください。」

開いていた入口から顔を覗かせて挨拶をすると、優しそうな初老の男性が微笑みかけてくれた。

「いらっしゃい。御遣いかね?」
「…なぜお分かりに?」
「こんな文具屋に来るのは、遊女付の子くらいだからね。遊女は自分で墨を買いに来る暇もないだろうから。」

なるほど、と頷き、促されて店の中へと入った。
墨はすぐに見つかったが、色の付いた鉛筆や線を引くための板のような物珍しいものに目を魅かれ、少しの間居座ってしまった。

「よぉ、店主。やってるか?」

他に来客があると思っておらず、背後から聞こえた声に驚き、振り向いた。振り向いてまた驚いた。
肩に付きそうな黒色の髪に、赤く光る左眼は人を惑わしそうだ。目が悪いのかきらきらとした石で装飾をした眼帯をしているが、その下の右眼もきっと左眼の様に妖艶な色気を醸し出しているのだろう。
一番息を飲んだのは七尺(※)はありそうな背丈だった。緩く合わせている胸元から見える胸板を見るに、大層身体つきも立派なのだろうと推測できた。
ただ、何かすごく違和感を感じた。それが何かは分からなかったが、あまりじろじろと観察するのは良くないかと、目の前の色の付いた鉛筆に視線を戻す。

「いらっしゃい。昨日の和紙じゃ物足りなかったかね?」
「いや、あれはいいもんだった。派手に喜ぶだろうな。」
「そりゃあ良かった。今日はどうしたんだ?」
「昨日和紙を買ったはいいんだが、墨を持ってくるのを地味に忘れちまってなぁ。現地調達した方が早そうだったから買いに来た。」
「それだったらそこの嬢ちゃんがいるところの棚にあるよ。」

耳立てて話を聞いていると、急に私のことが挙がり、びくりと肩を揺らした。
大柄な男がこちらに歩いてくる気配がしたので、横にずれて空間を空けた。……それはもう、この狭い店の中で大柄な彼が隣に立っても絶対に触れ合わないぐらい隅に。
過剰に避けた私を気にしないわけもなく、大柄な男はその赤い眼で俯く私の顔を覗きこんできた。

「あの、なんでしょう……?」

彼の顔を見て、先程感じた違和感の正体が分かった。

「(……この人、色が見えない……!)」

今までどんな人にも、薄くとも色は出ていた。感情のない人間なんて、そうそういるものではない。数回見かけたことがある無色の人は、口が利けない程に”壊れた”人だけだった。
こんなに他人と意思疎通が図れる人で、色が見えないことに酷く違和感を覚えたのだ。

「お前、遊女にしちゃあ、地味だな!」
「……は?」
「言葉遣いも悪いと、客がつかねぇぞ!」

そう言って豪快に笑い始めた彼に、誰がいい印象を受けようか。
極めつけにむすっと頬を膨らませた私を見て、悪い悪いと頭を叩きあやすもんだから頭に来る。

「私、遊女じゃありません。未だ、見習いですから。」
「そうなのか? それにしちゃあ歳はそこそこいっているようだが。」
「事情があるんです。私が遊女になったら、貴方なんてすぐに腰抜けにできますから!」

私の言い返しに、男はまた大口を開けて笑い始めた。幼稚な言い返しをしてしまったことに自覚はあったので、顔に熱が集まった。

「そりゃあ育つのが派手に楽しみだな! だが、俺を落とすのはなかなか骨が折れるだろうがな。」

こんなに表情豊かであるのに、色が見えないこの人を落とすのは、確かに相当に難しいだろう。
ましてや色男だ。今までたくさんの女性に声を掛けられていたに違いない。
何も言い返せず喉の奥で唸っていると、目に溜まった涙を拭きながら謝罪をしてくる。

「悪かった、機嫌直せよ。遣いか? 時間はまだあるのか?」

正直、遊んでいる時間はない。堕姫に頼まれたお遣いは墨だけではないのだ。

「機嫌を損ねちまったお詫びに、甘味でも奢ってや「行く。」

即答を返した私に、右目が丸く見開かれた。また笑われるかと思ったが、思いの外優しく微笑んだものだから、次は私が目を見開く番となった。

「素直なのはいいこった。」

大きな掌で頭を撫でられると、棚から墨と色鉛筆、ついでに私の腕からも墨を取り上げる。

「ちょ、ちょっと! それ私の!」
「いいんだよ、黙っとけ。」
「私が頼まれたものなの! 返してよ!」
「ぴーぴーうっせえなぁ。」

手を伸ばしても、七尺にもなりそうな頭の上に持ち上げられては届かない。
私を押さえこみながら、彼はお爺さんのところまで行ってしまった。

「毎度。お嬢ちゃんの分までいいのかい?」
「ああ、詫びだからな。あ、あとこれもいいか?」
「……あぁ、また粋なことをするね。」
「まぁな!」

丁度横にあった桃色の桜柄の風呂敷を一枚追加する様子を、誰かにお土産だろうか、と見ていると、お爺さんがおもむろに包装を開け始めた。

「え!? 開けちゃうの!?」
「ア? 開けなきゃ使えねェだろうが。」
「つ、使うの……?」

この大柄の男が…?
人の趣味に口出しはあまりしない方ではあるが、今回ばかりは怪訝な顔をしたのは仕方がないのではないか。
私が思っていることを理解したのか、頭上から拳骨が降ってきた。

「痛っ!」
「お前今失礼なこと思っただろ! お前が使うんだよ、お前が!」
「私……?」

痛む頭頂を撫でていると、お爺さんが手を出してきた。
どうやら手に握った地図と小さな風呂敷を貸してほしいらしい。
私の手より皺の多いその手に地図と風呂敷を渡すと、色鉛筆と私が持っていた墨と一緒に綺麗な風呂敷で包んでしまった。

「はい、お嬢ちゃん。」
「え、あ、ありがとう…」

もうお嬢ちゃんと呼ばれる歳ではないが、という反論は飲みこんでおいた。
手の上に置かれた綺麗な桃色の風呂敷は、この文具屋に入った時よりも重くなっている。

「あ、御代は……」
「いいから。」

持ってきた風呂敷の中にお金が入っていることを思い出し、新しい風呂敷を開こうとする私を男が肩に抱えた。
気が付いた時には、私の視界は彼の背中と尻、その先に地面が見えるだけとなった。

「ちょっ……下ろして!! やだ、なに!? 下ろして!! 御代!!」
「あーもーうっせェな。」

私がぎゃあぎゃあと背中を叩き、腰に巻かれた帯を掴む。足を動かすとお爺さんを蹴りかねなかったのでそちらは動かさない。
私が騒いでいる間に支払いが済んだのか、男はお爺さんに礼を言うと踵を返して出口へと向かう。
急に動かれたため体勢が不安定となり、慌てて彼の着物を掴んだ。
顔を上げるとにこりと微笑んだお爺さんが見えた。

「あの、ありがとうございました。」
「またおいで。」

歓迎の言葉に頭を上下に振ると、大きく揺られながら、私(と男)は店を後にした。


※七尺…現在の2m12cm。

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