「なまえ、どした?」
「え、なにが?」
「顔がにやけてるぞー」


切原くんの去ったあと、わたしはしばらく固まったまま動けずにいた。少なくとも、保健室の先生がやってきて、授業はじまるよ、と言われるまでは。

昼休みは仲よしのマホちゃんと教室でごはんを食べる。わたしの席は窓際のいちばん後ろなので、この時間はお日さまがあたってとてもきもちがいい。


「聞きたいー?」
「うわ、なにその顔、だらしな!」
「あのね、切原くんって知ってる?」
「ああ、テニス部の?」


マホちゃんに今朝の出来事をかいつまんで話す。おニューの靴を履いてきたこと、保健室で切原くんに遭遇したこと、ゆえに靴擦れ様々であること。頭に手を置かれたことを話すときは、気恥ずかしくて声が小さくなってしまった。それなのにマホちゃんは「ええ!あんた後輩に頭撫でられてときめいてんの!」なんて大きな声を出すものだから、一気に注目を集めてしまう。


「ちょっと、声が大きい!」
「で?そのあとは?」
「おしまいだって!もう次いつ会えるかなんてわからないし」
「うわ〜」
「なに」
「なまえちょろいな〜」
「なにそれ〜」
「だってもう、好きでしょ?」


今度はわたしが大きな声を出す番だった。切原くんはとてもいい子でかわいくて、ああ見えてすごく真面目だった。わたしが委員会の仕事が終わらなくて残っていたとき、切原くんが一人手伝いにきてくれた。今日は部活が休みだからと言っていたけれど、あとで真田くんに叱られている姿を見たこともあった。

でも、だからと言って、そういった感情に繋がるわけではない。マホちゃんは少女マンガの読みすぎなのだ。

午後の授業中、わたしはずっと切原くんのことを考えていた。

切原くんと出会ったのは、いちばん最初の委員会でちょうど隣に座ったときだった。時間ギリギリでバタバタと駆け込んできた切原くんは、わたしに「悪ィ、ペン貸してくんね?」と言った。切原くんは有名だからわたしは彼のことを知っていたけれど、知り合いではない。失礼なヤツは許せなかった。


「いいけど、わたし、3年生なので。それなりの頼み方をしてくれる?」
「あっ、どおりで!こんな可愛い子2年にいたっけって思ったんスよね〜」


謝りもせず、なんて失礼なヤツだ!と改めて思うと同時に、可愛い子?と耳が動いたのも事実だった。


「とにかく、目上の人に何か頼むときは?」
「えっと、申し訳ございませんが、おペンを、おかしいただけませんか?」
「よろしい。おペンを、おかしいたいましょう」
「あざっす」


彼はニヒ、ととても嬉しそうに笑った。

それ以来、切原くんはわたしを見かけると懐っこい笑顔を携えて寄ってくるようになった。もともと人見知りなわたしにとって困惑とも呼べる存在だったけれど、わたしはそれを一度も迷惑と思ったことはない。むしろとても、嬉しかったのだ。

それはただ、わたしを慕ってくれる後輩がいるとか、かわいい弟ができたみたいとか、そんな感じだ。特別な感情など、意識したことはなかった。

しかしそれもさっきまでのことで、考えだしたら止まらない。憂鬱はだんだんと姿を現し出した。









×