臆病者ピアニッシモ
※
『アンダンテ逃避行』の前日譚
本を読むその横顔が、すごく綺麗だった。
臆病者ピアニッシモ好きなひと。
彼氏彼女より青い響きのあるそれは、どことなく美しい気もする。けど俺の場合、この感情はきっといいものじゃない。
みっともなく嫉妬して、情けなくいじけて。そんなのばっかりだ。
「スタンプある? 日付の」
「あ、こっちです」
「さんきゅ」
貸し出しカードに押すスタンプと朱肉を受け取るとき、乾いた指先が触れ合った。
指先がじんと熱い。口の中で舌がもつれて、視線が泳いだ。
黒子はなんにも気にしてないのに。ばかだろ、俺。
ばかだ、ほんと、ばかだ。
いつになったら、俺は前の俺に戻るんだろう。失恋したら? 両想いになったら? どっちも無理だ。だって俺には、告白する勇気すらない。
誰かを好きになると、世界が変わる。俺は変わらない方がよかった。誰かを好きになるのは多分いいことだけど、でも俺はこんな風になるなら、何も知らなくてよかった。
こんなことを考える俺は、告白する資格もないにちがいない。
ぎゅ、とカードに強くスタンプを押す。赤が滲んで数字が崩れた。
ずっと失敗ばっかだ。俺って、ほんと。
「『精神的に向上心のない者はばかだ。』」
「――っえ?」
ぎょっとして、声が裏返った。ああ、またやった。黒子もびっくりしてる。はずい、はずい。
「すみません、突然。降旗君は知ってますか、『こゝろ』」
「こころ……夏目漱石の?」
「はい、知ってます?」
「……や、聞いたことくらいあるけど、あんまわからない」
黒子は本の角を指でしきりに撫でながら、じいっとタイトルを見つめた。
「『こゝろ』は三部からなっていて、そのうちの三つ目は主人公の先生の遺書が綴られています。その“先生”は、恋敵に言うんですよ」
「……ばかだ、って?」
「ええ。恋を諦めさせたくて。この台詞はその恋敵……“先生”の親友が、以前言った言葉だったんです」
「そのまま返したのか。……なんかちょっと、えぐいな」
「かもしれませんね」
図書室にはもう俺と黒子しかいなかった。黒子の話を聞きながら、鍵取ってこなきゃとぼんやり考える。
「この本は本当に、“こゝろ”なんですよ」
「え?」
「嫉妬、羨望、優越感……全部むき出しで書かれてるんです。内面が、そのまま」
少し傷んでいるカバー。日焼けした紙。
今まで何人が、この“こゝろ”に触れたんだろう。
「好きなことのために必死な、こころしか書かれてません。だから僕、その“先生”のことも嫌いになれないんですよ」
多少歪んでいても、すべて真実だ。
「『精神的に向上心のない者はばかだ。』――真理でしょう」
ばか。
俺はほんとに、ばかだ。
心臓が震えてる。顔も耳も熱い。
俺はばかだけど。
お前の前で向上心がないなんて、言える訳がない。
「つ…次の休み、空いてるって言ってたよな? 一緒に、遊園地行かね?」 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
友人のお誕生日に
彼女が生まれてきてくれたことに感謝して、捧げます
2013/12/05 初出