臆病者ピアニッシモ




『アンダンテ逃避行』の前日譚













本を読むその横顔が、すごく綺麗だった。



















臆病者



















好きなひと。

彼氏彼女より青い響きのあるそれは、どことなく美しい気もする。けど俺の場合、この感情はきっといいものじゃない。

みっともなく嫉妬して、情けなくいじけて。そんなのばっかりだ。

「スタンプある? 日付の」

「あ、こっちです」

「さんきゅ」

貸し出しカードに押すスタンプと朱肉を受け取るとき、乾いた指先が触れ合った。

指先がじんと熱い。口の中で舌がもつれて、視線が泳いだ。

黒子はなんにも気にしてないのに。ばかだろ、俺。

ばかだ、ほんと、ばかだ。

いつになったら、俺は前の俺に戻るんだろう。失恋したら? 両想いになったら? どっちも無理だ。だって俺には、告白する勇気すらない。

誰かを好きになると、世界が変わる。俺は変わらない方がよかった。誰かを好きになるのは多分いいことだけど、でも俺はこんな風になるなら、何も知らなくてよかった。

こんなことを考える俺は、告白する資格もないにちがいない。

ぎゅ、とカードに強くスタンプを押す。赤が滲んで数字が崩れた。

ずっと失敗ばっかだ。俺って、ほんと。

「『精神的に向上心のない者はばかだ。』」

「――っえ?」

ぎょっとして、声が裏返った。ああ、またやった。黒子もびっくりしてる。はずい、はずい。

「すみません、突然。降旗君は知ってますか、『こゝろ』」

「こころ……夏目漱石の?」

「はい、知ってます?」

「……や、聞いたことくらいあるけど、あんまわからない」

黒子は本の角を指でしきりに撫でながら、じいっとタイトルを見つめた。

「『こゝろ』は三部からなっていて、そのうちの三つ目は主人公の先生の遺書が綴られています。その“先生”は、恋敵に言うんですよ」

「……ばかだ、って?」

「ええ。恋を諦めさせたくて。この台詞はその恋敵……“先生”の親友が、以前言った言葉だったんです」

「そのまま返したのか。……なんかちょっと、えぐいな」

「かもしれませんね」

図書室にはもう俺と黒子しかいなかった。黒子の話を聞きながら、鍵取ってこなきゃとぼんやり考える。

「この本は本当に、“こゝろ”なんですよ」

「え?」

「嫉妬、羨望、優越感……全部むき出しで書かれてるんです。内面が、そのまま」

少し傷んでいるカバー。日焼けした紙。

今まで何人が、この“こゝろ”に触れたんだろう。

「好きなことのために必死な、こころしか書かれてません。だから僕、その“先生”のことも嫌いになれないんですよ」

多少歪んでいても、すべて真実だ。

「『精神的に向上心のない者はばかだ。』――真理でしょう」

ばか。

俺はほんとに、ばかだ。

心臓が震えてる。顔も耳も熱い。

俺はばかだけど。

お前の前で向上心がないなんて、言える訳がない。













「つ…次の休み、空いてるって言ってたよな? 一緒に、遊園地行かね?」



















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友人のお誕生日に

彼女が生まれてきてくれたことに感謝して、捧げます


2013/12/05 初出



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