せっせと着物を着る手伝いをしてくれた彼女の源氏名は、藺草(イグサ)といった。
彼女はどうやらここに売られたらしく、親の顔も覚えているとのことだった。

「まぁ、だからといってもう恨むどころか名前さえ覚えちゃいないけどね。」

そう言って笑う彼女に、寂しさの色が含まれていたが、気が付かない振りをした。

「さあ、できたよ。鏡で見てみなさいな!」
「……わぁ……」

豪華な着物に身を包み化粧をした私は、普段の姿からは想像できない煌びやかな雰囲気を纏っていた。

「色気が足りないけど、それはここにいれば嫌でもついてくるから安心おし。」

果たして色気を身に付けられるほどここにいるのだろうかと疑問に思ったが、鏡の中の私は黙って頷いた。

「とりあえず着物の着方は覚えた? 明日からは私がいるとは限らないから、手伝ってあげられるか分かんないよ。」
「多分、大丈夫です……」

頼りない返事だねぇ、と笑って返される。藺草が言った通り、基本的には普段の着物の着付け方と変わらない。要所要所を押さえていれば、それが遊女の着付け方となる。

「どうだい? 着替えは終わったかい?」
「女将さん、丁度良かった!」

襖の向こうから呼びかけた声は、女将さんのものだった。呼び掛けに元気に応じた藺草が襖を開ける。
そこに立っていた女将さんが、私の姿を視認すると目を見張った。

「…流石藺草だ、化けたもんだね。まぁ、ちょっと色気は足りないけど。」
「それ、藺草姉様にも言われました…」

正直に言うと、そりゃあ現役遊女に色気は負けるだろう、遊女の商売上がったりになるぞと思ったが、そこはぐっと言葉を飲みこんだ。
そんなに言われるほど私には女の魅力が無いのだろうか、とまで考えて、あれだけ閉鎖空間で過ごしていたのだから、色気などなくて当然だと妙に納得した。

「まぁここにいれば嫌でも身に付くさ。おいで。アンタには覚えてもらうことが山ほどあるからね。」
「いってらっしゃ〜い! 頑張りなね!」
「着付け、ありがとうございました。」

女将さんの後ろに付きながら、手を振る藺草にぺこりと頭を下げた。





まず教えられたのは、厨房までの道のりだった。確かに道を知らなければ、仕事にもならない。

「ここが厨房だよ。」

たくさんの遊女を抱えているには小さい厨房だった。入口に置かれた机に、出来上がってどれだけの時間が経ったか分からない、冷め切った膳が乗っていた。

「これがアンタの分。あっちの奥が蕨姫の分だよ。」

指された方を見ると、厨房の真ん中の方に大き目の膳が乗っていることに気が付いた。

「アンタは蕨姫の分を持って行きな。」

そう促されて中央へと向かう。近付いて分かったが、こちらの料理はまだ温かかった。

「(これがここでの身分の差……)」

温かい料理が乗った盆を、ひっくり返さないように慎重に持った。意外と重さがあり、昨日の傷に響く。

「蕨姫の部屋はこっちだよ。」

いつの間にかもう一人いた女の子が私が食べるであろう膳を持って、入口で女将さんの隣に立っていた。
装いが私と似ていることから恐らく禿なのだろうが、私よりもかなり幼い。如何に私が禿に向いていない歳であるかが伺えた。

零さないように気を付けながら部屋への道を覚え、更に歩き方まで注意を受ける。そして最大の敵は磨き上げられ、足袋で滑りそうになる床板だった。
おまけに喰われた腕が痛み、額に脂汗が滲む。

「良く零さなかったじゃないか。ここが蕨姫の部屋だよ。」

道は覚えたかと問う女将さんに、盆から目を離すことなく肯定の返事をする。
だってしょうがないのだ。今返答をするだけの行動で、汁物がお椀の縁をなぞるのだから。

「その膳を床に置きな。」

え、と聞き返す余裕さえない私が、震える手で腰をかがめようとすると、頭上からぴしゃりと声が落ちてきた。

「そのへっぴり腰をやめな! いいかい、こうやって座るんだよ。鈴、手本を見せてやんな。」
「はい。」

名前──といっても源氏名であり偽名なのだが──の通り、鈴が鳴るような声で返事をした禿は、流れる様な所作で膳を持ったまま座り込んだ。
あまりにも自然なその動きに、どうやって座り込んだのか理解ができなかった。

「あ、あの、もう一度見せてもらえませんか…?」

申し訳なさから小さな声量となった私の声を、鈴はしっかりと聞き取ったらしい。
座った時と同じ様にすっと僅かな布擦れの音で立ち上がると、次は先程とは違い、ゆっくりと座り込んでくれた。

「すごい…布の擦れる音も最小限…流れる様に座ってる…汁物の中身もほとんど動いてない…」

思わず感嘆の声が漏れると、鈴は恥ずかしそうに身じろぎした。年相応の反応に、可愛さが伺えた。

「アンタもやってみな。」

女将さんに促され、膳の汁物に目を向ける。
そろりと膝を曲げると汁物に波紋が浮かぶ。腰を下げる程にその紋様は大きくなっていったが、私の膝が床板に付くまで何とかお椀の中に保ってくれた。

「まだまだだけど、まぁこれからだね。」

ふぅ、と一息吐いた私に、女将さんからそう評価を貰った。とりあえず今の私には合格点らしい。
ぴかぴかの床板にそっと膳を置くと、音が立たなかった鈴とは違って、かたんかたんと音が立った。難しいものだ。

「じゃあ鈴、襖の開け方を見せてあげな。」

そう言われた鈴は、びくりと肩を揺らしたかと思うと視線を床板の一点から外さずに震え始めた。
女将さんはそんな彼女の肩を優しく叩いてあげている。彼女たちの姿を見て、堕姫が如何に恐れられているかを痛感させられた。

「大丈夫。今日は私もいる。」
「……は、い……」

身体と同様、震える声で返事をした鈴は、きゅっと唇を噛み締め、襖の向こうに声を掛けた。

「蕨姫花魁、夕餉をお運び致しました。」
「入っていいわよ。」

すっと横に襖を滑らせる。そのまま手をつき頭を下げる鈴は、先程ではないものの未だ小さく震えていた。

「失礼いたします。」

鈴の声に私もはっとして彼女に倣い、頭を下げて挨拶をする。
……あぁ、これは後で殴られるな、と心の中で思った。

「えっと、先に蕨姫花魁の夕餉を持って行くの。」

小声で鈴に教えられ、さて困ったと思った。私は配膳の仕方が分からない。
彼女もそれに気が付いたようで、困った様に女将さんを見上げた。

「蕨姫、アンタが連れてきた子は鈴の見よう見まねでやり方を覚えてんだ。今日はこの子の膳を先に鈴が手本で配るけどいいかい?」

女将さんがすかさず助け船を出してくれる。その言葉に、堕姫が是の返事をすると、私と鈴はホッと小さく息を漏らした。

「よく、見てて。一発勝負だから。」

先程の様に、堕姫の前で何度も鈴の手本を見ることはできない。そして堕姫の前で失敗もできない。
酷い緊張に私の喉が鳴るが、目の前の鈴も不安と緊張の色を漏れ出させていた。

御膳を持ち、たてる音を最小限に立ち上がった鈴が、敷居を跨いだ。女将さんに教えてもらった歩き方を完璧にこなし、堕姫の目の前の空間に縮むように座り込んだ。膳を置くと手を付き頭を下げた。誰もいない膳の前に頭を下げている姿は何とも奇妙ではあったが、その一連の流れは洗練されていて無駄がなく、どうしようもなく目が惹きつけられた。

「さあ、アンタの番だよ。やってみな。」

女将さんに声を掛けられてハッとした。鈴の動きに目を奪われていた。
からからのはずの喉をもう一度鳴らして、目の前の膳に手を掛けた。持って来たよりも重く感じるのは、きっと緊張からだろう。
持ち上げる際に痛んだ腕に顔が顰められるのを何とか抑え、鈴の動きを真似て立ち上がる。汁物が大きく回ったが、とりあえずは零れずに済んだ。
そろりと一歩を踏み出す。すぐに敷居があったが、確か鈴はこの上と畳の境目の上だけは、僅かに緊張の色を濃くしていた。そしてその足はそこを避けていたような気がする。きっと踏んではならないのだ。
そう結論付けた私は、敷居を小股で跨いだ。ほ、と後ろから息を吐く音がしたので、女将さんも緊張していることを悟った。

「(ええと、堕姫の目の前までこのまま歩いて行くけど……)」

部屋を斜めに突っ切れば最短であるはずなのに、鈴は敢えて縦横で通って行ったはずだ。
私も部屋に入ったまま真っ直ぐに進み、堕姫の前に着くだろう横延長線上まで来た。あまり不自然にならないよう直角に曲がると、そのまま真っ直ぐに進む。

「(わぁ! ぴったり!)」

ちょうど堕姫の近くに膳が運べる位置となり、自分の目測を褒めてやる。その場にすっと座り、膳を静かに置いてから堕姫に向き直って気が付いた。気が付いてしまった。私の犯した大失態に。

「(……堕姫が近すぎて、礼ができない……!)」

食べやすい場所に、と思って夕餉を置いた場所は、思いの外堕姫に近かった。堕姫と膳の距離感ばかり測り、自分が礼をすることを失念していた。
確かに鈴の膳は食べる本人がいないのだから、彼女の動作からいい距離感を学ぶことはできない。ただ、少し気を付ければ分かることだ。明らかに私の失態だ。
背中に冷たい汗が流れていくのが分かる。堕姫の顔を見られない。座ったまま膳とにらめっこをしていると、ふ、といい香りが鼻を掠めた。堕姫の、匂いだ。

「あ、あの……」
「なに?」

震える声でこれから言う言い訳が上手くいくようにと願った。

「蕨姫花魁からとてもいい香りがして…釣られて近くに寄ってしまいました…」

自分で言っていても歯の浮くような言葉であると思う。気恥ずかしくなってはにかめば、堕姫の大きな目がまん丸く見開かれた。

「ばっ……かじゃないの!? 分かったからとっとと自分の席に着きなさいよ!」

大声を上げた堕姫の耳が赤く染まっているのを見て、私の作戦は上手くいったことを悟った。少しだけ身体を後ろに移動させ、一度深く頭を下げると、鈴が丁寧に置いてくれた膳の前に座って堕姫と向き合った。
彼女は私を忌々しげに睨んではいるものの、頬と耳がほんのりと赤いため、可愛さしか感じなかった。

「じゃあ私らは行くけど、もう御膳の片付ける場所は分かるね? 終わったら片付けにきな。」

声を掛けられた方を見ると、いつの間に移動したのか、入り口に鈴と女将さんが立っていた。
二人に礼を言うと、女将さんは微笑んでくれた。

「あ、あと源氏名を考えておくんだよ。」

そうだった、と思った時には襖はもう閉まっていた。
語彙力のない頭を捻ったところでどうせいい名は浮かばないのだから、あとで女将さんに付けてもらうことにしようと、一度頭からその問題を追い出した。
さあ夕餉を食べよう、と正面の堕姫に向かい直ると、珍しく彼女が難しい顔をしていた。

「あの、堕姫…?」
「ここで私をその名で呼ぶんじゃないわよ。」
「ご、ごめんなさい…」

心ここに非ず、といった表情で、注意をする口調もいつもより気が入っていない。
どうしたんだろう、と見ていると、唇が僅かに動いていることに気が付いた。どうやら何かぶつぶつと呟いているらしかった。
正直お腹は空いているが、堕姫が手を付けないのに私が先に食べ始めるわけにはいかない。動かない彼女をひたすらに見守った。

「……黄梅。」
「オウバイ?」

聞こえる程の声量で呟かれた言葉は、聞いたことのない音だった。音が合っているかと聞き返すと、堕姫が説明をしてくれた。

「黄色の梅って書くの。何でもいいんでしょ? 文句あんの?」
「ない! 黄梅、黄梅かぁ…!」

どうやら私の源氏名を考えてくれていたようだった。
堕姫が付けてくれた名が嬉しくて、気分が高揚して頬が熱くなるのが分かった。

「アンタがさっきふざけたこと抜かしたこの香は、梅の香なのよ。アンタにぴったりでしょ。」

そう言って目の前の膳に口を付け始めた。鬼でも一応人間と同様の食事が採れないわけではないのか、と思った。
皮肉でもなんでも、堕姫が名づけてくれたことが嬉しくて緩む口元を隠しながら、私も目の前の冷めた夕餉に手を付け始めた。

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