愛してる


『──愛しているんだ』

 そう言った彼の顔は、ひどく苦しそうだった、と静司は記憶している。

 首に巻いた包帯は、周一の指が刻んだ赤い痣を隠すため。そこに触れると、周一に触れているような気持ちになる自分は、いよいよおかしいのだろうな、と正直思う。恋愛体質というのをもう一つ逼塞させ、悪い意味でこじらせたような。


 あなたがいる
 それだけで
 もう
 世界が変わってしまう──


 雨が降る裏庭を見渡す縁側に座って、静司は傍らの三毛猫を抱き寄せる。だが、猫はスルリと静司の腕をすり抜け、音も立てずに逃れてしまう。
「あ……」
 それ以来、もう此方には見向きもせずに、何処かへ消えた。機嫌を損ねた、というわけでもなさそうな、いかにも猫らしい気まぐれである。静司は、急に奇妙な所在なさを覚えた。
 あの雌猫には、この辺りの縁側の下で産んだ子どもたちがいる。
 最近は達者に走り回るようになった子猫の手もかからなくなり、悠然としている彼女。かと思えば親子揃って仲良く静司の布団の中に入っていたりする。

 猫になりたい、と静司は思う。

 猫なら気楽だという意味ではない。そんなことは判らない。猫の命を取り巻く環境は、ヒトのそれより遥かにシビアであるかもしれないのだから。
 そうではなくて、もっと散文的な意味だ。
 猫ならば、すり寄ったりじゃれたりするのに理由など要らない。言葉の停滞で、互いの想いを邪推しあったりすることがない。
 言語によって語り、言語によって内省するという認識をもつもの──人間とはそれを指す。どんな物質で構成されているか、どんな機能をを有しているか、実はそれは問題ではない。言語によって語り、内省しうるものは、すべからく「人間」なのだ。それが「人間」の定義なのだ。

 ──そう「妖」でさえ。

 なんという強引で過激な発想だろう。静司の提唱ではないが、「言語を越えた経験の存在は、言語以外の方法では決して伝達できない」という逆説がある。

 屋根に、腹を空かした妖の気配がある。結界の網目を通り抜けられるほどの小物だ。それは此方をじっとうかがっている。
 力の無い妖の中には時折、食いっぱぐれて我が身を維持できなくなり、消えてしまうものもある。より強い大妖の庇護のもとで暮らしているものも多いが、そうでないものはこうして、一発勝負で命を懸けて、力あるものを狙うのである。
 そして、大概の場合は死ぬ。
「………」
 言語によって語り、内省しするものはすべからく人間である──そう言いながら、妖を狩る矛盾。

 猫を愛で、人を守り、妖を討つ。

 害になるならば、いずれも同じ。何人にも益になるもの、そんなものは無い。逆もまた然り。
 判っていながら躊躇が無いのは、それが自分の役割だからだ。いつか七瀬が言っていた。人にも妖にも、その者がそうとしか生きられぬ、生まれ持った役目のようなものが、終生にして付きまとうのだ、と。
 それが性(さが)であり、業であるのだと。

 静司は、親指に歯を立てる。
 犬歯の鋭い周一なら、すぐに切れるのだろうに。そんなことを考えながら、どうにか滴る血を傍らに落とす。

 そして、立ち上がる。

 静司が立ち去ろうとするそこに、待ちきれないというように屋根から小さな雑鬼が降りてくる。
 妖力の迸る人間の血。脆弱な妖にはさぞ美味であることだろう。けれども静司はもう振り返らない。自分は其処には居なかった。妖など見ていない。
 情をかけたつもりはない。
 けれども今は──この首の痣が消えないうちは。

 人間でありたいと、再び願うようになるまでは。












「いい加減にしろ」
 執務室で呆けたように書類整理をする静司を、七瀬が抑揚をおさえた調子でなじる。いつもの慇懃さはそこには無く、表情は厳しい。
「いつになったら仕事を受けるつもりだ、的場」
「……」
「代行を当てられる案件ならまだいいが、これ以上は信用に関わる。今更判っていると思うが、クライアントは的場一門の祓い屋としての高い信用をわざわざ金で買っているんだぞ」
「そんなことは──」
「判っているのは承知の上で言っている」
「………」
 刃を突き付けるような語調は、是非を問うそれではない。
 ──けれど、判っているのだ。
 何よりも、その時々の頭主の力量と裁量が的場の旗印となる。
 的場家の家督は、その課せられた宿命ゆえに、総体的に長く務めることはできない。端的に言えば早く死ぬからだ。代替わりが速く、それだけに頭主の裁量は重く見られることになる。

 静司は、仕事ができずにいた。

 最初は不調を理由に閉じ籠ったが、日を重ねるにつれて、その不調の所在に目星をつけている七瀬は、静司を叱咤した。
「承知の上で言っているということは判っている、などとはもう言わさんぞ」
 苛立たしげに語尾を切る。だが、眼鏡の向こうの双眸は、ただ冷たいだけではない。明らかな困惑と懸念が見て取れる。
「名取か」
「…………」
 否定するのは、もう藪蛇なだけのような気がした。七瀬は大抵のことを了解している。知っていても、黙っているだけだ。
 6年越しで暖められた、名取周一との関係は、ここ最近になって一気に拗れた感がある。

 きっかけは──多分。

 静司の紅い瞳の中に蘇る、一人の少年の顔。
 そう、夏目貴志。
 羨望するほどの、恐るべき力を持った少年。同じ方向に表出する力を、決して同じようには遣おうとはしない一徹者。妖を友とさえ呼ぶ愚か者。
 孤独であった筈の周一の傍らに、この少年が居ることを知った時、強烈な激情に駆られたのを覚えている。余りに鮮烈過ぎて、保ち続ければ自身をも破壊しかねないと、目を背けた感情がある。ただ想うことさえも上手くできなくて、歪んでしまった心はまるで飛頭蛮のように伸びて、伸びて──縺れて絡まった。
 顧みて、今、ようやっと静司は理解する。
 なるほど──そういうことか。
(……そうか。嫉妬か)
 嫉妬、という言葉の語感──その言語という輪郭が、ひどく奇妙で不自然に思える。そして、今頃になって初めて感情に名前が与えられたことに、静司は失笑せざるを得なかった。
「何を笑っている」
「いえ」
 それは自嘲であった。
 敢えて擁護するとすれば、誰しも目が覚めた時、改めて自分が五体満足であるかどうかなど調べたりはしないものだ。たとえ、足の指が一本消えていたとしても、多くのものは不自由を感じるまでは気付きもしないだろう。
 ──けれども、奇しくも著名な言語哲学者は自らの著書の中でこう述べる。

『ある子どもが怪我をして、泣きわめく。
すると、
大人たちがその子どもに話しかけて、叫ぶことを教え、
さらに「痛い」という言葉を教える。
彼らは子どもに、
痛いときの振る舞い方を教えるのである』



 つまり、未だ言葉という輪郭を得られていない感覚の存在を理解することは出来ない、という極論である。子どもはこの時、痛みの表出の仕方を教えられることで、初めて痛みの存在を知る。
【痛み】は──或いはその他あらゆる総ての感覚は言語に帰結する。【嫉妬】も然り。「痛い」と感ずるのは、まさに「痛いという言葉」があるからだ、と。
「………」
 知らなかったのだ──今の今まで。考えもしなかった。嫉妬という、根深い樹。
 あの男に恋をして、身の丈にそぐわぬ想いに苦しんだ。
 ようやく有り余る思慕を身の内におさめた頃に、飛び込んできた激情。それはあらゆる感情と混ざりあって、掴み所を失った心は千々に乱れた。感覚をどう表出するものであるかというロールモデルが無いということ──つまり静司は、痛いという言葉を知らない子どもと同じなのだ。
 子どもとは違い、分別がましく振る舞うことだけは出来たけれども。
「………何故泣く」
 ファイルの上に雫が落ちる。隠したほうの眼からはもう溢れない──涙。
「……すみません」
「何故謝る──」
「……何だか最近、涙腺が弛くて困ります」
 ふ、と鼻で笑ったが、七瀬は笑わなかった。そうすると、可笑しくも無いのに乾いた笑い声が溢れて、それと同じだけ涙も溢れた。
 消え入りそうな声で、すみません、ともう一度言った。
 七瀬は答えなかった。










 ──愛している。

 そんなことが、
 簡単には出来なくて。











 首に巻かれた包帯の下は、いつしか綺麗になっていた。

 湯浴みを済ませ、寝所へ向かう途中、静司の後ろから猫がついてきた。
「おや、こんばんは」
 微笑みかけても、猫は素知らぬ顔で澄ましている。けれどその後ろからは、似たような柄の子猫がゾロゾロとついてきているではないか。しかも、四匹も。
 嬉しくなって、静司は言った。
「可愛い百鬼夜行ですね」
 コロコロと太った寸足らずの子どもたちはいずれも愛らしい。大体4〜5ヶ月くらいだろうか。まだまだ成猫ではないが、子猫というにはやや大きい。
「……一緒に寝ますか?」
 寝てくれますか?と言い直す。
 そうすると、猫はチラリと此方を見遣る──まるで、静司の言葉の機微を解しているかのように。
 猫の親は総じて賢い。危害を加える恐れのある人間の前で、子を連れ歩いたりは絶対にしない。逆に、その恐れが無いことが判明すれば、親猫は堂々と子を見せびらかしに来る。つまり、静司は信頼のお墨付き、というわけだ。
 途中、寝所へ続くの廊下の真ん中に、小さな妖が居た。静司と猫は、同時に歩みを止めた。
 それは以前、静司が血を与えた、飢えた妖だった。よく見るとそれは、円山派の絵師が描いた小天狗みたいな姿をしていた。
 何かぐったりしているのでそっと覗き込んでみると、体のあちこちに傷があり、小さな手には生々しい妖力のみなぎる巨大な風切り羽のようなものを握り締めている。
「──それは……」
 まさか、侵入したほかの妖を、その身で打ち負かしたとでも言うのだろうか。
 だが確かに、妖自身と、それが手にする羽のようなものが放つ妖力の質は明らかに異なっている。いずれも小物であることには相違ないが。
 静司は傍らの猫を見遣る。さして警戒はしていない──こういう時に、人間が半端な詮索をするよりは、いっそ鳥獣に問うほうが遥かに的確な答えをくれるのだ。
 彼らは、言語世界の住人ではない。
「………」
 ──猫を愛で、人を守り、妖を討つ。
「人間」の定義と、行動の矛盾。
 言語にとらわれ続ける人間。言語によって語り、内省するものはすべからく「人間」であるという定義。
 業とは──その者がそうとしか生きられぬ、生まれ持った役目のようなもの。言語の力によることでしか感覚の存在さえ認識することもできぬのは、決して逃れられぬ人間の業。
 ──だから、猫になりたいと静司は思った。けれども此度、知られざる感覚を言語によって識り──欠け落ちた部分が繋がり、さて、自分は人間でありたいと、再び願うようになったのだろうか?
 自省しても、答えなどあろうはずが無いけれど。

「……此処で、少し休んでいきますか?」

 静司は言った。
 小さな天狗もどきは、静司を見た。
「………」
「膏薬くらいなら持っていますよ。妖の傷にもよく効くと……………あ」
 言い終わらぬ内に、小さな妖はフワリと舞い上がった。赤い体液が、パタパタと庭の砂利の上に落ちた。どちらのものかは判別できなかったが、静司は反射的に伸ばした手を、相手がもう掴む力を残していないことを察した。事実、静司の手は何も掴まなかった。

 人間でありたいと願うことは畢竟するに、静司にとっては狩人であり続けるという選択だ。
 その自分が持っていてはいけないものが、この身にはまだたくさんある。虚空に伸びた手が、それを端的に顕している──七瀬の前で見せた、あの顔も。周一に対する狂気にも似た恋慕も。

 けれども、今、ついに思う。
 それらは果たして、本当に棄てなければならぬものなのか。
 棄てて、それが消えてしまいさえすれば、ただ、自分だけが楽になると──期待しているだけではないのか。それは恣意的で、身勝手で、自己完結的な我欲に過ぎないのではないのか。

 小さな妖は目の前で、夜気に溶けるように消えた。静司はそこに、夜天に輝く満天星を見た。

 気が付けば猫の親子は寝所を通り過ぎて、縁の下に降りてしまっていた。通じ合った、とは甚だ滑稽な誤解であったようだ。あれこそが孤高だと──静司は声無く笑った。何も掴まなかったはずの手には、かすかな痛みが残った。

 とうとう静司は独りきりだった。けれども、何かを失ったわけでは無かった。何かを得るために、失わぬために、鬼になる必要はないのだ。虚空を掻いた静司の無力な指先が、それを確かに証明した。
 ただ、ひいらぐ弓眼が見る、星の光に願わずにはいられない。
 残された道など、もう無い。

「………上手く、愛せているかな」

 淡い恋など無かった。
 一撃で墜ちた。
 燃えたなら、灰になるしかなかった。情欲はどこまでも深く、臓腑を絞り尽くされるような想いは静司を静かに狂わせた。何処かで周一も狂ってしまったのかもしれず、彼には悪夢のような日々だったのかもしれない。

 でも、気付けば、愛していた。

 愛する、とは即ち「愛する」という語彙を借りた、意志そのものだ。縺れた感情の在処を更地にできるなどという、都合のいい魔法では決して無い。
 けれども、それがあれば、首に刻んだ証など無くとも──きっと歩いていけるだろう。容易い道ではあらずとも。
 馬鹿げていると笑いながら。


 上手く愛せるようにと、
 あの空に──祈って。



【了】


作品目録へ

トップページへ



- ナノ -